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特訓

 外はしとしと、と雨が空から降りてくる。太陽は雲にのまれ、気温はいつもよりもぐっと下がっていた。

 カインは用意しておいた薪を暖炉に焚べ、燃え盛る炎に目を向ける。その瞳に映る炎はマーガレットと共に過ごしたあの家での炎と同じものだった。


「まだ、体がだるいな」


 肩に手を触れ、マーガレットがしていたように揉みほぐす。すると鈍い痛みが体に響いた。


「これがマーガレットの言っていた揉み返しというものなのか」


 マッサージを終えた後、マーガレットはそのようなことを言っていた。マッサージの次の日は揉み返しといい、体に痛みが残ったり、だるく感じたりすることがあるという。それは二、三日で消え、その後体はかなり楽になると言っていた。その言葉の通り、マッサージを受けた翌日はいつもより体が重く感じられ、揉みほぐされていたあたりに痛みがあり、いつもよりも疲れを感じていた。まるで今まで塞き止めていた疲労が一気に体中に流出している様だった。

 特にマッサージをし始めたばかりのマーガレットは満里奈の時のような感覚がまだつかめていない。そのため、余計に力加減を調整できないせいで、カインの体は揉み返しが出ていた。

 そしてカインにとってはこの痛みを感じるたびに、マーガレットのことを考えずにはいられなかった。


「一週間後か。なかなか長く感じるものだな」


 カインはドサっと席に座り、机の上に広げられた大量の書類を見ながらそんなことを呟いた。言いながらもカインはクスリと微笑みながら窓の外を見やる。


「マーガレット、あいつを見ていると飽きぬな。不思議なやつだ」


 机の引き出しから一枚の封筒を取り出した。文字が何も書かれていない真っ白い封筒の裏には、赤い蝋で封をされている。それを手に持ち、考え込むような表情をした後、再び引き出しの中へと閉まった。机の上に置かれていた真っ白な紙と、小さな瓶に立ててあった鳥の羽のペンだ。羽の先端は尖るように削られ、黒く染まっている。その鳥の羽を手に取り、インク瓶の中浸して、紙に何やら書き始めた。

 書き殴るようにペンを走らせた後、それが乾くのを待って四つ折りに折り曲げた。


「ふぅ……」


 ため息をついた後、カインはくっくと笑った。


「柄にもないことを……」


 そう呟いたあと四つ折りにした紙を持ち、そのまま部屋を後にした。



  *



「……リュセット、どうしても私は裁縫と相性がないみたいだわ」


 マーガレットは自分が刺す針の糸を見つめながらはぁ、とため息をついた。


「そんなことはありませんわ。綺麗に真っ直ぐ縫えているではありませんか」


 朝食を終えてから早速裁縫の特訓に取り掛かったマーガレットは一時間もしないうちに心が折れかけていた。始めは簡単にハンカチの枠を作るつもりで塗ってみようとなったが、それすら針の方向が定まっていない。そのせいで糸はガタガタだ。糸の下にはあらかじめ線を引き、それに沿って縫えるようにしてあるにも関わらずだ。線には添えても糸の先が散らばっている。


「こんなことで刺繍なんてできるのかしら……」


 先が思いやられるとはこのことだ。


「真っ直ぐに、一定の同じ長さで糸を縫っていくのは簡単なようで難しいと思いますわ」


 手始めに、という意味も込めて枠を縫い始めたというのに、リュセットはあっさりと意見を変えている。それがまた自分の不出来さを痛感していた。


「いっそうのこと、ここから一度刺繍に入ってみましょう」

「こんな状態で?」


 普通の縫物もできないのに? という気持ちが前面に出ている。マーガレットはハンカチをリュセットに見えるように差し出しながらそう言った。


「はい、刺繍の方が真っ直ぐに縫うということもあまりないですし、簡単なものから始めましょう」

「はぁ、そうね。気分を変えて他のものを縫いたいわ。……しかし私が目指すこの刺繍はいつ取りかかれるのかしら」


 リュセットに言われて刺繍したいデザインをマーガレットは用意していた。マーガレットが選んだものは、この家の紋章だった。盾の枠内で大鷹が両方の翼を大きく広げている。これが縫えればきっとマーガレットの技術は上級者に登っているのだろうと、現在初級者レベルのマーガレットはそう考えていた。


「練習あるのみですわ、マーガレットお姉様」


 ファイト! と言わんばかりに両手に拳を作り、リュセットは笑った。それに比べてマーガレットは拳を作ろうにも手にはすでにたくさんの刺し傷ができていた。全て今日一日でできた裁縫による跡だった。


「ところでリュセットは何を作っているの? それは私があげたドレスの生地ではないかしら?」


 マルガリータに切り刻まれたあのドレスの切れ端を何やら縫い合わせている。


「はい、これで巾着袋(オーモニエール)を作ろうと思っているのですわ」

「まぁ、それはいいわね。やはりあのドレスをリュセットに譲ったのは正しい選択だったようね」


 リュセットは照れながら、愛らしい笑顔を向けた。


「仕上がりましたら、マーガレットお姉様に差し上げますわ。気に入ってくださると嬉しいのですが……」

「せっかくだからリュセットが使えばいいじゃない。もちろん私はリュセットからもらえたら嬉しいけれど」

「私はいくつか持っておりますので、もしご迷惑でなければ貰ってくださいませ。それに元気が出るようなこのオレンジ色はマーガレットお姉様にぴったりな色ですもの」


 胸の奥が暖かくなるような気がして、マーガレットもリュセットに向かって微笑んだ。


「ありがとうリュセット。仕上がったものは大切に使わせてもらうわね」


 そして再び二人は沈黙し、裁縫に集中し始めた。けれど、その空気を先に破ったのは、またしてもマーガレットだった。


「目が疲れてきたみたいだわ。リュセット、少し休憩にしない?」

「そうですわね。少し寒いようですし、温かい紅茶でも淹れてきましょうか」


 リュセットは窓の外に視線を向けた。外は雨。灰色の厚い雲を見ていると余計に気温が下がった気がして、リュセットは小さく肩を震わせた。


「あっ」


 ちょうど立ち上がろうとしたその時だった。リュセットが椅子に再び腰を戻した。


「大丈夫? どうかしたの?」


 マーガレットは慌てて立ち上がり、リュセットへと駆け寄る。するとリュセットは足を小刻みに震わせながら苦笑いをこぼしている。


「いえ、大丈夫です。少し痺れてしまったようですわ」


 マーガレットはリュセットの震える足に手を当てると、リュセットの生足が氷のように冷え切っていた。


「冷えてしまったのね。待ってて、私がお湯を沸かしてくるわ」

「大丈夫ですわ。私が行きますので」


 慌ててもう一度立ち上がろうとしたリュセットを、マーガレットは制した。膝にはキルトをかけていたが、足先はどうしても冷えていたようだ。マーガレットが使っていたキルトをもう一枚リュセットの足元まで隠れるようにかけてあげた。


「大丈夫よ。私も少しは立ち上がらないとお尻に根が生えそうだったの。だから私に行かせて、リュセットはここで待っていてちょうだい、ね?」

「わかりましたわ。それではマーガレットお姉様のお言葉に甘えさせていただきます」


 その言葉に満足した様子で、マーガレットは部屋を出て行った。

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