自分らしさ
「マーガレット!」
朝日が昇ってから数時間が経過した朝。遅めの朝食を食べていた時、地響きかと思えるような叫び声に思わず体が硬直した。振り返るのも恐ろしいが、振り返らずにはいられず……マーガレットは持っていたフォークをお皿の橋に置き、ゆっくりと振り返った。するとそこには、マーガレットの背後に仁王立ちしながら熟れたトマトのように赤らんだ顔をした母親、イザベラがそこにいた。
「……お母様、どうかなさーー」
どうかなさいましたか。そう問いかけようとした。けれどその言葉は言い切る前に、イザベラの声にすり潰された。
「マーガレット、母との約束を覚えているかい? 一歩も家から出るなと言っておいたはずだけど、もう忘れたとは言わさないよ!」
きたか、とマーガレットは覚悟を決めた。一度しっかりと深呼吸をした後、イザベラと向き合い、微笑んだ。
「ええ、もちろんですわお母様」
「それじゃなんで昨日は外に出歩いていたんだい! 先ほどシャーメイン夫人が教えてくださって、私は恥ずかしくて顔から火が出るかと思ったわ。よりにもよって昨日のあのみすぼらしい格好のままで出て行ってたそうじゃないか!」
やはりイザベラの耳に入ったか。おしゃべり好きの夫人の口に戸を立てるのは難しいことだ。マーガレットは呆れながらも、覚悟を決めてこう言った。
「はい、私は市場へどうしても行きたかったのです。それがお母様との約束を破ることになると分かっていただけに心苦しい思いではありましたが……」
ドレスのスカートをぎゅっと両手で握りしめ、下唇に歯を突き立てた。
「……そんなことを理由に、マーガレットは母の約束を破ったのかい? それもたった一日で?」
先ほどとは打って変わり声は静かなものとなった。けれどそれが逆マーガレットを震えさせる。まるで火山が噴火する前を見ているよう。
「……はい」
「マーガレット!」
イザベラは閉じた扇で、マーガレットの足を叩いた。思ったよりも鋭い痛みを放つそれに対して驚きのあまり声が出ない。
「もうマーガレットは母が良いというまで外出は禁止だ! いいね!」
有無を言わさぬその口ぶりに、流石のマーガレットもしまったと思った。この状態では一週間どころか本当にイザベラが良いと言うまで家に閉じ込められてしまう。そうなれば、それが解除されるのは一体いつになるのか……先ほどは演技で下唇を噛んだが、今回は演技ではなく噛み締めた。
「ですが、お母様……」
「言い訳はおよし!」
イザベラは聞く耳持たず、さっさとキッチンから出て行ってしまった。
「マーガレットお姉様、大丈夫ですか?」
ずっと立ちすくんでこの状況を見ていたリュセットが、心配そうな表情でマーガレットのそばに立った。
「ええ、けれど困ったわ。これでは外に出れるようになるのはいつになることやら……」
「そうですわね。お母様はなかなか意見を曲げないお方ですから」
「そうよね」
分かっているだけに、どうしたらいいのか。打開策が見つからない。
困り果てた様子で、マーガレットは頭を抱えた。
「一週間後に約束があるの。一週間後ならお母様のお許しが出ていると思って、約束をしてしまったのよ。それなのに……」
「そう、でしたか……」
マーガレットの肩にそっと手を置き、リュセットは悲しそうに眉尻を下げた。
「ですが、マーガレットお姉様。気落ちするにはまだ早いですわ。お約束は一週間後なのでしょう? もしかするとそれまでにお母様の機嫌がなおるかもしれませんわ」
「そうかしら?」
前向きな言葉を紡ぐリュセットに対し、投げやりな返答をするマーガレット。今はリュセットの言葉でも慰めにすらならなかった。
「諦めないでマーガレットお姉様。お母様の機嫌が変わらないのであれば、一週間の間に私達で機嫌を良い方向へと向ければ良いのですわ」
「……どうやって?」
あの堅物の機嫌を良くするにはどうすればいいのか。いつも何かに不平不満をこぼしているような、そんな人間だ。ちなみに言えば姉のマルガリータはそんなイザベラの性格をよく受け継いでいると、マーガレットは常々思っていた。
「そうですわね、例えば縫物で何かお母様にプレゼントをしてみるとか、素晴らしい出来栄えのものをお見せするとか……?」
