ベッドの準備
「さぁ着いた。ここだ」
幾分か馬を走らせ止まった先は、街から離れた場所にある丘の上の家だった。
「ここは……?」
本当ならばどこへ行く気なのか馬に乗っている時に聞いておきたかった。だが、それができる状況ではなかった。
「もしかして、カイン様の……?」
「そうだな、いわば別宅みたいなものだ」
団長とはいえ、騎士は騎士。貴族でもなければ別宅が持てるほど給与がいいとは思っていなかっただけに、マーガレットはぽかんと口を開けてまじまじと家の外見に目を向けた。
お屋敷とまではいかないが、まるで絵本で見るような可愛らしいお家だった。赤茶色のレンガ屋根には煙突が一つ。庭には意外にも手入れが届いているようで、季節の花が咲き誇っている。
「ここなら誰にも邪魔はされず練習ができるぞ」
そう言ってカインはスタスタと裏口に馬を留に行った。家の外塀はマーガレットの背丈より少し低く、石塀だ。一歩その石塀の中へとはいれば、美しく咲き誇る花の香りが充満している。
「マーガレット、こっちだ」
小さな花の庭園を抜けた後、玄関口に立ち扉を開けて待っていたカイン。そのカインに誘われるようにして、家内へと入って行った。
家の中に、見ている限りだとマーガレットとカインの二人きり。少しも警戒していないかと言われれば嘘になるが、マーガレットはカインのあの誓いを信じると決めていた。
『ーーこの剣に誓おう、俺の言葉に嘘偽りがないことを。そして、誇りと名誉にかけて』
カインは剣を掲げ、そう言った。そしてーー『二言はない。信じろ』と。その力強い言葉と、揺るぐことがなく澄んだ青い瞳がマーガレットをここへと導いていた。
「寒いだろう、こっちへ来い」
カインは上着を脱ぎ、居間にある暖炉に薪をくべた。暖炉のそばに置いてあるマッチで火をつけると、パチパチと薪がはぜる音が心地よく室内に響いた。
マーガレットはブルル……と少し身を揺らし、両手で身体を抱きしめるようにして暖炉のそばへと向かう。カインがカーテンを開け、外の光が室内に差し込んだ。厚いカーテンで閉め切っていたせいか、室内は外よりも寒い。
「しばらく使っていなかったからな、少し埃っぽいかもしれん」
「その割に綺麗ですわね」
小姑のようにマーガレットが窓の桟に指をツーと滑らせた。けれど埃がついている様子はない。
「ああ。一応昨日使用人をここへ送り、ある程度掃除はさせてあるからな」
「使用人……」
騎士団長とは想像よりもお金持ちなのかもしれない。そんな風に思い始めていた頃、カインがぐっと腕を伸ばして首を回した。
「凝ってらっしゃるようですね」
「ああ、最近は机に向かう事務的な仕事が多くてな」
「鍛錬や警護だけではなく事務仕事ですか……騎士団長様は大変ですわね」
それだけ忙しくしているのであればそれなりの給与がもらえてもおかしくはないか。そう思い、マーガレットはひとまず持っていたバスケットをソファーの上に置いた。
「それでは、どのようにいたしましょうか」
「どのようにすればいいのだ? 俺は素人だ、マーガレットの指示に従おう」
「そうですわね。初めは場所がないと思っていたので座ってマッサージをすればいいと思っていましたが……寝室はどちらにございますか? ベッドを拝見したく存じます」
家を提供してもらえるのならば、寝転んでマッサージをするのが一番だ。そう思い、マーガレットは寝室を案内してくれるというカインの後を追って居間を後にした。
「ここがゲストルームだ。そこにベッドもあるがそれではどうだ?」
客間は簡素なものだった。真ん中にベッドがあり、その両側にはベッドサイドボードが二つ。両方にブックライトが置かれている。他にはクローゼットが一つ置かれていた。ベッドの頭上の壁には壺の中に花が活けられた絵画が飾られ、ベッドはキングサイズのダブルベッドだ。
マーガレットはベッドに歩み寄り、手で柔らかさを確かめる。
「他の部屋にもベッドはあるが、確認するか?」
カインは入り口の扉に背中を預けながら、マーガレットの様子を観察しながらそう言った。
「他の部屋も同じベッドでしょうか? このベッドよりも硬いマットレスを使用しているものはございますか?」
カインは一瞬思い出すような仕草を見せたが、すぐにこう言った。
「自分の目で確かめてみるといい。こっちだ」
マーガレットはカインの後を追って、結局全てのベッドを確認する羽目となった。ベッドは全てで計四つ。どれも似たり寄ったりではあるが、強いて言えば最後に確認した部屋のベッドが一番手応えがあった。それはクイーンサイズのベッドで、マットレスの厚みは他のベッドに比べて低くい。一番小さな部屋の中にあったベッドだった。
「どうだ?」
正直なところ一番小さなベッドが一番マシというだけで、やはり本来は硬いベッドでするのが一番やりやすい。高さも程よいものが見つからず、マーガレットは悩んだ末にこう言った。
「例えばですが、床にキルトを敷いてマッサージするというのは可能でしょうか?」
カインの眉間にシワが幾本か刻まれた。居間に戻ってきた二人はソファーに座り、カインは足を組み直して口を開いた。
「なぜ床なのだ? あのベッドでは何がダメなんだ?」
素朴な疑問。シンプルな質問。マッサージを受けたことがないのであれば仕方がないこと。マーガレットはゆっくりと微笑みを携え、カインの疑問を受け取った。
