リフレクソロジー
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「それではリュセット、ベッドに仰向けになって寝てくれる? 足首がこの丸めたタオルの位置にくるようにお願いね」
紅茶の温度がすっかり冷めた頃、マーガレットはあのリュセットから借りている服に着替え、リュセットは指示された通りにベッドに横になった。
ベッドの足元ギリギリにタオルを敷き、さらにその下にはロールケーキのように丸めたタオルを入れている。山のように膨らんだタオルの上に足首を乗せるとちょうど足先がベッドからはみ出る形になる。リュセットが横になった後、枕の位置をリュセットに合わせて変えてあげ、キルトを体にかけてから足元に置いてあった椅子に座った。
「紅茶を飲んでおいてよかったわ。手が温まってる」
マーガレットはキッチンから取ってきておいたオリーブオイルを、少しだけ手に乗せた。とろーりと少し重めなオリーブオイルを手の上で温めながら、純度の高いオリーブオイルの香りを嗅いだ。最近オリーブオイルは混ざり物などの粗悪なものも出回っているらしいが、リュセットは昔から馴染みの店で購入しているため純度が保たれたものを購入していると言っていたのだ。マーガレットはその純度を香りを嗅ぎながら確かめて、これならば肌にも問題ないだろうと踏んでいた。
「それでは、始めるわね」
「はい、お願いいたします」
少し緊張したように強張った足に、オイルを塗布する。まずは左足から。両手に広げたオイルで、足の裏と甲を挟む形でつま先から踵へと幾度に渡って広げていく。オイルを塗布すると同時に圧を小指から下、手根にかけてエッジをかけるようにして足裏に圧をかけてほんのりほぐしつつ温める。
「マーガレットお姉様の手が暖かくて気持ちがいいですわ」
「ふふっ、マッサージはこれからよ」
足全体にまんべんなくオイルが広がったのを確認して、マーガレットは指の付け根から下がったところにある膨らみと、土踏まずとのちょうど境界線あたりに当たる部分の真ん中を親指でぐっと押した。ゆっくりと5秒間カウントを心の中で数えながら。
「この力加減はどう?」
「はい、大丈夫ですわ」
リュセットの余裕そうな返答を聞いて、今度は左親指に右手の人差し指を引っ掛けるような形で構え、その人差し指の第二関節部分がさっき押した箇所に当たるように構えた。
「今度は少し強めに押すけれど、ゆっくりと押すから痛すぎたら遠慮せずに言ってちょうだい」
「はい、わかりましたわ」
明らかに肩に力が入ったのが見て取れて、マーガレットは両手で足の裏を揺すった。
「大丈夫よリュセット。そんなにかしこまらないで」
「あっ、失礼しました。つい……」
リュセットの足の力が抜けたのを確認してから、マーガレットは再びあの構えで足の裏を指圧した。
「どうかしら、このくらいの強さは大丈夫?」
「はい、なんだかスッといたします」
「ここは体のだるさや疲れを解消したり、下腹部から足にかけての冷えにも良いのよ。ちょっと動かしていくから痛かったら言ってね」
そう言って、マーガレットは押し当てた場所からぐるぐると小さく弧を描き始めた。小さな弧を描きながら次は斜めえ右下、指一つ分くらいの場所を同じように刺激して、最後は全体を囲うように少し大きめの弧を描く。今度は土踏まずのあたりに移動し、コの字型に関節部分を使って指を滑らせていく。
「リュセット、この辺りゴリゴリしているわ。痛い?」
「私も感じております。少し痛みがあるのですが、大丈夫です」
足には多くのツボが点在している。特に足裏には体の中で一番ツボが密集しているとも言われ、反射点療法という言葉があるように、足の裏を刺激すれば手の届かない内臓やその他の不調箇所にアプローチができるとも言われている。不健康な人ほど足裏が痛いというのはそのためだ。
マーガレットが現在刺激しているのは大腸に当たる部分。
「……リュセット、最近便秘気味かしら?」
「えっ、どうしてそれを!」
リュセットは慌てた様子で上体を起き上がらせた。その顔は朱に染まっていた。お通じの話をされるとは思っていなかったからなのか、リュセットは恥ずかしさを感じていた。
「あら、やはり。これだけ体が冷えて、このあたりがゴリゴリしていたらもしかして……と思ったのだけれど、図星だったようね」
ふふっと笑いながら、マーガレットの指は別の場所へと移動していく。リュセットはその様子を見ていると、なんだか体の中を全て取り調べされ、丸裸にされている気分だった。
「ここが小腸、で踵に降りてここが生殖器系。あと土踏まずに戻って内側を挟むように持って親指の第一関節で十二指腸、膀胱、胃を刺激。そして、そこから上に上がって……」
「マーガレットお姉様、本当にお詳しいのですね」
「……えっ?」
足裏のツボに集中しすぎていたせいか、どうやら声が漏れていたらしい。マーガレットが顔を上げると、リュセットは手をついて上体を起こしながらマーガレットを見つめていた。
「ずっと気になっていたのですが、その知識はどちらで身につけられたのでしょうか?」
