不思議な女性
「リュセットはちゃんと、カインに会えたかな……?」
そう呟くマーガレットの手の中には、カインから預かったネックレスが握られていた。
部屋の中にいても刺繍をする気になどなれず、外の空気を吸うために裏庭のプラタナスの幹に腰を下ろし、ぼうっと意識を飛ばした。今マーガレットの頭の中は、カインのことでいっぱいだった。約束をしたにも関わらず、それを破ったマーガレット。もしかしたらカインは怒るかもしれない。約束も守れない女だと罵るかもしれない。もしくは体が疲れて、マッサージを心から受けたくて仕方がなく、それなのにマーガレットは来ないと知り、幻滅するかもしれない。
そうなればもう、カインはマーガレットに会いたいなどと思わないかもしれない。この世界でせっかく見つけたやりがいが、消えてしまう……そう考えると居ても立ってもいられない気持ちになっていた。
「もしカインが手紙の返事をくれなければ、このネックレスは返しようがないわね……」
カインはこれをマーガレットにあげるつもりだった。騎士の功績を讃えた証である王族からのネックレス。そんな大層なものもらうわけにはいかないと思ったからこそ、マーガレットはこれを預かると言ったのだ。けれどカインがもし、今回のことでマーガレットに幻滅していれば、このネックレスはカインと次に会うきっかけにはならない。行き場のなくなったネックレス。そのトップにつけられたシルバープレート。そこに刻まれた王家の紋章をそっと指でなぞりながら、ふと思い出したのはカインの笑顔だった。そしてカインがこのネックレスを弄ぶように触れた様子を思い出し、その後そこにキスを落とした。それはあの日、カインがしたのと同じように。
「やめた方がいいわよ」
それは突然の声、だった。思わず顔を上げたマーガレットは辺りを見渡した。誰もいないと思っていた。誰の気配も感じなかった。それなのに、突然現れた声に思わず体が飛び跳ねた。
「……誰?」
確かに聞こえた声。だけど辺りを見渡しても、人の気配はない。空耳かもしれない、そんな風に思っていた時、声が再び降ってきた。
「こっちよ」
そう、それは文字通り、マーガレットの頭上から降ってきたのだ。マーガレットが顔を上げると、プラタナスの木のの枝に座ってこちらを見下ろしている、女性。
「あ、あなたは……?」
見覚えのない顔。そして、見覚えのない身なり。しかも人の家の敷地内で、裏庭の木の上で勝手に居座っている人物に見覚えなどあるはずがない。
女性から距離を取るように、マーガレットは立ち上がり、再び女性を見上げた。すると、そこには女性の姿はなかった。
「あっ、あれぇ?」
目を擦り、木の根元から覗き込むように上を見上げる。見間違えだろうかとも思ったが、そんなはずはないという考えがマーガレットを混乱させる。あんなにはっきりと人の姿が見えたのだ。その上声も聞こえた。それは一度ならず2度までも。
けれど、それならあの女性はどこにーー?
「誰をお探し?」
「ひゃあ!」
思わず体が飛び跳ねた。それもそのはず、マーガレットの背後からあの女性が現れてマーガレットの背中をつついたのだ。
「そんなところに私はいない〜。私はここにいるのだから〜」
よくわからない歌を口ずさみながら、女性は両手を広げてくるくるとその場を回っている。
どう考えてもおかしな人だ。彼女のドレスは質素なカーキ色をしたロングドレス。それはこのプラタナスの木と同じような色で、装飾などの飾り気も一切なく、体のラインが見えないようなドレスだ。そんな女性の額にかかるように、後頭部で結ばれた紐。ちょうど額の真ん中にくるように、青い雫型の宝石が取り付けられている。
「あなたは、誰なのですか?」
くるくるとドレスの裾を広げながら回っていたこの女性は、マーガレットの言葉を聞いてピタリと回るのをやめた。
「あなたこそ、誰なの?」
表情は笑っている。朗らかな春先の暖かさを感じるほどの笑みを携えている。そう思える表情をしているはずなのに、マーガレットにはそんな暖かみが感じられなかった。
「私は、マーガレットと申します。この家の住人ですわ。そういうあなたこそ、どこから来たのでしょう」
人の家の敷地に勝手に入り、裏庭のこの木に登っていた一風変わった女性。マーガレットは警戒を始めていた。すると再び女性はくるくるとその場を回り始める。
「あなたはこの家の者ではない〜。私は知っている〜。私だけは知っている〜」
「なんて失礼な方なのでしょう。あなたが何を知っていると言うの? 私はこの家のーー」
この家の住人です。そう言おうとしたが、くるくると踊るように回る女性はピタリと動きを止め、と同時に、マーガレットの鼻先を少し褐色の良い指でツン、と突いた。
「いいえ、あなたは違うわ。あなたはマーガレットではないわ。以前のマーガレットとは違う匂いがするもの」
