森の中
*
「はぁー」
キラキラと水面に反射する太陽の光を浴びながら、マーガレットは大きく深呼吸を一つついてそばにそびえ立つ立派な木に背中を預けた。
「なかなか慣れないわね、このドレス」
マーガレットは肩を掴んでブンブンと腕を振り回した。マーガレットのドレスは中世を彷彿させる、胸元と袖の口が開いたオレンジ色のドレス。裾は長く、地面に擦れるため、ここまで歩いてくるのにもスカートの裾を少したくし上げながら歩かなければならなかった。そうやって長らく歩いていたせいか、肩にズシリとしたコリを感じていた。
けれどマーガレットが肩にコリを感じた理由はそれだけではないだろう。
「なんて、慣れないのはドレスより何よりも、この環境よね」
ポツリとつぶやいた後、マーガレットはその場にかがみ込んで空を見上げた。湖のそばには木々が広がり、新緑の合間を縫うようにして広がるのは、絵に描いたように青く澄んだ青空と、青や黄色といったカラフルな色をその身に宿した小鳥たち。
「シンデレラのストーリーでは悪役の姉達は最後、熱の鉄板の上でダンスを踊るんだっけ? それはグリム童話? サンドリヨンって言い方でシンデレラのことを呼んでいたから、これはペローの童話? ペローの童話では、あんな小鳥に目を刺されて失明するんだっけ?」
マーガレットは頭を捻りながらなんとか記憶の糸を手探ってみるが、シンデレラのストーリーは作者によって若干異なるため混乱していた。
「ああ、ダメ! 子供の頃にたくさん読んだお話なのに、きちんとしたストーリーが思い出せない。思い出せないけど、どちらにしても悲劇しか待っていない、最悪なバッドエンドなのよね……」
マーガレットはキラキラと輝く水面を見つめながら、過去に生活していた日々を思い返していた。
「別にシンデレラになりたかったってわけじゃないけど、よりにもよって、なんで悪役に転生しちゃうかなぁ」
それは数週間前の出来事。
マーガレットがこの世界に転生する前の名は紺野 満里奈。小さな町のしがないマッサージサロンで働いていたセラピストだった。
前世で満里奈は本を読むことが人一倍好きで、それは童話、ライト文芸や純文学に関わらず、ビジネス書ですら読むのが好きな、言わば活字中毒者であった。その為、休みの日は本屋に行くか図書館に行くというのが、満里奈の普段の生活スタイルだった。
その日もいつものように図書館で借りる本を吟味しているところに、地震が起きた。いつもよりも大きな揺れ。ドン、と縦に大きく揺れたかと思えば、その後窓にかかるカーテンが揺れるほどの横揺れ。机の上に置かれていた花瓶が落ち、人々の悲鳴が耳をつんざいていた時、たくさんの書物を乗せていた大きな本棚が満里奈に向かって倒れてきた。全ての出来事が一瞬で起き、声を上げることも、ましてや逃げ出すこともできない中、ぎゅっと瞼を閉じた満里奈が目を開けると、そこは別の世界ーー見慣れぬ部屋の中でベットの上に横たわっていた。
そしてそれこそが童話の中、シンデレラの物語の中だった。
初めはこの見慣れぬ世界に戸惑いを感じていた満里奈だったが、最近はようやく慣れてきたように感じていた。この世界で目覚めた時、恐る恐るベッドから抜け出し窓の外を見やると、学生時代に歴史の教科書に載っていたような西洋写真を思わせる風景が目の前に広がっていた。髪の色、身長、服装……それらが全く異なる人々。それに街の景色は180度と言っても過言ではないほど違う。道路はブロック状の石畳が敷き詰められ、家から少し離れた先には広場が見える。そこには洋風な作りの噴水と、道路の脇を敷き詰めるようにして建っている家々。
満里奈は意を決して部屋の中から飛び出すと、長い廊下を抜けた先にはキッチンがあった。そこにいたのがリュセット、そしてマルガリータとイザベラだった。イザベラにマーガレットと呼ばれて初めて自分の名を知り、マルガリータは灰かぶりと言いながらリュセットを蔑んでいた様子を見て、満里奈は状況を悟り、今に至る。
「私って、こんなにも何もできないやつだっけ?」
