自主トレーニング
コンコン、と控えめなノック音が聞こえ、マーガレットは返事もせずに扉を開けた。扉を開けた先に立っているのはマーガレットが待ち望んでいたリュセットだった。
「待っていたわ。さぁ中へ入ってちょうだい」
笑顔でリュセットを招き入れ、机の椅子をベッドのそばへと移動させてそこに座るように促すが、リュセットは入り口で立ちすくんだままどこか気まずそうな表情でこう言った。
「マーガレットお姉様、本当に申し訳ございません。今日はちょっと裁縫のお手伝いができそうにないので、謝罪に参りました……」
「どうかしたの?」
リュセットのいつもの様子とは違うことに気がついたマーガレットは、ひとまずリュセットを椅子に座るよう肩に手を置き促した。
「いえ、少しめまいがするような気がしたので、部屋で休もうと思いまして……マーガレットお姉様とお約束をしていたので大変心苦しいのですが……」
「それはいけないわね。私のベッドを使いなさい。私はその間居間にいるようにするわ」
「い、いえ、自分の部屋で眠る方が気が休まりますわ!」
マーガレットの申し出に慌てた様子でリュセットは断った。
「そう? まぁ、日中であればリュセットの部屋でもさほど寒くはないわよね。もし体調が悪化するようなことがあれば隠さずに言ってちょうだいね。私はいつでも部屋を代わってあげるからね」
「マーガレットお姉様……そのお心遣いだけで充分ですわ。ありがとうございます」
リュセットは後ろめたい気分だった。めまいがするというのは真っ赤な嘘で、本当は部屋に篭って一人、マルガリータの裁縫をしたいだけなのだから。それをマーガレットに言えもせず、さらに嘘をついて約束を破ることに心を痛めていた。
「明日は必ずお教えいたします。それまでの間にどういったものを刺繍したいかデザインを考えておかれるとスムーズにことが進むかと思いますわ。もしくはお一人で練習されるのであればハンカチに名前を刺繍するなどから始めてみるのも良いかと」
「ありがとう、リュセット。一度考えてみるわ。リュセットも無理はせず、夕食の準備など何か手伝えることがあれば言ってちょうだいね」
リュセットがあまりにも申し訳なさそうに言うものだからか、マーガレットは安心させるかのようにほんのり笑みを携えてリュセットの手を握った。その手の暖かさがまた、リュセットの良心を締め付けていた。
*
「ふむ」
リュセットが部屋を出ていった後、空いたこの時間をどうしようかとマーガレットは考えた。リュセットの言った通りデザインを考えつつ、まずは簡単な裁縫の技術を思い出す意味も込めてハンカチにイニシャルを縫おうかと思ったが、マーガレットにはもう一つ気になる事があった。それは昨日のマッサージのことだった。どうせ明日リュセットから教えてもらえるのであれば、今日は昨日の反省点を踏まえてマッサージの復習をするのもありではないか。そんな風に考えていた。
「そもそも裁縫って、前世の学校で家庭科の授業の時に習って以来してこなかったな……ちゃんと縫えるかな……?」
なみ縫い、かがり縫い、玉止め。このあたりしか覚えていない。裁縫まではギリギリ覚えていても、刺繍などは授業でやった記憶がない。前世の記憶はもう過去のものとして脳が処理しているせいか、不確かな記憶が多いが、それでも多くのことは覚えていた。
マーガレットは窓を開けて清々しい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「よし、もう今日は裁縫は諦めてマッサージに専念しよう」
とは言ったものの、せっかくお金も手に入ったと言うのに、マーガレットは家を出ることができないせいで本を借に行くこともできない。この世界の貸本屋にどの程度の本が並べられているのか不明だが、人体解剖学等の本があれば助けになる。まずは筋肉のある場所、名称そして筋肉の起始と停止を確認したいところだった。
