早朝の出来事
「マーガレットお姉様、おはようございます。今朝は早起きですわね」
リュセットは驚いた様子でそう言った後、マーガレットに微笑みを送った。いつもならばその微笑みには春うららかな陽気さえ感じるはずだが、マーガレットはあくびをかみ殺しながら「おはよう」と言葉短く返事を戻すだけ。
なぜならばマーガレットは寝不足だった。そのしるしが目の下にはくっきりと刻まれていた。
いつもと様子が違うと感じたリュセットは、キッチンにすでに用意しておいたティーポットにすぐさまお湯を注いだ。
「昨夜は眠れなかったのですか?」
ダイニングテーブルに溶けるように寝そべっているマーガレットは、顔を上げずに小さく頷いた。
「ちょっと寝つきが悪くなるようなことがあってね」
「そうでしたか……もし私でよろしければ、お話伺いますわ。気が紛れるかもしれませんもの」
リュセットはそう言って、ティーセットをトレイに乗せてマーガレットの隣に座る。
「ありがとう、リュセット。でも大丈夫、話すほどの内容でもないの」
「そうですか。ですが、何かあればおっしゃって下さいませ。私が力になれるようなことがあればいつでも」
「リュセット……」
マーガレットはリュセットの言葉に心を打たれ、顔を上げた。リュセットは家事だけでなく、人としても尊敬できる、とても出来た子だった。最近マーガレットの心の癒しは、この可愛い義妹とこうして話をしている時だった。
「そろそろ茶葉が開いた頃かしら?」
金色の取っ手がついた上品なティーカップ。ティーポットから注ぎ入れる紅茶の湯気が柔らかくマーガレットの鼻先を撫でた。
「マーガレットお姉様、紅茶はいかがでしょうか? 温かい紅茶を飲めば少しスッキリとした気分になるかもしれませんよ」
リュセットは微笑みながらカップをソーサーに乗せ、マーガレットに差し出した。
「そうね、ありがとう。リュセットこそ、ちゃんと眠れているの?」
昨夜も暖炉のそばで眠っていたのだろう。スカートについた煤がそれを物語っていた。
「前にも言ったけれど、私の部屋と交代で使用するか、相部屋でも私は一向に構わないのよ? お母様が言ったことは気にしなくてもいいから」
初めてリュセットが暖炉のそばで眠っているのを見た時、マーガレットは一緒の部屋で寝ようと提案をした。するとそれをマルガリータがイザベラに告げ口をした。リュセットが自分の部屋が狭い上に寒すぎてマーガレットに文句を言い、部屋を交代するように言っていると。さらに、そもそも元々この家はリュセットとリュセットの父親ウィルヘルムの家で、部屋を選ぶ権利はリュセットにある。そんな事を一番歳が近い為に、文句が言いやすいマーガレットにそう言っていたのを聞いた……と、マルガリータがイザベラに言っていた。更にそのことをイザベラはまんまと信じ込んだ為、いくらマーガレットがマルガリータの言葉を否定しようとも聞く耳を持たなかったのだ。
むしろ前回同様にそうやってリュセットを庇っているマーガレットをイザベラは褒めていた。悪循環とはこの事だった。
「マーガレットお姉様。お気持ちはとても嬉しく思います」
リュセットは頭に巻いていた三角頭巾を外し、金色の豊かな髪をほどいた。
「それじゃあ……」
「ですが、私なら大丈夫です。それに、いくらマーガレットお姉様のお部屋が私の部屋より広いとはいえ、ベッドはシングルサイズですし、二人で寝るには狭いと思いますわ」
「それでもリュセットの部屋で寝るよりは隙間風も防げてマシだと思うわよ」
リュセットは微笑みながら、腰に巻いていたエプロンを外し、ダイニングテーブルの椅子にそっとかけた。
「それならば暖炉のそばの方が暖かいですから。それに、慣れれば床で寝るのも意外と快適なのですわよ」
ほのぼのとした様子でそう言うリュセットの背後に立ったマーガレットは、リュセットの両方の肩を掴んだ。
「快適だなんて嘘。硬い床で寝ているせいで身体がガチガチになっているじゃない」
マーガレットはマッサージするようにリュセットの小さな肩を掴んでいる。
「あっ、いたた、マーガレットお姉様、そこは痛いです」
「でもここがガチガチよ?」
「マーガレットお姉様……!」
リュセットは慌てて逃げるようにしてマーガレットから距離を取った。マーガレットはリュセットの愛らしい瞳が痛みで歪んだ様子を見て、ハッと我に返り、肩をすくめた。