そんなものであのイザベラの機嫌が直るのだろうか。正直、マーガレットは後向きな気持ちだった。むしろそれでどうにかなるのであれば、こんなに苦労はない。その上、一番の問題は技術的なところだ。マーガレットには裁縫の才が無い。
けれど、他にいい案が思いつくわけでもなく……マーガレットははぁ、とため息をひとつつき、顔を上げた。
「そうね、他にいい案もないし、リュセットの言う通り頑張ってみようかしら」
疲れた顔で微笑んだマーガレットを見て、リュセットは輝かしいほどの満面の笑みを携え、こう言った。
「きっとお母様もお喜びになられますわ! そうすればきっと、お母様もお考え直してくださるに違いありませんもの」
「そうだといいけれど」
不安は拭い去れない。けれどきっと上手くいくと心の底から思っているであろうリュセットの笑顔を見れば、マーガレットもつられて、もしかすると上手くいくかもしれない……などと思えてくる。リュセットのひたむきで前向きな性格だからこそ、人にも伝染する力を持つ彼女の魔法なのかもしれない。
マーガレットはそんなことを考えながら、この愛らしい妹に微笑みを返す。それはさっきよりも優しい笑顔で……。
「そうなるためにもリュセット、私に力を貸してくれるかしら?」
「ええ、もちろんですわ!」
華奢で背も家族の中で一番低い。そんなリュセットの弾けんばかりのパワフルな笑顔につられて、マーガレットは声を立てて笑った。
「ふふっ、ありがとうリュセット」
*
食事を終えた後、リュセットは洗濯物を済ませてから裁縫を教えにマーガレットの部屋へと来ることになった。それまでの間、マーガレットはどういったものを刺繍するか一人で考えながら部屋の窓辺に腰を下ろした。
マーガレットの手には木製の小さな宝石箱。手のひらよりも少し大きなサイズのそれを撫でながら、ふたを開けると、中には過去にイザベラから貰ったおさがりのもや、両親から買って貰った宝石類が入っている。その中でも一番上にそっと置かれているのは、昨日カインから預かったネックレスと1大型銀貨だ。
マーガレットはカインのネックレスをそっと指に絡めるようにして持ち上げ、太陽の光にかざすようにしてペンダントトップを見やる。
「カイン……」
ため息を漏らすように思わず出たその言葉に、マーガレットは驚いた。王家の紋章を指の腹でなぞりながら、思い出していたのはカインの事だった。
「変なの。あんな嫌な出会い方したのに、今ではこんなに親しい間柄なんだもの」
それも出会ったのはつい最近のこと。出会いは最悪。それなのにーー。
『ーーマーガレットに何かあればと思うと、俺は心配でならない』
それは単に夜道に一人で帰らせるのは危険だと言う意味で言っただけのこと。カインにとってそれ以上もそれ以下もない言葉。そうだと分かっているけれど、マーガレットはその言葉を思い出すたびに胸の奥がムズムズとするようなくすぐったさを感じ、頬がほんのり火照り出すのを抑えることができずにいた。
「カインなら……」
一度は口にしようとした続きの言葉を、マーガレットはそっと喉の奥に留めた。
(カインなら……私の最悪な未来を変えてくれるかもしれない)
森の中で山賊に襲われていたあの時、マーガレットを助けに颯爽と現れたように。
「……自分らしくもないこと思っちゃったな」
小さく頭を左右に振って、自嘲気味に笑った。自分の未来を人に託すなど、マーガレットらしくもない。それだけ今のマーガレットは弱っているのか、それともカインと共に過ごす未来を願っているのかーー。
「久しぶりに乙女チックな私が出てしまった」
マーガレットは立ち上がって窓から離れ、そのままネックレスを宝石箱の中にしまい直し、パタンと蓋を閉じた。
カインには外すなと言われたが、これを付けているとイザベラやマルガリータに何を言われるか分からない。詮索好きなあの二人がこの紋章を見た日にはもう、カインとのことを隠すのは難しくなる。そう感じたマーガレットは家の中では宝石箱の中にしまうことにした。
引き出しの中から小さな鍵を取り出し、宝石箱の蓋についている鍵穴にそれを差し込んだ。
ーーカチリ。そんな小さな音を立てて、箱は眠るように静かになった。次また開けられるのをただ黙って待っているかのように。