素朴な疑問。それもそのはず、マーガレット達は本を読むことも勉強もイザベラに封じられている。その上身近な人でマッサージをする者などいない。もちろんそんなことを教えてくれる人すらいないのだ。マーガレットは毎日家にいて、どうやってその知識を得たのか疑問に思うのは至極当然のことだった。
「それは……昔ウィルヘルムお父様とお母様が再婚をする前に住んでいた家にはお医者様が近くに住んでいたの。その時にその方がやっていたのを覚えているから、見よう見まねでね……」
「そうでしたか。素晴らしい記憶力ですわね」
マーガレットはふふっ、と笑って見せたが、もちろん今の話は全てでっち上げだ。マーガレットはこの世界に転生しマーガレットとして生まれ変わってからというもの、以前の記憶が全くない。
満里奈として生きていた時の記憶は覚えているものの、マーガレットは数週間前以前の記憶は欠落していた。生まれてからこの家に越してくるまでの経緯や、ウィルヘルムが仕事で帰らなくなる直前までの記憶はない。そのため記憶力が乏しいふりをしながら、過去の出来事を話しの流れで聞き出したり、家族が会話している内容を聞いて想像しているだけにすぎないのだ。
「ですが、どうして突然それを始めてみようと思われたのですか? 私が知らなかっただけで、今までもこっそり勉強されていらっしゃったのでしょうか?」
「そうなの、こういうのって女性には必要ない知識だからお母様に怒られてしまうでしょう? そんなことをしている暇があればもっと別の事に精を出すように……て。だから時々遊び半分で勉強していたのだけれど、ついはまってしまってこのザマなの」
ペロリと舌を出しておどけて見せた。嘘を混ぜて誤魔化したけれど、それは全てが嘘というわけではない。元々はマッサージなどするつもりも、この世界で勉強し直すつもりなどさらさらなかったのだ。ただ、事の流れでこうなったというだけ。元々なにをやるにもきちんと、とことんやらないと気が済まない性格のマーガレット。きっとカインに出会わなければこんなことにもならなかっただろうと常々思っていた。
「でもマーガレットお姉様が勉強されている様子は、とても楽しそうですわ」
「そうかしら?」
「はい、とても」
にっこりと微笑んだリュセットの顔を、まじまじとした表情でマーガレットは見ている。
「その上、お姉様が勉強なさっていることはとても為になる事のようですし」
「ならないわよ。それを言うならばリュセットの方が料理もできて裁縫だってできる。もし私が才能を選ぶことができるのであれば、そちらを選ぶわよ」
昨夜イザベラとの会話を思い返しながら、マーガレットは深いため息をこぼした。女性は自立など考えず、家庭に入ること、地位の高い相手を見つけること。それが女性の幸せなのだ。
「私は趣味が多い方が心が豊かになれる気がするので、良いと思いますわ。家事はしなければならない事でもありますから、マーガレットお姉様だって出来ます。けれどマッサージは誰もができることではないと思います。ですから私はこのようにご自身で勉強をされていらっしゃるマーガレットお姉様を誇りに思いますわ」
リュセットはとても不思議な子だ。リュセットと話をしていると、なぜだか心がふわりと軽くなるような気がしていた。
満里奈だった頃は、ピーターパンのウエンディに憧れた。冒険の旅に出てたくさんのものを見聞きして、ティンカーベルは意地悪をするけれど、攫われたり、何かに困った時はピーターパンとその仲間たちが助けてくれる。そんな冒険のお話が好きだった。
逆にシンデレラのお話には心がときめかなかった。なぜならばシンデレラはなにもしなくても魔法使いや動物達に助けられてお城の舞踏会で王子様に見初められ、結果はハッピーエンド。シンデレラはなにもしなくても、彼女の境遇が悪くても、その美しい美貌と彼女の持つ強運が彼女を幸せな結末へと運んでいくからだ。幼い頃はそんな運命的なストーリーに憧れはしたものの、成長し大人になるにつれて物語への憧れや魅力は半減していった。
「ありがとう、リュセット」
マーガレットはそう言って、なんとも言えない表情を見せた後、小さく笑顔を作った。
マーガレットとして生まれ変わり、身近にシンデレラという人物に関わってみて思えるのは、強運もハッピーエンドへと続く運命も、彼女が全て掴み取ったものなのだろうということ。人を恨まず疑わず、そんな性格の良さから運命の神はシンデレラに味方をするのだ。
人によってはシンデレラは努力をしていないと思うかもしれない。かつての満里奈が思っていたように。けれどシンデレラには元々持っている能力があるのだ。家事を上手くこなす能力。人の為に尽くす力。その上本人はそのことに喜びを感じている。人によっては苦に思うところを、彼女は苦に思っていない。だからこそ努力をしていないように見えるが、身近でリュセットを見ているマーガレットは、こう思っていた。苦に思っていないだけで彼女は努力をしているのだと。
そしてそんな彼女が、マーガレットには心から羨ましいと思えた。
「私もリュセットを誇りに思うわ」
そう呟いて、マーガレットは再びマッサージを始めたーー。