「ごめんなさい。強く揉みすぎたわね……」
マーガレットは自分の両方の掌を見つめながら、マッサージする時の感覚を思い返していた。指の力は間違いなく衰えている。と言うよりも、力が無い。それもそのはずで、満里奈として生きていた前世では毎日のように使用していた指先とマッサージテクニックも所詮は前世での話。マーガレットというこの人物はマッサージなど生まれてこのかた、一度もしたことが無いのだ。
それでもリュセットが痛みを感じたのは、リュセット自身マッサージを受けたことが無いため、マッサージを受け慣れている人よりも筋肉の反発力や、力の圧抑に対する抗体が無いからだろう。マッサージの感覚を取り戻そうとでもするように、リュセットが痛がっていても思わず手を止めることができなかった。
「いいえ、少し痛みを感じましたが大丈夫です。マーガレットお姉様はマッサージがお上手なのですわね。私知りませんでしたわ」
「えっ、ええ、まぁ……少し独学で勉強をしている最中なの」
マーガレットの明らかにごまかしとも取れる返答と、あからさまに目が泳いでいる様子を見ても、リュセットは「そうでしたか、すごいですわ」と言って微笑んでいる。
「ひとまず私は今までの場所で満足していますので、マーガレットお姉様のそのお気持ちだけで私は十分ですわ。それにもうすぐ春がやってきます。暖炉も必要なくなる日が近いのですから」
けれどそれはまだまだ先の話。春先も夜は冷え込むし、毎年冬になれば凍てつく寒さからリュセットはあの暖炉のそばで眠ることになる。マーガレットは異議を唱えようと口を開いたが、リュセットはキッチンに置いてある買い物かごを掴んで、玄関へと歩き始めた。
「お母様とマルガリータお姉様が起きてくる前に、少し市場で買い物を済ませてきますわ」
リュセットはマーガレットとこのことについて議論するつもりは全くない。そのためそそくさと逃げるようにしてキッチンを後にした。これでこの会話はこれでおしまいだとでも言うように。
「なんだ、マーガレット上手いじゃない」
リュセットが出て言ってすぐに、廊下からほくそ笑みながらキッチンへと入ってきたのは、姉のマルガリータだ。
「それはどういう意味ですの?」
リュセットとは違い、血が繋がっているのはマルガリータの方だというのに、マーガレットはマルガリータのことはどうしても好きになれない。
いつも自分が一番だと思い、ドレスを買ってもらうのも姉のマルガリータばかり。ドレスアクセサリーもたくさん持ち合わせているというのに、そのどれ一つもマーガレットにもシェアしようともしない。特にリュセットに対しては最悪だった。サイズが小さくなったドレスですら、リュセットに渡そうともしない。いくらリュセットが着回したボロのドレスを着ていたとしても御構い無しだ。
「あんた、マッサージなんてしたことないじゃない。一度もそんな勉強しているところを見たことなんて無いわよ」
「お、お姉様がご存知ないだけですわ。最近興味を持ち始めたのです」
「ふーん、あらそうなの。へーえ」
マルガリータは意味深な笑みをこぼし、それがまたマーガレットの神経を逆なでする。
「なにが言いたいんですの……?」
「私も今度はそうやってあの灰かぶりを痛めつけて差し上げようかと思って? あの子馬鹿だから、自分が馬鹿にされてるとも知らないで、真面目にマッサージ受けようとするでしょうね。おほほ、想像しただけで笑ってしまうわ」
マルガリータは新しいおもちゃでも見つけたように、楽しそうに微笑みを零している。そんな笑みを見ているだけでマーガレットは気分が悪くなってくる。寝不足も合間って、今マルガリータの嫌味に応戦する元気はなかった。
「せっかく早起きをしたので、少し外の空気に触れてきますわ」
マーガレットが席を立とうとした時、マルガリータは昨日とは違う扇をパサリと開き、口元を隠しながらマーガレットにこう耳打ちをした。
「ほうら見なさい、言い訳しないじゃないの。マッサージなんて本当は嘘で、ああやって灰かぶりのことをいたぶろうという魂胆だったのでしょう? あの子の味方についてるフリをしながらマーガレットもやるじゃないの」