はぁ、と深いため息をついた。それもそのはず、マーガレットに転生してからというもの、毎日気が気ではなかった。このまま話が進んでいけばそのうちお城での舞踏会の日がやってくる。そこでリュセットが王子様に見初められ、やがては結婚となる。その時、同時にマーガレットは死刑を宣告されるようなものだ。だからこそ、少しでも良い姉役を演じて、バッドエンドを回避しようと目論んでいるにも関わらず、全ては空回りの日々だった。
「やばい、やばい。このままじゃやばいのに……」
気持ちだけ焦り、空回る。何をしてもリュセットの足を引っ張ることとなり、そのせいで逆にリュセットがイザベラやマルガリータの怒りを買うことになったり。先ほどのようにリュセットを庇ったところでイザベラに賞賛はされても状況が変わることもない。
リュセットは実際、とても良い子だと思った。だが、いくらリュセットと親しくなったところで、実際にバッドエンドを回避できるかどうかは別な話だとも感じていた。
なにせ今の自分の状況を側から見れば、イザベラとマルガリータ寄りだからだ。可哀想なリュセットをいじめる継母と姉達……そんなシナリオから抜け出すには何か別な方法が必要だった。そんな事を考えながら、マーガレットが遠くを見るように景色を眺めていたそんな時だった。
「お前、ここで何をしている」
予期していなかった声にはっとして、マーガレットは顔を上げた。意識を遠くに飛ばしていたせいで人がそばにいることに全く気がついていなかった。
男は手綱で馬を引き、黄金色に輝く髪に白いジレと高貴な青に金色の装飾がほどこされたジュストコールを羽織り、腰にはサッシュベルトを巻きつけ、そこに剣を差している。その身なりを見るからに、男が平民ではないことが明らかだった。
マーガレットは立ち上がり、スカートの裾を少し上げ、頭を下げた。
「私はただ、少し遠出をしてみたくなり、散歩の足を少しばかり伸ばしここで休んでいたところでございます」
こんな森の中で女一人、不審に思われたかもしれない。高鳴る心音を抑えようと大きく息を吸った後、満里奈は顔を上げた。
少しばかり神経質そうにつり上がった眉と目尻。スッと筋の通った長い鼻に透き通るように白い肌。男のその出で立ちはまるで王子様のよう。
この空と同じ澄んだ青い瞳はマーガレットを捉えて離さない。マーガレットも魅入るように見つめていると、ふと男は微笑んだかと思えば、マーガレットの後ろにある木に手綱を繋ぎ、馬に水を与えた。
「少し遠出か。そういう気分になる気持ちはよく分かる」
男の言動が気になり、マーガレットは少しの勇気と興味から口を開いた。
「そういうあなた様はどうしてここに?」
「俺も散歩の足を伸ばしてみたくなったのだ」
男はそう言い、ベルトごと剣を木の麓に立てかけた。ドサリという音に、その剣がどのくらい重いのかは容易に想像できた。
「男の方は大変ですわね。そのような重い剣をいつも持っていらっしゃるのですから」
「武器なら女も持っているだろう。重くて豊満なものを」
男はそう言いマーガレットの開いた胸元に視線を投げた。その視線を受けて、思わずドレスの胸元をぎゅっと引き上げる。前世では典型的な日本人体型をしていたマーガレットは、身長や体格、もちろん胸のサイズだって今とは異なっていた。そのため、こんなに大きな胸を持ち合わせていなかったマーガレットは、そんな風に男性の視線を受けることはなかったのだ。
さらに言えばマーガレットの持っているドレスはどれも胸元を強調するようなものばかりで、普段から着ていると着慣れてきていただけに、この一言は効いた。マーガレットは一気に恥ずかしさから顔を男から逸らしてしまった。
「こ、これは、武器などではありません!」
「人によっては武器だろう。それに、その武器につられていらぬ輩も呼び寄せぬともいえんがな」
「それは、どういう……?」
意味深な意図を含んだ言い方に、マーガレットは胸を両手で抑えながら男に疑心の目を向けた。
