警告
*
「……お……」
声が聞こえる。ずっと暗闇の中、何も聞こえない闇が広がる世界の中で、マーガレットは一人屈みこんでいた。
「……お姉様……」
声が再び耳に届く。さっきよりもはっきりと聞こえたそれは、とても馴染みのあるものだった。
「……マーガレットお姉様」
そう、この声は、マーガレットのよく知る可愛い妹、リュセットの声だった。
「……リュ、セット?」
ゆっくりと瞼を押し開けた。声の相手を確かめようと目を開けたにも関わらず、太陽の日差しが眩しくて、再び目を閉じてしまった。
「良かった……帰ってきたらマーガレットお姉様がこんなところで座ったまま動かないので、心配になってしまいましたわ」
ホッとした様子が、その声から十分に伝わって、思わず微笑みをこぼす。マーガレットはプラタナスの木にもたれかかるように座り、そのまま居眠りをしていたようだ。
「どうやら、眠ってしまっていたようね……」
もたれかかるように座っていた上体を起こし、プラタナスの木を見上げた。あの木の枝の上には、不思議な女性が座っていた。プラタナスのアリスと名乗った女性。
(……あれは全て、夢だったのかな)
そう思ったところで、頭に鋭い痛みが走り、思わず手で頭を抱えた。
「大丈夫ですか、マーガレットお姉様」
「ええ、少し頭痛がするみたい」
リュセットはマーガレットが今朝渡したショールをふわりと肩にかけてやる。
「こんな寒いところでうたた寝をしていたからですわ。さぁお風邪を召される前に中へ入りましょう。暖かい紅茶をすぐに入れますわ」
テキパキとした様子でリュセットは立ち上がり、家の中へと戻ろうとした瞬間、彼女は「あら」と言って足を止めた。
「こんなところにネックレスが……マーガレットお姉様のものでしょうか?」
そう言ってプラタナスの木から生えた小枝にかかっている、シルバーのネックレスを手に取った。そのネックレスはカインから預かったもの。マーガレットは手を開き、そこにそれがないことを確認してから慌てて立ち上がった。
「それ、私のだわ!」
リュセットの手から奪い去るようにして掴んだネックレス。その様子に驚きながらリュセットは小さく首をかしげた。
「それはお城の紋章ですわね?」
「え、ええ……実はこれ、カインからの大切な預かりものなの」
カインの名を言葉にした瞬間、マーガレットは手紙のことを思い出した。
「そういえばリュセット、カインには会えたのかしら?」
これでリュセットが会えなかったのならば、もうきっとカインと会える機会はないだろう。カインとの接点はそれほどに薄っぺらで、脆いものだった。
リュセットにがぶり寄るようにして、彼女の小さな肩を両手で掴んだ。すると、リュセットは申し訳なさそうな顔をして、マーガレットから目を逸らした。
それが答えだと瞬時に理解したマーガレットは、掴んでいたリュセットの肩を力なく解放した。
「残念ながら、お会いできませんでした」
カインと会えなかった。リュセットはカインを見つけられなかったのだろうか。街の外で待っていると、黒馬に乗っていると言っただけで大した特徴を伝え漏れていたのが原因だろうか。けれど街の外はいつも人気が少なくそのため、それだけの情報でも見つかると確信していただけに、後悔の色がマーガレットの表情に浮かんだ。
「マーガレットお姉様、落ち込まないでください」
落ち込むなと言われても、気持ちを保つのはなかなか難しいと感じていた。
カインは今日の約束を忘れていたのだろうか。それとも、元々もう会うつもりなんてなかったのだろうか。そんな風に負のイメージばかりが先行し、手に握りしめていたネックレスをそっと指でなぞる。そうするとなぜか気持ちが落ち着く気がしていたが、今は何も変わらない。
「カイン様にはお会いできませんでしたが、代わりの方がお見えでしたわ。ですからマーガレットお姉様のお手紙はその方にお渡ししております」
「……代わりの方?」
萎みかかっていた気持ちが、マーガレットの顔を下へ向ける。けれどリュセットのその言葉は一筋の希望の光に思え、無意識にネックレスをぎゅっと掴み直し、顔を上げた。
するとリュセットは陽だまりを感じるような柔らかな笑顔でこう言った。
「はい。なんでもカイン様が用事があり来るのが難しいと伝言を仰せつかったとの事でした」
「そう、だったの」
カインも予定があり、これなかった。しかもその言伝をわざわざ人に頼んだということは、カインもまたマーガレットと会う気があったということ。そう考えると、さっきまで暗闇の中に落ちていた気持ちが、どんどん明るく膨れていくのを感じていた。
「あの方がマーガレットお姉様のお手紙をきちんと届けてくださいますわ。ですからお姉様、安心してお茶の時間にいたしましょう」
リュセットが裏口から部屋の中に入ろうとするその背中を見ながら、マーガレットも安心した気持ちで足を踏み出した。けれどその瞬間、地面がまるで生クリームのように溶けた。少なくともマーガレットはそのような感覚がして、自分の体が傾いていくのを感じた。
(……あ、あれ……?)
