足湯
「お待たせ、リュセット。足の様子はどう?」
扉が開いた瞬間、マーガレットはトローリーを押しながら入って来た。木製の古いトローリーはカタカタと音を奏でている。このトローリーは以前この家に使用人がいた頃、使われていたとリュセットが言っていたものだった。
トローリーの上にはティーポットとティーカップが二つ並べられている。部屋に入って来る時、部屋の扉にある段差でトローリーの車輪が弾み、ガチャンと音がしたがティーセットは割れていなかった。その様子を確認してマーガレットはホッと肩で息をついた。
「はい、おかげさまでもう足の痺れはございません」
そう答えた後に、リュセットはトローリーから湯気がゆらゆらとたなびくのが見えた。それはティーセットを置いている一段目からではなく、一番下の三段目からだった。
「マーガレットお姉様、その桶は一体……?」
椅子に座ったまま体をくの字に曲げて、トローリーの一番下の段に目を向ける。そこには木製の水汲み用桶が置かれている。どうやら湯気はその中から出ているようだ。
「これはただの沸かしたお湯よ。リュセットの足が冷えているようだから足湯なんてどうかと思ったの」
「足湯……ですか?」
「そうよ」
マーガレットは桶をトローリーから取り出し、リュセットの足元に置いた。
「少し温度が熱いかしら。一応水を入れて調節したつもりなのだけど」
桶の中に手を入れてお湯をかき混ぜつつ、今度は肘をその中にそっと入れた。
「うーん、冷えた足には少し熱いかもしれないわね」
トローリーの二段目には水差しが置かれていた。その中に入った水を桶に注ぎ入れながら、再び手で混ぜ始めた。完全に混ざった後、再び肘を桶の中に入れてマーガレットは温度を確かめている。
「マーガレットお姉様はどうして肘で温度を確かめるのですか? 手でも良いような気がするのですが……?」
「手だと少し鈍感なことがあって、足を入れた時に思った以上に温度が高く感じることがあるの。だから手よりも下、肘の方が足に近い温度を確かめることができるの」
流暢にそう答えるマーガレットがなんだか頼もしくも見え、リュセットはただただ、ため息だけが口からこぼれ落ちた。
「マーガレットお姉様は裁縫の才よりも、もっと素晴らしい才をお持ちなのですね」
「だとすれば私は生きる世界を間違えてしまったのかもしれないわね」
そう、マーガレットが持つ知識は全てこの世界には不要なものだ。イザベラが言うように、女性がこの世界で生きるのであれば裁縫の才がある方がいいに決まっている。
マーガレットはそんな自分の持ち味の無意味さに、自嘲気味に笑った。
「そんなことありませんわ」
「さっリュセット、ゆっくりと桶の中に足を入れてみて。片足ずつそっとね」
リュセットが異論を唱えようとしたけれど、マーガレットはそんな言葉を遮り、リュセットの小さな足を持ち上げてゆっくりと桶の中へと下ろしていく。
「温度はどう?」
「とても気持ちが良いですわ」
その言葉を聞いて、もう片方の足もそっとその中へと入れた。リュセットの白くて小さな足。肌もスベスベだ。
(この足があのガラスの靴を履くのね……)
なんて、決してマーガレットが履くことのないガラスの靴を想像して、妙に切ない気持ちになる。
(……待って! そういえば、ガラスの靴を無理矢理履くために踵を切り落としたりしていなかったっけ……?)