思わずゴクリ、と生唾を飲んだ。背筋をひやりとした汗が流れた気がした。そんな様子を見て、女性は再び微笑み、くるくると周り出した。
「あなたは違う〜。マーガレットとは違う〜。あなたはだあれ〜。あなたはだあれ〜」
「……私は……」
ドレスの裾をぎゅっと握り、マーガレットは行くあてもなく視線を泳がせた。
この人は知っているのだと。この人は自分が本当はマーガレットではないと知っているのだと。きっとこの人は自分が転生してやって来た人間だと気づいているのだと。この人が何者で、なぜそれに気づいたのかは分からない。けれど彼女が言ってることは的を得ている。そう感じずにはいられなかった。
一度下唇に歯を立てた後、マーガレットは女性に向かって吠えるようにこう言った。
「私は、マーガレットですわ」
そう言って、手に持っていたネックレスを両手でぎゅっと掴んだ。
「もしマーガレットでないのなら、私は誰なのか、私自身わかりません」
自分は一体誰なのか。もしマーガレットでないと言うのであれば、ここでこうしてマーガレットとして生活している自分は誰だというのか。
「……そうね。あなたはマーガレットかもしれない」
そう言って女性は回るのをやめ、笑うのもやめた。まるで夢でも見ているような夢うつつな表情をしているこの女性は、さらに言葉を紡ぐ。
「けれど、あなたはどこから来たのかしら? 私の知るマーガレットとは違っているわ。ウィルヘルムが再婚し、この家にやって来た頃のあなたと今のあなたでは、匂いが違う。あなたはそこに立っているけれど、立っていない。そんな風に私には感じるの」
女性はマーガレットの顎をその細い指先でクイっと持ち上げた。
「だってあなたは元々……この世界の住人ではないわよね?」
「……あなたは、一体何者なの?」
女性から距離を取ろうと背後に一歩下がると、踵にぶつかったのはプラタナスの木。それをチラリと盗み見て、再び女性と向き合う。が、女性はもう目の前にはいなかった。
「私はアリス。この家にリュセットが生まれる前から、そしてウィルヘルムがこの土地を買う前からいる者」
再び声はマーガレットの頭上から聞こえる。マーガレットが顔を上げると、そこにはもうアリスはいない。すると今度はマーガレットの背後から声が聞こえた。
「私は知っている〜。この物語がどうなるのかを〜。この先どういうストーリーが待ち受けているのかを〜」
アリスは歌う。踊らず、回らず、笑顔を見せず。ただただ、淡々とそう言いながら、マーガレットの両手を背後から掴んだ。
「やめた方がいい〜。あなたはやめた方がいい〜。彼とは会わない方がいい〜」
「どういうこと?」
アリスの手を振り払いながら振り向くと、今度は少し離れたところにアリスは立っていた。彼女が手を広げると、その細い指に引っ掛けられていたのは、カインのネックレスだ。そのネックレスを夢見心地な様子で、見つめている。
マーガレットは慌てて両手を開き、先ほどまでそこにあったそれを探す。が、ネックレスはもう手の中にはなかった。
「返して!」
マーガレットがアリスに向かって駆け寄り、彼女の手の中にあるネックレスへと手を伸ばすが、その手をひらりとかわし、アリスは逆に彼女の腕を掴み、そのままマーガレットを引き寄せた。
「彼とはもう会わない方がいい。それがこの世界のため。そしてそれはーーあなたのためでもあるのよ」
耳元で囁かれたその言葉の意味を確認しようとしたけれど、辺りは突然暗くなる。今まで上映中の映画が突然終わり、緞帳が閉まり出すように。太陽の光を眩しく感じていたはずの景色が、色をなくし、やがて闇に飲まれ始める。
「どういうこと? どうなってるの?」
マーガレットは手探りで辺りを歩き回る。が、何も掴めなければ、何もない。さっきまでそばにあった草や木。いくら歩いてもそれらに手が届かない。どんどん闇は濃くなり、やがて全ては闇一色になる。暗く、心細い、ただの闇。
「誰か、誰かいないの!?」
声を上げたところで、誰に届くわけでもなく、誰かが返事をするわけでもない。
「……!」
やがては、自分の声すら聞こえなくなった。
マーガレットは両手で顔を抑え、うずくまった。けれど自分の両手は自分の顔を抑えているのか、自分はちゃんと屈めているのかすらわからない。全ては闇で、全ては無だ。音もなく、光もない。
「ーーあなたが向かおうとする先は、こういう未来が待ち受けている」
何もない暗闇の中で、その声だけが聞こえた。それはアリスの声だった。笑っている様子も、怒っている様子もなく、ただ無の感情でそう言っているように聞こえる。
「私はアリス。プラタナスのアリス。私は世界のあり方を知っている」
聞こえるけれど、それはどこから聞こえているのかも分からない。マーガレットのそばからなのか、はたまた離れた先なのか。それともーー。
「忘れないで、私の言葉を」
それが、マーガレットに届いた、アリスの最後の言葉だったーー。