「まだ日が高いとはいえ、女が森の中を一人でうろつくのは気をつけた方がいい。いつ山賊が現れるとも限らんからな」
「さ、山賊!?」
思わずあたりを見渡した。あたりには人っ子一人いる様子はなく、それがさらにこの男の言う言葉に重みを与える。
「この世界はもっと穏やかなものだと思っていたのに……」
「何か言ったか?」
男は湖の水で顔を洗った後、袖で顔をぬぐいながら再びマーガレットに向き合った。
「あ、いえ、このあたりは安全なものなのだとばかり思っていましたので」
「ああ、基本的にはな。ただ、賊がいないとは限らない」
この人物は兵士か何かなのだろうか……? そんな風に思いながら、マーガレットはまじまじと男の服装に目を向ける。街ではこの男のような服装をしている人物はそうは見かけない。さらに剣を持てるのは城に関わる人間だと言う証だ。だからこそマーガレットは注意深く男と会話する際は言葉を選んでいた。
マーガレットの家庭も貴族ではあるが、不景気な上に再婚した父親ウィルヘルムが出稼ぎに出て帰らぬ人となってからはさらに家は傾き、今となっては元貴族と言う方が正しい。イザベラがウィルヘルムと再婚したのもウィルヘルムが貴族の出だと言う事と、あの家が持ち家だったという点だと、よくイザベラが言っていた。
イザベラはマーガレットとマルガリータが玉の輿に乗れるよう、身綺麗な格好をさせている。胸元を強調するようなドレスが多いのは時代背景もあるが、それでなるべく位の高い貴族でも拾ってくればラッキーとでも思っているに違いないとマーガレットは常々思っていた。
「失礼を承知でお伺いいたしますが、あなた様は一体……? 見た所、お城の騎士か何かかとお見受けいたしますが……」
マーガレットが確信をついた時、男は親指と人差し指で顎を挟むよう触れ、何か考え込むように視線を逸らした。
「人の身分を聞くのが失礼だと思うのならば、先にお前が名乗るのが筋ではないのか?」
こんな風に切り返されるとは思っていなかっただけに一瞬面を食らったが、グッと奥歯を噛み締めて微笑みを作った。そして、再びドレスの裾を持ち上げ、頭を下げながらこう言った。
「失礼いたしました。私はマーガレットと申します。ここから1キロほど歩いた先にある街に住む者でございます」
「俺はお前の言う通り、城に仕えている。息抜きも兼ねてこのあたりの治安の確認にやってきたのだ」
「そうでしたか」
マーガレットは再び頭を下げた。と、同時にマーガレットの頭の中ではこの男からどうにかコネクションを構築できないかと思考を巡らせていた。
服装からして、一介のしがない兵士というには上品で飾り気のある衣類だ。とすれば騎士か……そうでなかったとしても、この男が城に仕えるくらいの貴族である可能性がある。そうなれば、この出会いを逃す手はない。
「ところで、その剣はやはり相当重いものなのですね」
マーガレットは覗き込むような体制で木に立てかけられている剣を見つめた後、男の腰をちらりと見た。
「当たり前だろう。軽いものでは戦えぬからな」
「では鍛錬も相当なものだとお見受けいたします」
ピクリと眉が揺れたかと思えば、男は腰に手を当て吐き捨てるようにこう言った。
「女になにがわかる? 剣を持ったことも、鍛錬をしたこともないだろうが」
「はい、剣を持ったことなど一度もございません。ですので、鍛錬の大変さはわかりかねます。が、あなた様のお身体を見ていればなんとなく……」
マーガレットの言葉を聞いて、男はさらに険しい顔を向けた。背筋がゾクっとするような表情の男に、マーガレットは思わず後ずさった。すると、それが合図とでもいうように、男は一気にマーガレットに詰め寄った。
そんな男の勢いに押されるかのように、マーガレットはさらに後ずさると、ドレスの裾が靴に引っかかり態勢を崩してしまった。
「きゃっ……」
徐々に傾いてゆく自分の身体。思わず身を固め、この後やってくるだろう痛みを想像して眼を固く閉じた瞬間だった。
「いった……くない。あ、あれ……?」