マーガレットはカッと顔が一気に赤らむのを感じ、机の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
「私はそんなつもりなんてーー」
そう言った瞬間だった。ガタンという何かがぶつかる音が耳に届き、マーガレットはハッとして音のする方向を目で追った。すると音のする場所に立っていたのは、キッチンを後にしたはずだったリュセットだ。
気まずそうな表情で微笑みながらそそくさとダイニングテーブルに置かれていた小さな財布を掴んだ。
「お財布を持って出るのを忘れてしまって……」
「リュセットこれは……」
リュセットはマーガレットの目を見ずにそのまま小走りでキッチンを後にした。マーガレットが伸ばした手は空中で止まったまま、動かない。まるで時が止まってしまったような空気を破ったのは、マルガリータの高らかな笑い声だった。
「あーははははっ。あの灰かぶりの顔ったら、最高だったわね!」
開いていた扇をパチンと閉じて、マルガリータは可笑しそうに笑い続けている。
「……お姉様はもしかして、リュセットがまだ外に行っていないことを知っていてあんな事を言ったのですか?」
マーガレットは静かに腕を下ろし、恐々と肩を揺らしながらマルガリータを見やる。鋭い眼光を放つその瞳は、まるでマルガリータを一突きにしてしまおうとでもするようだ。
「ええ、もちろんよ。そこに財布を置きっぱなしだったもの。お金を持たずにどうやって買い物をするつもりかしらって」
言いながらマルガリータはまだ笑っている。マーガレットの感情とは相反する態度のこの姉に、マーガレットはなにも言わずキッチンを出て行った。
そんなマーガレットの背中に向かって、マルガリータはこう呟いた。
「ほんと、どいつもこいつも醜いこと。……あんた達さえいなければ、ドレスを買うお金もアクセサリーを買うお金も全ては私のために使ってもらえるというのに」
*
朝霧が立ち込める肌寒い空気の中、マーガレットはどこに向かうわけでもなく、ただ闇雲に歩いていた。空気は澄んでいて、今日という日が始まる……普段のマーガレットならばそんな風にこの光景を感じるはだが、今だけは状況が違っていた。冷たい空気は肌を刺し、凍らせようとしている。朝日が昇り始める淡い色の空は、まだ朝日が昇り切らない只々薄暗い景色としか捉えられずにいた。
「リュセットはきっと、私が本当は嫌がらせをするためにマッサージしようとしてたって思ったのかな……それとも普段からリュセットには猫かぶってるって思われたのかな。本当は自分のことなんて好きでもなんでもないくせにって」
いつになくネガティブな考え方に、思わず自嘲気味に笑った。
マーガレットは焦っていた。リュセットにマーガレットは姉や母親と同じで自分を痛めつける対象なのだと思われたらどうしよう、と。実際のところ、リュセット側についたところで、バッドエンドが回避できるかはわからない……そう思っていたにも関わらず、それでもできることは全てしたいというのがマーガレットの想いだった。
それに、マーガレットはリュセットとせっかく仲良くなれてきていたのだ。前世では兄弟姉妹がいない一人っ子だったため、リュセットのように可愛らしく、気の利く妹ができて嬉しい気持ちも芽生えていた。それだけに、あのリュセットの態度はマーガレットにショックを与えていた。
「考えてても埒が明かない……いっそのこと、リュセットに謝って誤解を解こう」
スゥーッと肺の深いところまで息が届くように大きく息を吸い込み、吐き出した。吐き出す時は細く、長く。肺の中の空気を全て吐き出すように。
マーガレットはそれを何度か繰り返した。くよくよと悩んでいる時やストレスを感じた時はきちんと呼吸をするのが大切で、マーガレットは満里奈の時から何かあればこうやって呼吸を整える癖をつけていた。そうすることで新鮮な酸素が肺だけではなく、血液に乗って脳まで届き、物事がよりクリアになるからだ。
何か考え事をする時やストレスを感じた時というのは、人間どうしても呼吸がおろそかになる。そうすると脳がきちんと機能しなくなると、昔働いていたマッサージサロンの店長がそう言っていた。それ以来満里奈はこの行動をする癖が転生しマーガレットとなった後でも続いていた。