ゆっくりと自分の体が宙に舞うように、傾いていく。
「マーガレットお姉様……!」
そう叫ぶリュセットの声がどこか遠くで聞こえるように感じられる。まるで水の中にいるように、リュセットの声は何かに隔たれて、反芻しているかのように。
天気の良い空を仰いだと思ったら、マーガレットは再び闇の中へと溶けるように落ちていった。
*
ふと目を開けると、マーガレットはベッドの上に横たわっていた。むくりと上半身を起こし、あたりを見やると部屋の中は薄暗く、夕日の朱が部屋の中を染め上げている。
「……あれ、私なんでベッドに……?」
ゆっくりと記憶を辿る。細い糸を手繰り寄せるように、この状況を必死に思い出していた。
「確か、リュセットと裏庭で話をしていて、それから……」
ベッドのそばにはブックライトが小さな明かりを照らしている。そのライトの下には埃がかかるのを避けるためにかけられた布があり、布をのけるとその下にはパンとスープ、そしてグラスに入った水が置かれていた。食事のすぐそばには小さなメモがあり、メモにはリュセットの字でこう書かれていた。
熱があるようなので、少しでも何か口になさって下さい。
薬は水の横に置いておきます。
ーーリュセットより
その手紙を読んで、やっと状況を理解した。裏庭でマーガレットは倒れたのだ。あんなところでうたた寝をしてしまったせいかもしれない。
体が重く、節々が痛い。喉はカラカラだった。熱いと思うのに、同時に寒いとも感じるこの感覚には身に覚えがある。マーガレットはリュセットの用意してくれているスープを二口飲んで、薬を水で流し込んだ。
「……苦い」
良薬口に苦し、とはよく言ったものだ。その苦味に顔を顰めた時、窓の外で何かが動く影が見えた。夕日がそれにより遮断されて、マーガレットは無意識に窓の外へと目を向けた。すると思わずハッとし、息が止まりそうになった。
「……えっ、どうして……?」
蜂蜜のような美しい金色の髪が、朱の色によって焼いたカラメルのように輝いている。逆光で影が差したその表情は、たとえ今は見えなくともどういうものなのかが、マーガレットには手に取るように分かっていた。
透き通るような海の色をその瞳に宿し、少し神経質そうな凛々しい眉。その眉に引っ張られるように鋭く尖る目尻。スッと筋の通った鼻を下れば薄い唇がいつもこう言う。
「マーガレット」
マーガレットは慌ててベッドから飛び起き、窓辺へと向かった。信じられない光景に、これもまた夢なんじゃないかと疑心暗鬼に陥る。そんな感情が窓の鍵へと伸ばしたマーガレットの手を止めた。
『やめた方がいいわよ』
そんな声が耳の奥で響いている。アリスと言う名の女性。彼女がマーガレットに警告し続ける。あれは夢だったのだ。そんな風に思う反面、あれは本当に夢だったのだろうかと思う気持ちも湧いてくる。
『彼とは会わない方がいい』
アリスの言葉がマーガレットを今だに警告し続ける。どうしてそんなことを言うのか。どうしてカインと会ってはいけないのか。
マーガレットは窓ガラス越しに、カインの瞳を真っ直ぐに見つめた。すると、カインはそっと窓に手を当てた。それはマーガレットが鍵を開けようか迷っているその手と重なるように。
「マーガレット、お前からの手紙を受け取った」
そう言って、カインは再びマーガレットを見つめる。窓ガラス越しに重ねた手をぐっと握りしめた後、カインはゆっくりと目を伏せた。
「俺はお前の顔を久しぶりに見て、話がしたいと思ったのだ」
ゆっくりと手は窓から離れていく。その様子に、マーガレットの手には力が加わった。手を伸ばせば届く距離にカインがいる。マーガレットもカインに会って、話がしたいと思っていた。
出会いは最悪。こうして会うようになったのもマッサージというきっかけがあったため。出会って間もないというのに、どうしてそんな風に思うのか、マーガレットは不思議で仕方なかった。
『やめた方がいい』
「会いに来て、悪かった」
アリスの声がカインの言葉と重なって聞こえた。と同時に、カインはマーガレットに背を向けた。それが合図になったかのように、マーガレットは窓の鍵に手を掛け直し、窓を大きく開いた。
「待ってカイン。私も約束を破ってごめんなさい」
窓の桟に片手をつき、そのままぐっと身を乗り出してカインのジュストコールの裾を掴んだ。すると、熱に侵された体は自分が思うよりも重く、体に力が入らない。そのせいで片手では体を支えることができなかったマーガレットは窓の外へ向かって落ちていく。
(また、倒れる……!)