筋肉は大きく分けて二つ。自分の意思で動かすことのできる運動神経支配のものと、自分の意思で動かすことのできない自律神経支配のものだ。理学療法士や整体師などではない一介のマッサージセラピストだった満里奈は、基本的には運動神経支配にある筋肉をほぐすだけ。運動神経支配による筋肉を俗に骨格筋と名称するが、その筋肉は繊維状になっているため、ストレッチをすればゴムのように筋肉は伸びる。だが筋肉は双方どちらにも伸びるわけではなく、伸びるのは一定の方向のみで、もう一方は停止した状態から動かない。それが筋肉の起始と停止だ。
「この世界にきっと東洋医学の経絡がわかるような本は確実にないよね。でも筋肉に関する書物ならあるかもしれない。ああ、早く本が読みたい。本の匂いをじっくりと嗅ぎたい……!」
本から香るインクの匂いを嗅ぐだけで、体がぷるると震えそうになるほどマーガレットは本が好きだった。一度は司書にも憧れた。その資格を取れば図書館で働くことができるからだ。
けれど本好きに目覚めるのが遅かった満里奈はすでにマッサージの学校も卒業し、就職していた。新しいことをするには年齢が若くないと二十歳の時にすでに悟ってしまっていた。こうして転生した今、どうせ死ぬのであればチャレンジしておいたらよかったな、なんて死んだ後に後悔していた。
「とにかく今できることを私はしよう。まずは指の感覚を取り戻して、強い指を作らなきゃ」
ツボを押した時、マーガレットの指は小刻みに震えていた。それは体の使い方が悪く、腕や手だけで押していたからだ。また、マッサージは力技ではなく、体を使う。体の体重を乗せて圧を加えるのが基本だ。体をうまく使って体重をかけながらツボを押せたとしても、指が慣れてないせいでそれに持ちこたえられず、それも震えの原因だった。そんな素人丸出しの様子がとても歯痒く感じていた。
脳がまだ前世の記憶を覚えている。満里奈として慣れた手つきを覚えているにも関わらず、マーガレットと転生した今、それがうまくいかない。そのギャップがとても歯がゆく、もどかしい。
まずは握力をつけることを考え、マーガレットは一輪差しのガラス瓶を掴み、毎日握りしめる特訓に励んでいた。一日中空いた時間に片手でそれを力一杯握っては離し、また握る、を繰り返す。
その後はストレッチ。運動をほとんどしないで過ごしてきたマーガレットの体は筋肉がない。筋肉よりも白くて柔らかい肌が女性らしいという概念から女性はほぼ運動もしない。その上コルセットで腰を締めるため、血行が悪いのは言うまでもない。使用しない筋肉はどんどん縮まり、伸びることがなく、やがてコリにもつながる。マーガレットは床に寝そべり、ストレッチを始めた。ストレッチをする際はどこの筋肉が伸びているかをきちんと確認しながら。そんな風に過ごしていると、やがて窓の外は真っ暗になっていた。
「マーガレットお姉様」
コンコンというノック音と共に、リュセットの声が聞こえた時初めて部屋の中が真っ暗になっていることに気がついた。
「あっ、少し待ってちょうだい。今開けるわ」
ドレスを着た状態ではストレッチなどできるわけもなく、下着姿で床に寝そべりストレッチをしていたマーガレットは、慌ててドレスに袖を通した。
「お待たせ」
息を上げながらそう言うと、扉の向こうではリュセットが疲れた様子で立っている。
「リュセット、大丈夫? なんだかすごく疲れてるように見えるけれど……?」
めまいがすると言って休んでいたはずのリュセット。けれど体調が悪化したのかもしれないと思い、マーガレットは心配そうに細いリュセットの肩に手を置いた。
「めまいはまだあるの? 体調が悪化したように見えるけれど……」
「いえ、かなり良くなりましたわ」
そんな風には見えない様子に、マーガレットは余計に心配になる。その様子が見て取れるからか、リュセットはマーガレットの心配から逃れるかのようにこう言った。
「それよりも夕食の準備ができております。もうお母様もマルガリータお姉様もダイニングにいらっしゃるので、食事が冷めないうちにマーガレットお姉様もいらして下さいね」
「ありがとう。今から行くわ」
そう言ってマーガレットはリュセット共に、部屋を出た。