「よし、そうと決まれば市場に行って……って、ここ、どこ?」
街を少し抜けたところを歩いていたはずが、気がつけば身に覚えのない林の中。この間散歩で行った森とも違う。
どこかで水が流れる音が聞こえる。それはきっと小川だろう。小川であれば、それを辿って行けば間違いなく街に流れる水路へと続いているはずだ。
いくら考え事をしていたとはいえ、そんなに遠くへは来ていないはず。そう踏んだマーガレットは音のする小川へと向かおうとしたーーその時だった。
「……!」
背後から突然何者かに腕を掴まれ、マーガレットはいともたやすく地面に叩きつけられた。
それはあっという間の出来事で、驚きの声を上げることもできず、ただ今自分の身に起きている状況を必死に飲み込もうとした。
「へへっ、上玉じゃねーか」
マーガレットの腕を掴み、地面に叩きつけた男は薄汚い衣服に身を包み、頭にはターバンを巻いている。男はいやらしい笑みを浮かべ、並びの悪い歯を舌舐めずりをした。
マーガレットは、本能で悟った。このままではやばい、と。
「……だ、だれーー」
震える唇を懸命に動かし声を発したが、男はいとも簡単にマーガレットの小さな口を汚れた手で塞いだ。
「おおっと、声を出すんじゃねーぞ。誰かに助けを呼ぼうったって、そうはいかねーからな」
「って、こんな街外れの早朝じゃあ誰もこねーよ」
マーガレットに覆い被さりながら口元を押さえている男とは別に、もう一人男の背後に立っているのはきっとこの男の仲間だろう。
「それもそうだな。それじゃ、俺たちとじっくり楽しもうぜ」
男はマーガレットの口から手を離し、その薄汚れた手でマーガレットのドレスの裾を手繰り寄せた。
「い、いやーー」
そう言った瞬間、ザンッーーと耳のそばに何かを突き立てられた音に、マーガレットの声はかき消された。
「声出すなつっただろうが!」
顔のそばに打ち立てられたもの、それは刃の鋭いナイフだった。それを目の端で捉えたマーガレットは、喉を震わせながら溢れ出す涙が頬を伝って落ちていく。それが落ちる様を感じながらも、微動だにすることができなかった。それを拭うことも叶わず、咽び泣くこともできないマーガレットの様子を見て、男は再びニヤリとほくそ笑んだ。
「初めからそうやって大人しくしてりゃいいんだよ」
男は再びドレスの裾を手繰り寄せ、徐々に露わになるマーガレットの生足に触れた。マーガレットの涙は止まるどころか溢れるばかりだ。そんな涙を男は蛇のようにくねる舌を伸ばして舐めとった。
男が触れる手に不快感を感じながら、ただ頭の中では昨日出会った男に言われた言葉がこだました。
『ーーいつ山賊が現れるとも限らんからな』
自分の不甲斐なさと無力さに、マーガレットは転生したことを後悔した。転生をしたのはマーガレットの意思ではなないが、それでも後悔せずにはいられなかった。
図書館で本棚の下敷きになり、気がつけばこの世界で別の人間として生を受けていた。けれど、そんな運命にさえ、今のマーガレットは憎悪を感じずにはいられなかった。
(前世のままで、満里奈のままで死んでいれば、こんな屈辱を味わわずにすんだのにーー)
マーガレットはそっと瞳を閉じた。どうか今度は転生などしませんように、そう念じながら。
するとーー。
「下郎が、その薄汚い手をどけろ」
今度はさらに別の声。
「なんだとーーひっ!」
どうやら状況がおかしいと気づいたマーガレットが、ゆっくりと再び瞳を開くと、そこにはーー。
「おい山賊ども、お前ら運がいいな。今日の俺は機嫌がいいからな……」
マーガレットの体に覆いかぶさっていた山賊は、背後から頬に当てられた剣に恐れ怯えていた。さらに後方にいたはずのもう一人の男は、空を仰いで倒れている。
「……そこで伸びてる仲間を連れて、さっさと消えろ。次見つけた時は容赦なくーー殺すからな」
ドスの効いた声に、背筋が凍る。昇り始めた朝日の木漏れ日が男の背後から差し、上質な金の髪がマーガレットを捉えた。
「ひっ、ヒィ!」
背後から伸びる剣先を避けながら、男はマーガレットの身体から飛びのき、倒れている仲間を担いで慌てて逃げて行った。
「あ、なたは、昨日の……」
マーガレットを助けた男は、金色に輝く髪、青い瞳。
その声、その風貌はまさに昨日森で会った、あの男だったーー。