そう思い、硬く瞼を閉じた瞬間、ふわりと甘い香りがマーガレットを優しく包んだ。
「まったく、おてんばは相変わらずだな」
そんな声がマーガレットの耳元を優しく撫でた。
甘い香りに酔いしれそうになりながらも、気を抜くと意識が遠のいてしまいそうだった。せっかくカインと会えたのだ、また意識を失うわけにはいかないと、マーガレットは唇を噛み締めた。するとーー。
「……熱いな」
マーガレットの額に、カインの手がそっと当てられる。外は冷えているせいか、カインの手はとても冷えている。しかしそれが今のマーガレットにとってはとても心地が良い。
「熱があるのか?」
部屋の中を覗き、ブックライトの下に食事と飲み干した薬の包み紙を見つけたカインは、マーガレットを抱きあげながら窓から部屋の中へと足を踏み入れた。
「ゆっくり眠れ。病の時はそれが一番の特効薬だ」
カインは優しくマーガレットをベッドの上に運び、キルトをかけてやる。そのままカインが窓から部屋を出て行こうとすると。
「待って、行かないで……」
マーガレットは甘えたような声で、カインのジュストコールを再び掴んだ。少し驚いたような顔でカインは振り向いた後、再びマーガレットのベッドのそばに寄り、ベッドの端に腰をおろしてマーガレットの手を握りしめた。
「眠るのは怖い。嫌な夢を見そうなの」
子供のようにそんなことを言うマーガレット。けれどそう言いながらも瞳はまどろんでいる。カインはマーガレットの額にかかった髪を優しく押しのけ、そこにキスを落とした。
「俺はお前が眠るまでここにいる。だから安心して眠れ」
甘い甘い香り。ローズとジャスミンを思わせるような、妖艶で、それでいて安心を誘うような、甘い蜜の香り。その香りが部屋に充満し始めた頃、マーガレットは溶けるように眠りに落ちていった。今度は夢も見ず、不安も恐怖も感じず。あのアリスという女性の声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
*
「……やっと、眠ったか」
カインはマーガレットの寝息が一定に落ち着いたのを確認し、ずっと握りしめていた手を解いた。ベッドサイドボードの上に食事の残りとリュセットのメモを見た後、そのすぐ近くにはあのネックレスが置かれていた。
カインはネックレスを掴み、ブックライトに照らしながらそれを見つめた後、それをそっとマーガレットの首元につけた。しばらくマーガレットの寝顔を見つめながら、紋章が刻まれたネックトップのプレートにキスを落とし、そしてマーガレットの額に再びキスをする。
「不思議なやつだ」
誰にいうわけでもなく、ぽつりとそう呟いた後、カインはポケットに入れていた一通の手紙を取り出した。それはマーガレットから受け取ったものとは違い、裏には赤い蝋封がされている。
窓の外に置いてあった大きな箱を取り、それをマーガレットのベッドのそばに置いた後、手紙をそこに乗せた。
カインは再びマーガレットを見下ろしながら、ブックライトに手をかける。するとカチリという音と共にライトは消え、辺りは闇に飲まれた。
「またな、マーガレット」
そんな言葉とともに、ライトを消す音よりも小さなリップ音が部屋の中に響いたが、それもやがて闇に飲まれていったーー。