薔薇の刺繍
「ふぅ、今日もいい天気ね」
燦々と降り注ぐ太陽の光に向け、リュセットは手でひさしを作りながら太陽を見上げた。すると、洗濯紐を結んだ木の枝に止まっていた小鳥が、リュセットに向かって飛び立った。それはまるでリュセットにおはようの挨拶をするかのようだった。
「あら、リズとルーク。今日も二人は仲良しなのね」
リュセットの肩に止まった二羽は頬ずりをしながらチュンチュンと鳴いている。そんな様子にリュセットは微笑みながらくちばしの下を指の先でそっと撫でてやる。するとリズと呼ばれた小鳥は気持ちよさそうに目を閉じて、リュセットに身を委ねている。
リズとルークは同種の鳥で、鶯と同じ手のひらサイズの小鳥だ。顔から胸元にかけて黄色味がかったオレンジ色をしているのが特徴で、ルークはその範囲が目元より後ろから、リズは目元を境界線にして色づいている。二羽はいつもこの家の裏庭に立つプラタナスの木にで羽休めをしつつ、リュセットからパン屑などの餌をもらいに来ている。そして何よりリュセットにとってはこの小鳥達もネズミのシャルロット同様に友人の一人であった。
「洗濯物を干したら後でこっそり食事の残りものを持ってくるわね」
リズとルークはリュセットの言うことが理解しているかのように、首のない小さな顔を頷くように動かした後、リュセットの肩から飛び立った。
二羽が羽ばたく様子を微笑みながら見送り、リュセットはカゴに入った洗濯物に取り掛かった。洗濯物はプラタナスの枝に洗濯紐を巻きつけ、そこに干していく。天気の悪い日や天候が変わりやすい気候の安定しない季節は室内干しをすることが多いが、リュセットは天気の良い日にお日様の下で干すのがとても好きだった。
「マーガレットお姉様、早速この洋服をきてくださった。久しぶりに外に出られた気分はどう?」
リュセットは洋服に触れながら、そう問いかけた。それは母親が若き頃に着ていたという洋服。質素だけれど丈夫だ。昨日はマーガレットがそれを着ているのをみてとても嬉しい気持ちになっていた。これを着て外出をしていたマーガレット。ということは、マッサージの練習のためにこれを着て誰かに会っていたのだろうとリュセットは考えていた。マーガレットに口止めをされているため、余計なことは言わないようにしていたが、リュセットにとってはどちらにしてもこの服が再び日の目を見れることの方が何よりも嬉しく感じていた。
「灰かぶり、どこにいるんだい」
声の感じからすると、マルガリータだ。リュセットはそのことに気がつき、裏口に向かって返事を戻す。
「私はこちらですわ」
裏口からぬっと顔を覗かせたのは案の定マルガリータだ。リュセットの姿を見つけたマルガリータは手に持っていたドレスをドサリと床に置いた。
「このドレスと下着類を洗濯しておいてちょうだい」
「わかりましたわ、マルガリータお姉様」
嫌な顔一つ見せず、リュセットはそう答えると、マルガリータはふんと鼻を鳴らしてこう言った。
「間違ってもマーガレットのドレスのようになったら承知しないからね」
「はい、洗濯は任せてくださいませ。けれど、マーガレットお姉様のドレスはどうしてああなってしまったのか……ドレスは部屋の中に干すようにいたしますわ」
困惑した様子を見せてリュセットは今干したばかりの洗濯物に目を向けた。今干したものはほとんどがタオルやハンカチなど。リュセットの母親の服はあるが、太陽の下に干したいと思っているリュセットはあえて外を選んでいた。
「ところで灰かぶり、あんたマーガレットと最近仲がいいじゃない。何がきっかけでそうなったのか教えてちょうだい? 私だけ仲間はずれは寂しくてよ」
扇で目元から下を隠しながら目を伏せた。けれど扇の下では口角をここぞとばかりに引き上げ、ほくそ笑んでいる。一方そんなこととは露知らず、リュセットは眉を八の字へと形を変えて心を痛めていた。
「そんな、私達はマルガリータお姉様を仲間はずれになどしておりませんわ。ただ最近マーガレットお姉様が私のことをとても気遣ってくださるのです」
「あら、私もあんたのことを気遣ってるつもりでいたのだけれど、どうやら通じていないようね。あんたがお父様を亡くされて悲しみにくれてばかりにならないか心配で私は仕事を与えているのですわ。掃除や洗濯もそのためなのよ」
マルガリータは自分で言った言葉がおかしかったのか、肩を震わせて声を堪えながら笑っている。扇はすでにマルガリータの顔を全て隠してしまっていた。
けれどそんな状態ですらリュセットは疑うという考えを持ち合わせておらず、胸に手を当てて涙目で感謝の意を述べた。
「マルガリータお姉様……ありがとうございます。そんな風に思っていただけて私はとても幸せ者です」
「そう思うのなら、私の裁縫を手伝ってはくれないかしら?」
「あら、それでしたら私この後マーガレットお姉様と裁縫を一緒にやるつもりですので、ご一緒にいかがでしょうか?」
マルガリータは冷めざめとした表情でリュセットを見やる。神経質そうな眉の片側をピクリと揺らしながら。
「裁縫を一緒に? あの子あんたに裁縫させるつもりなんじゃ……」
「いいえ、マーガレットお姉様は裁縫を習いたいと仰っておいでですわ。ですので、私は微力ながらお手伝いできればと思っているのです」