その内容を思い出して、思わず体を震わせる。それはグリム童話での話なのか、はたまたペロー童話なのか。そして削ぎ落とすのはマーガレットなのか、マルガリータなのか、それともどちらもなのか……。想像しただけで痛みで体が震える。
物語がどうであれ、それだけは絶対にしないとマーガレットは心の中で誓った。
「マーガレットお姉様どうなさいました? 震えていらっしゃるようですが、お寒いのでしょうか?」
「えっ? い、いいえ、大丈夫よ。それよりもリュセット、普段から足が冷えているのね。毛細血管が拡張しているわ」
雪のような白い肌にうっすらと浮かぶのは、毛細血管。文字通り毛のような細い血管。赤紫色をした毛糸の糸くずのような血管が、まるで足元に散っているようにリュセットのふくらはぎにうっすら浮き上がっていた。
「毛細血管……ですか?」
言葉の意味がよくわからず、リュセットは首を傾げた。
「ええ、体の中には血液が流れているでしょう? その管を血管と言うわよね?」
リュセットはゆっくりと首を縦に振った。それを見てからマーガレットはどう説明しようかと「んー?」と一度天井を見上げた後、こう言った。
「血管には心臓から血液が出ていく動脈と、逆に心臓に血液が戻ってくる静脈とがあるの。そして毛細血管は動脈と静脈をつなぐ血管で、動脈と静脈に比べたらすごく細いものなのね。だからこそ血行が悪くなったり、何か体に不都合が起きて慢性的に血流がスムーズに流れなくなると、この血管が詰まって、拡張して、リュセットのここのように浮かんでくるのよ」
マーガレットは説明をしながら、リュセットの足を少し持ち上げて毛細血管が浮き出ているところを指差した。けれどリュセットはその血管を見てはいるものの、話の大半はよくわかっていないのか反応が今ひとつ鈍い。
リュセットとマーガレットはきっと相反した性格なのだろう。リュセットは家庭的で家事全般、裁縫だってそつなくこなす。けれどきっと勉強は得意なタイプには見えず、逆にマーガレットは家事全般は不得意だが勉強はそれなりに卒なくこなすタイプだ。
「寒い日や夜寝る前にこうして毎日足湯をすると良いわ。足首までかぶる程度にお湯を注いで10分くらいすると体の芯から温まってぐっすり眠れるでしょうし」
「それは良い案ですわね。これでしたら裁縫をしながらでもできますし」
その時、ふとある考えが頭をよぎり、マーガレットはリュセットの足を掴んでこう言った。
「そうだわリュセット。刺繍を教えてくれるお礼に、私が足裏のマッサージをしてあげるわ」
マッサージと聞いて、リュセットの体が少し強張った。前回肩を触られた時の痛みが脳裏をよぎったのだろう。その様子を見てマーガレットは思わず笑ってしまった。
「大丈夫よリュセット。足裏をするのであればオイルを使用するから痛くないわ。ちゃんと加減もするし、膝下までオイルで流すから血行にも良いわよ」
これは練習もできて一石二鳥ではないか。マーガレットはいつになく張り切っていた。そんな様子が手に取るように見て取れて、リュセットも断るに断れなくなってしまった。
「では、お手柔らかにお願いたします」
遠慮がちに微笑んだリュセットに、マーガレットは全力の笑顔で答えた。
「もちろんよ!」
けれどマーガレットには一つ疑問があった。
「けれど問題はオイルね。マッサージするのに良いオイルなんて家にあったかしら?」
「オリーブオイルならありますわ」
「オリーブオイルね……」
腕を組みながら「うーん」と唸ってみせる。マーガレットは頭の中でマッサージができるのかどうか想像していたのだ。
「そうね、それならばオイルが軽すぎずマッサージがしやすくて良いかもしれないわね。早速試して見ましょう」
善は急げと言わんばかりにマーガレットが立ち上がり、部屋を出て行こうとするので、慌ててリュセットがマーガレットのドレスの裾を引っ張り食い止めた。
「お待ちくださいマーガレットお姉様。先に刺繍を終えてからにいたしませんか?」
「けれどせっかくリュセットの足が温もったのだから今やるのが良いと思うのだけれど?」
「でしたらせめて、紅茶を楽しんでからにいたしましょう。せっかくの温かい紅茶が冷めてしまってはもったいないですわ」
リュセットの意見は一理ある。そう思ってマーガレットはトローリーに置いたままだった紅茶をカップに注ぎ入れた。
「そうね、まだ時間はあるものね」
紅茶を注いだカップをリュセットに渡し、リュセットはそれを受け取りながらこう言った。
「はい、ゆっくりいたしましょう。時間は十分にありますわ」