衝撃に備えていた身体は、不思議な事に痛みを感じず、マーガレットはそっと眼を開けた。すると、目と鼻の先にいたのは、あの男だった。男が寸前のところでマーガレットの身体を抱きとめていた。
「あ、あの、ありがーー」
お礼を述べようとしたその時、男は険しい表情を崩す事なくマーガレットをそのまま乱雑に地面へと下ろした。一度は抱きとめたにも関わらず、マーガレットは地面に寝そべる形となり、戸惑いながらも立ち上がろうと上体を起こすがーー今度は男に両手を押さえつけられた。
「こんな森に女一人で変だとは思っていたが、貞操観念の薄い売春婦だったとはな」
「……!」
男の言葉があまりにも衝撃で、状況が全く把握できていないマーガレットは口を開くことさえできずにいた。
「淫らな女とはどこにでもいるのだ」
そんな風に吐き捨てるように言った後、男の左手がマーガレットの豊かな胸に触れた。その瞬間、脳裏に電気が走ったように、マーガレットは状況を把握した。
「な、なにを……!」
暴れもがいたところで、男はビクともしない。力の差は歴然だった。
「俺の身分を聞いたのも、俺の位が高そうだと思ったからだろう。そうやって股を開いて男から金を貪り取るためーー」
覆いかぶさるようにマーガレットに乗っていた男の力が緩んだ瞬間、力任せに男の体を蹴りつけ、押しのけて這い出した。男は動けず、ただ蹲って痛みを堪えるように肩を震わせていた。それもそのはず、マーガレットは渾身の蹴りを男のみぞおちにヒットさせていたのだ。
「……っ、ざけないでよ!」
マーガレットは奥歯を噛み締めながら、乱れた衣服を整えながら、立ち上がった。けれど、衣服を掴む手が震えている。
「だ、誰が売春婦ですって……」
声も震えている。怒りに涙が滲み、同時に恐怖から足が震えていた。
絶対的な力の差。そういったものをマーガレットは今までに感じたことがなかった。男女には力の差があることは十二分に承知していた。前世でマッサージの仕事をしていたため、男性の体にもたくさん触れてきた。体の使い方、筋肉のつき方が違うこと、体力だって違う。分かっていたはずだったが、こうしてまざまざと見せつけられたのは初めてで、マーガレットの心に恐怖心が生まれるのも至極当然のことだった。
「私は、ただ……」
逃げてしまった方がいいのかもしれない。だが、逃げたところでこの男の足に敵うとは思えなかった。さらに男は馬も連れている。となれば、マーガレットが逃げ切るには不利がありすぎる。
「どうやら、俺の勘違いだったようだ」
令嬢と思い甘く見ていた男は、マーガレットの予想外な行動に驚きを隠せない様子。クリティカルヒットを食らったみぞおちは今も男にダメージを与えているのか、腹部を抑えている。が、マーガレットの行動や雰囲気から判断し、想像していたものとは違うと悟った男は、マーガレットに頭を下げた。
「昔から寄ってくる女は人の身分や肩書き、もしくは金銭目的な輩が多いからな。こうやっていいよってくる女は五万といたからてっきりお前もその一人なのかと思ったのだ」
「か、勘違いにも程があるわよ!」
「本当に悪かったと思っている」
男は謝罪の言葉を口にしながら頭を下げるが、マーガレットの心臓はまだあの恐怖心から興奮しっぱなしだった。男が襲ってくる様子がないのであれば、この場を去るのは今がチャンス。震える足を懸命に動かし、踵を返した。
「失礼致します!」
「待て」
男は回り込んでマーガレットの前に立ちはだかる。けれどマーガレットは相手にしようとは思わない。
「怖がらせた詫びがしたい」
「お詫びはいらないので、私の前に二度と現れないでください!」
マーガレットは男を振り切り、そのまま森を駆け抜けていった。一度も後ろを振り返ることなく。息が上がろうと、足がどんなに痛もうとも。
森の出口に差し掛かったところで、マーガレットはやっと息を整えるために足を止めた。背後を振り返ってみるが、男が追ってくる様子はない。そこで初めてホッと安堵のため息をつき、そこからは歩いて家路に着いた。