「ふん、どーだか」
小声でそう呟いた後、マルガリータは再び顔を取り繕った。まるで別の仮面をその顔にかぶせるように。
「それよりも私はお母様に裁縫の腕が上がったと伝えたいのだけれど、まだまだ力量が足りなくてね。練習は毎日一人でしているけれど、もう少し時間がかかってしまうの。このままではお母様はいつか私のことも外出禁止にしたり、ドレスを買ってくださらなくなるのではないかと心配で心配で……」
扇に隠れて涙を流す……ふりをするマルガリータ。けれどそれを本当に泣いていると感じているリュセット。リュセットはマルガリータの元へと駆け寄り、マルガリータの手を取った。
「心配なさらないでマルガリータお姉様。お母様はきっとそのようなことは仰らないですわ。だってこんなに努力しようとされているのですから」
「おお分かってくれるのね。私は心配で焦ってしまって余計に上手くできずにいるの……だからもし、一つでもあんたが私のために繕ってくれたのなら、私は安心して自分の裁縫に集中できると思うの」
「分かりましたわ。私が一つ刺繍したものをお渡しいたします」
まっすぐ澄んだ瞳は信念に燃えていた。そんな瞳を見つめながらマルガリータは心の中でほくそ笑みながら、こう言った。
「あるものではダメよ。それはもうお母様もご存知かもしれないし、マーガレットに知れたらあの子がお母様に告げ口するかもしれないでしょう?」
「マーガレットお姉様がそのようなことをなさるとは思えませんが……?」
「念のためよ。それに私はお母様の残念そうな顔を見たくはないの。だから新しいものを私のために刺繍してくれないかしら? もちろんマーガレットにも内緒で」
リュセットは一瞬考えた後、小さく頷いた。気がつけばリュセットがマルガリータの両手を握りしめていたはずだが、今はもうマルガリータがリュセットの手を握りしめている。まるで逃がさないとでもするかのように。
「分かりました。私もお母様のそのような顔は見たくありませんもの」
「では、今夜のディナーの時間までに赤い薔薇の花の刺繍を縫ってもらえるかしら?」
「こ、今夜ですか?」
さすがのリュセットもマルガリータのこの無茶なお願いには度肝を抜いたようだ。リュセットは家事を全て一人でやこなしている。母親を亡くした後、父親のウィルヘルムが仕事で家にいない間はいつもリュセットが家を切り盛りしていた。ウィルヘルムがいなくなった後は特に家計のことも考えて使用人を入れていないため、その仕事は全てリュセットに押し付けられていた。
リュセットは家事をするのも好きなため苦ではない。その為裁縫も得意で、刺繍も大したものでなければあっという間に終わらせることができる。それは買い物や掃除洗濯、食事の準備という日常的なことを除けばの話だ。
今はもう太陽が真上を通り過ぎている時刻。今から薔薇の大輪を刺繍するとなるとかなりの時間が必要だと、リュセットは頭の中で時間の逆算を始めていた。
「明日の夜まででは如何でしょう? 今日はマーガレットお姉様に裁縫を教える約束をこの後にしておりますので、少し難しいかと……」
「やっぱりあんたは私よりもマーガレットを選ぶのね!」
マルガリータはヒステリックに叫び、リュセットの手をはね除けるように離して扇で顔を隠した。
「昨日お母様が私の裁縫の腕を見てお怒りで、今夜までにきちんと仕上げたものをお見せしなければきっと、お母様は私をお嫌いになるわ……」
「そのようなことは……」
「もしそうなれば私はきっとお母様に外出せず毎日部屋で裁縫をしろと言われ、ドレスも買ってもらえず、きっと気を病んでしまうわ」
あまりにもマルガリータが悲劇的な様子で泣く為、リュセットはマルガリータのことが気の毒に思えてならなかった。困った様子で頬に手をついて、マーガレットとの約束を明日に変更できないか相談する案を講じた。
「それでは、一度マーガレットお姉様に相談して……」
「そうね! マーガレットとの約束は急ぎではないのでしょう? それなら日程変更も可能だわ。きっとマーガレットも了承してくれるわね。なんていい案なのでしょう」
マルガリータはリュセットの言葉を遮り、顔を輝かせながら再びリュセットの手を取った。
「いえ、私は一度マーガレットお姉様と相談ーー」
「そうと決まればよろしくお願いするわね。出来を楽しみにしているから」
マルガリータは有無も言わさぬ様子でリュセットにそう言い聞かせ、さっさと去っていった。リュセットは誤解を解こうとマルガリータを引き止めようとするが、聞く耳など持っていないマルガリータはそそくさとその場を去ってしまった。
「……はぁ、困りましたわね」
再び頬に手をつきながら、リュセットは太陽を見つめて立ちすくんだ。そんな様子を遠くの陰で見ながらしたり顔でほくそ笑んでいたマルガリータは扇をパンッと勢いよく開き、顔を扇ぎながらこう言った。
「マーガレットのせいでなぜ私まで裁縫の練習をさせられて、昨日はお母様に叱られたのだもの。灰かぶりにさせるつもりなのでしょうけれどもそうはいかないわよマーガレット……あんたも失態を晒してしっかり怒られればいいんだわ」