「ええ、難しいですわ。理由は二つ、一つはどのベッドもマットレスが柔らかすぎます。あれではあの上にカイン様が寝そべり私がマッサージする際に手で圧を加えたとしても、体が沈み、圧がかかりません。そしてもう一つはベッドが大きすぎます。マッサージをする際はいろんな角度から圧を加えます。あれだけ広いベッドですと結局はベッドの上に私も乗ることとなり、私の体もベッドに沈みます。そんな状態では到底圧を加えることはできかねます」
マーガレットの答えに納得した様子のカインは、さらにこう畳み掛ける。
「では床であればできるのだな?」
「はい、ですが下にクッションとなるものが必要ですわ。絨毯の上に幾枚かのキルトを敷き、少しボリュームを出しましょう。床も石よりも木製のものの方が柔らかさが出るかと思います」
組んでいた足を解き手を組んで前のめりに座るカインを、マーガレットは堂々とした様子で淡々と質問に答えていく。質問の回答には一つも迷いを感じない、安定したものだった。
「わかった。では早速やってみよう」
「ではカイン様は枕をなるべく小さくて硬いものを一つ、タオルを数枚、キルトも同じく何枚か運んできてはいただけますか? 私はその間に、このあたりの床を拭いておきますわ」
直に床に寝るのであれば、埃をダイレクトに吸うことになる。昨日使用人が掃除をしに来ていたようだが、それでも床は砂やチリが多く感じていた。なにせ満里奈の世界、日本とは違い、欧米スタイルのために、部屋の中でも土足で歩いているからだ。普段床で寝るなんてこともない世界。それはマーガレットのほんの小さな心遣いであった。
マーガレットはいつになくやりがいを感じていた。この世界に転生してからというもの、マーガレットは失敗続きだった。家事全般、それは満里奈の頃から得意ではないこと。満里奈の世界では食べ物は簡単に手に入り、料理ができなくともスーパーへ行けばお惣菜だって売っている。レンジでチンするだけの便利な冷凍食品だってあった。
洗濯もそうだ。ボタン一つで全自動、その後乾燥機にでも入れてしまえばほかほか柔らかな衣類が返ってくる。洗いにくいものはクリーニングに出してしまえばいい。食器だって食器乾燥機という便利なものがある時代ーーだった。
けれどこの世界にはそれらがない。自立し、自分で全てしなければならないのだ。今まで満里奈が必要にかられなかったもの全てがここでは必要だった。だからこそリュセットには感謝の気持ちしかない。けれどそれは同時に、自分の出来の悪さが浮き彫りになり、そんな自分を知れば知るほどどこか惨めな気持ちにもなっていた。
イザベラはそんなもの必要としない、使用人を雇えるような立派な貴族の家に嫁げばそれでいい。だからこそ着飾ること、言葉遣い、礼儀を重んじる。けれど、今マーガレット達の生活に必要なものは着飾った洋人形のような存在ではなく、リュセットのような存在だ。
だからこそ、マーガレットは今この瞬間にやりがいと楽しさを見出していた。やっと自分でもできるもの。それで人が喜んでもらえるもの。その上それがお金にもなる。
ワクワクする気持ちを抑えられず、マーガレットは無意識に笑いながら床を磨いていた。カインがマーガレットに指示されたものを持って、この居間に戻ってくるまで。カインにそのことを指摘されるまで。
「そんなにマッサージをするのが楽しみなのか? それともお前は床磨きが楽しいのか?」
「えっ?」
カインはタオルを居間のダイニングテーブルの上に置き、自分の頬をトントンと指差した。
「顔がにやけている」
にやけていることに気づいていなかったマーガレットは、とっさに両手で頬を抑えた。すると、床を磨いていた汚れた手で、頬は黒く染まってしまった。そんな様子を見たカインが声を立てて笑った。
「ははっ、マーガレットは顔を赤くしたり黒くしたり、忙しいやつだ」
眩しいほどの笑みでカインはマーガレットの目の前に立ち膝をつき、首に巻いているヒダのついたジャボを取り、それでマーガレットの黒く汚れた頬を優しく擦り落とす。
顎を空いた片手で固定され頬を擦られている間、どこに目を向ければいいのかやり場に困っていると、それに気づいたカインは再び声を上げて笑った。
「はははっ、ほらな。今度は赤くなったではないか」
「これは拭いても落ちませんので!」
カインの手を払いのけたにも関わらず、再びカインに顎を掴まれ無理矢理顔を向けさせられた。
「まだ、ここが落ちていない。大人しくしていろ」
「……そうやって命令ばかりする」
思わずぼそりと言った言葉は、目と鼻の先にいるカインの耳にしっかりと届いた。マーガレットのその言葉を聞いて目を丸くしたかと思ったが、やがてそれは微笑みへと変わった。
「やっと堅苦しい言葉が抜けたではないか」
思わず見惚れてしまいそうになる程、柔らかな笑みでそう言ったカイン。それは今まで見せたどの表情よりも友好的で、優しいものだった。
「ほら、取れたぞ」
マーガレットの顎を解放し、その手でマーガレットの頭をくしゃりと撫でた。撫でた後、カインは再び残りの物を集めるために部屋を後にした。けれどマーガレットはまだその場に固まったようにすくんでいただけだった。