約束の日
ーーあれから気がつけば一週間後の約束の日。
マーガレットの裁縫技術は少しずつだが伸びていた。けれど、何度か仕上げた刺繍をイザベラに見せたが、イザベラの満足のいく出来のものには至っていない。
「これじゃ、まだまだだね」
針に糸を通す毎日。正直マーガレットはマッサージをする側ではなくされる側に回りたいと思うほど、肩はズンと重く、背中はピリリとした痛みが常について回っていた。
「ですがお母様、私は毎日お母様に言われた通り裁縫の練習を続けています。ですので、少しは上達したとは思いませんか?」
目標の紋章すら縫えていない状態だが、今ではハンカチの角に小さく花の刺繍を施すこともできるようになっていた。それもこれも先生であるリュセットの教え方が上手なのと、根気よく付き合って教えてくれていたおかげだろう。
「初めに比べればね。けれどこれじゃ人様にお見せできる仕上がりじゃないって、自分でも分かっているだろう?」
「……」
そう言われるとさすがに言い返す言葉がなかった。今ではマーガレットの指先は針の穴だらけだった。その指が報われないとでも言いたげに、一言くらい褒めの言葉があってもいいのではないかと、マーガレットは思っていたが甘かったようだ。
「お母様のお言いつけを守り、家で裁縫をしています。あれから一週間になりますが、そろそろ外に出てもーー」
「何を言っているんだい。ダメに決まっているだろう」
イザベラはマーガレットが言いたいことを知っていたかのように、あっさりとマーガレットの言葉をもみ消した。
「ですが、いくらなんでも家の中ばかりいると運動不足になります。それに時々は外の空気を吸ってリフレッシュしたいのです」
「言ったろう? 母の約束を守れないうちは許さないと」
この言葉にマーガレットの頭はカッと熱が上がる。
「あれから私は一度も外には行ってませんわ!」
「それは当たり前だよ。約束というのは裁縫の方だ。まだ全然上達してないじゃないか。もっと練習おし」
「しています! これからもするつもりです。ですのでーー」
バサッと激しく扇を広げ、イザベラは席を立った。
「私はマーガレット、あなたの将来を案じて言っているんだよ。それがわからないのであれば、分かるまで外出は許しません。部屋には定期的に覗きに行くから、間違っても抜け出そうとなんてするんじゃないよ」
「お母様!」
イザベラは振り向きもせずダイニングを後にした。
「……どうしよう」
カインとの約束の日は今日だ。そろそろ家を抜け出さないと約束の時間には間に合わない。
(どうする……? いっそのこと、こっそり抜け出してしまおうか。ううん、でもそれじゃダメだ。お母様が言ったようにきっと部屋にやってきた時、私が部屋にいなければ多分この先一生家からでれなくなる)
机の上に置いていた手をぎゅっと握りしめ、奥歯を噛み締めた。
毎日裁縫の練習をしていた。少しずつだが、腕は上がっていたと実感していた。それでも見るに耐えない技術だが、初めの頃に比べれば変化は目に見えていた。それは全てこの日のために。ーーだけど。
「マーガレットお姉様、お母様とはどうでしたか……?」
リュセットはマーガレットの様子をうかがうようにして、裏口からダイニングへと現れた。けれど、マーガレットの様子を見て、その答えは一目瞭然だった。
「やはり、ダメだったわ。外に行って時間を潰すよりももっと練習をしなさいって。この程度の出来では満足されないとは思っていたけれど……」
そう分かっていた。分かっていたけれど、少しでも期待していただけに余計悔しさがこみ上げていた。
「マーガレットお姉様がおっしゃっていた人と会うお約束の日とは、本日ですわよね?」
「そうなの、それが一番困ったわ……」
そもそもこれだと行けない理由すら伝えることができない。前世のようにこの世界にはインターネットという便利なものも、スマホなんていうものも、もちろん存在しない。手紙を出そうにもカインの家の住所など知るわけもなく、そもそも約束の時間は今にも迫っているのだ。住所を知っていたところで、間に合うわけもない。
「リュセット……お願いがあるのだけれど……」
「はい、なんでしょう?」
マーガレットの言うお願いとやらに皆目見当もつかない様子で、リュセットは小首を傾げた。肩に乗せられていたリュセットの手を両手で掴みながら、マーガレットは彼女と向き合う形でこう言った。
「今から手紙を書くから、それを私の代わりに渡してきてもらえないかしら?」
マーガレットが出れなくても、リュセットなら外に出られる。それもイザベラに咎められることも、怪しまれることもなく。
「それは、今日会う予定だった方にですわね?」
「そうなの、もしリュセットがいいと言ってくれるのならば……」
リュセットは微笑んで胸に手を当てた。
「もちろんですわ。お任せ下さい」
誰よりも背が低く、華奢なリュセットがこれほどまでに大きく、頼もしく見えたのは初めてだった。
「ありがとう。早速なのだけれど、手紙を急いで書くからこれから持って行ってもらえるかしら?」
「わかりましたわ。私も出かける支度をいたします。ちょうど買い物にも行こうと思っていたところでしたので」
「ありがとう。少し待っていて、手紙を書いてすぐに持ってくるわ」
リュセットの手を再び両手で握り、そこに額を当てて感謝の意を述べた。その後すぐにバタバタと部屋まで一目散に駆けていき、部屋の引き出しの中に入れていた便箋を一枚掴んだ。
親愛なる カイン
ごめんなさい。今日会うと約束をしていたのに、会えません。
しばらくの間、家から出ることができなくなりました。
お母様のお許しが出るまで出られないのです。
そのため、次に会う約束ができないことをご了承ください。
そこまで書いて、ペンを止めた。続きをなんと書くのか考えている様子だ。ペンの先を左右に揺らしながら、マーガレットは窓の外を見やる。そこには青空が広がり、小鳥のさえずる声が聞こえる。
(これではまるで、籠の中の鳥のようだわ)
自由に動くこともしたいと思うことも満足にできない。堅苦しくも古臭いしきたりや息が詰まりそうなほど締め付けの苦しいドレスで着飾り。窓の外にいる鳥の方が幾分も自由だ。
「せめて手紙の中では自由に……」
ペンを握りなおし、再びそれを走らせる。先ほど書いた文字の一番下に、この二文を追加して。
不思議と私はカインに会いたいと思っています。
ですからまた、すぐに会えることを心から願ってーー。
マーガレットの名前とこの家の住所を手紙の最後に記載し、それを封筒に入れた。
住所を記載したのは念のためだった。手紙を送ったあと、カインがもしかすると返事を書いてくれるかもしれない。そうすれば今後もコンタクトを取り合うことができる。そうなれば、イザベラから外出許可が出た際にマーガレットは再びカインにそれを知らせて、会うことができるからだ。
「よし!」
手紙を握りしめ、ダイニングへと再び戻る。するとそこにはすでに出かける支度を整えたリュセットが待っていた。
「マーガレットお姉様、書けましたか?」
「ええ、これをお願いできるかしら?」
白い封筒に入った手紙を受け取ったリュセットは買い物カゴの中にそれを入れて上から布を被せた。
「街の入り口にいるカインという男性にこれを渡してくれたらいいから。きっと黒い馬を連れてるわ」
「分かりました」
リュセットが家を出ようとしたところで、マーガレットは彼女を再び引き留め、肩に掛けていたライトグレーのショールをリュセットの頭から被せた。
「今日は寒いわ。風も強いみたいだからこれを被って行くといいわ」
リュセットは顔の下でそれを掴み、微笑みを零した。
「ありがとうございますマーガレットお姉様。行ってきます」
そう言ってリュセットは蝶が舞うように駆けて出て行った。