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仕返し

  *



 活気のあるマーケットを横切り、マーガレットはそそくさを人混みに紛れるようにして街の外まで向かう。本当は待ち合わせの時間にはまだまだゆとりがあるため、この辺りで時間つぶしをしたいところだが、いつどこでイザベラやマルガリータの知り合いに出会うかわからない。もし出会ってしまったものなら、この脱走劇は終了となる。おしゃべり好きな人達だ、間違いなくマーガレットが街にいたことは二人の耳にも入るだろう。挙句今日はリュセットの服を借りているため、ゴシップに飢えている人達の恰好の餌食にされてしまう。とうとうリュセットだけではなく、マーガレットまでみすぼらしい姿になった。いよいよあの家にはお金がないなど……。それを聞けばあのイザベラがどう思うか。考えただけで身の毛がよだった。

 今日の天気は曇り。はっきりとしないくぐもった空の日は気分が上がらない。けれど今日のマーガレットは違った。そんな天気すら打ち破るように心は踊り、ワクワクしていた。


「私でも、お金が稼げる。そして、本が借りられる!」


 それが何よりも嬉しかった。

 この世界に転生してからというもの、マーガレットは毎日が退屈だったのだ。毎日締め付けられる苦しいドレスを着て、できることといえば家事や裁縫、時々社交ダンスの練習、その程度。そしてそのどれもがマーガレットの不得意分野。楽しいはずがない。

 そんな中で貸本屋に出向いた際の感動はマーガレットの中に今でも鮮明に覚えていた。天井の高い建物の中、360度見渡す限り埋め尽くされた本。あの圧巻ときたら、思わずマーガレットの体が身震いするほどのものだった。重厚な作り、革の装丁、羊皮紙を使われた紙。それは見た目だけでもうっとりとさせてくれる代物だった。本を部屋に置いておくだけで部屋がぐっと引き締まるような、インテリアとしても楽しめるほど美しい物たち。早く手に取り、中身を読んで見たい……その衝動が、マーガレットの足を街の外まで走らせる。

 ーーと、そんな時だった。


「あら、リュセットじゃないか」


 リュセットとという名前に思わず足が止まった。それがマーガレットの最大のミスだ。足を止めず走り去るべきだったのだ。

 けれどマーガレットは止まってしまい、振り返ってしまった。貸本屋での思い出に我を忘れて、浸りすぎていたせいだろう。


「……? リュセットじゃないね。もしかして、マーガレットかい?」


 しまったと思った時にはもう遅い、ドレスの裾を引きながらどんどんマーガレットへと近づいてくる。


「……おはようございます、シャーメイン夫人」


 観念したマーガレットはスカートの裾を持ち上げ、いつものように挨拶を交わす。


「どうしたの、その……みすぼらしい格好は。私は思わずリュセットだとばかり思ったよ」

「実は今日は体調が悪いのでコルセットのないこの洋服を着ることにしたのです。外にも出るつもりもなかったもので、このような格好で失礼いたします。すぐに戻るつもりでしたので、まさか知り合いに会ってしまうとは……」


 マーガレットは動揺した様子で、視線を右から左、上から下へと忙しなく動かした。


「このような格好で外を出歩いていたことがお母様に知られたら、きっとお怒りになられますわ……どうしましょう……」


 口元に両手を当てて、顔を青ざめている。今にも泣き出してしまいそうな、そんなマーガレットの様子を不憫に思ったのか、シャーメイン夫人は開いていた扇を閉じてマーガレットにそっと歩み寄った。


「体調が悪い時に出歩くものではないよ。しかもこのような格好をしているのであればなおさらね。イザベラ夫人には黙ってておくから早く家へ戻りなさい」

「本当ですか……ありがとうございます……!」


 マーガレットは再び深々と会釈をし、家のある方角へ向けてそのまま駆けて行った。けれどもちろん家には戻るつもりもなく、シャーメイン夫人の手前家に帰るように見せかけたのだ。夫人から見えなくなるように道をすぐに左折し、壁にもたれながら息を整えた。それは走ったせいもあるが、何よりも知り合いに出くわしたことによる動機からだ。

 ド、ド、ド、ド、とリズミカルに心臓が跳ねている。胸を抑え、深く深呼吸を何度か繰り返した。


「なんて運が無いんだろう……よりによってお母様の友人に会ってしまうとは……」


 シャーメイン夫人はおしゃべりで有名な夫人だ。イザベラとも仲が良い。先ほどははああ言っていたけれど、本当に黙っていてくれるのかどうかは疑問だった。


「ひとまず、これ以上誰にも見つからないようにしなくちゃ」


 手に持っていたバスケットの中から淡いグレイカラーのショールを取り出し、頭からそれを被る。ここまできたらこのまま引き下がるわけにはいかない。


「もし次も誰かに声をかけられたら、今度は絶対立ち止まったりしない」


 そう心に誓って、マーガレットは顔を隠すようにショールを掴んで、駆け出した。



  *



 街の入り口まで差し掛かったところで、マーガレットはホッと一息ついた。普段運動なんてしていないマーガレットの体は少し走っただけで簡単に息が上がり、足はすでに震えていた。街の入り口のゲートを抜けて外に出たところで、頭に巻いていたショールを外し、バスケットの中にそれをしまった。と同時に、そのバスケットの中から水筒を取り出した。


「水、用意しておいてよかった……」


 水筒の口をひねり開けて、がっつくように水を喉へと流し込む。カラカラに乾いていた喉が生き返るように潤いを取り戻したのを感じて、水筒をバスケットの中へと戻した。

 疲れて足が鉛のように重い。こんな状態でマッサージなどできるのだろうか……そんな一抹の不安を感じながらも、近くにある大きな岩の上に腰を下ろした。

 すると、道の向こう側から黒い馬が風のように駆けてくるのが見えて、マーガレットは再び立ち上がった。再び足が悲鳴をあげているが、聞こえないふりをしながら。


「なんだ、早いではないか」


 つい先ほどまで黒い点のように見えていた馬が、あっという間にマーガレットの向かいまでやってきた。さすがは馬の脚力とでも言ったところだろうか。

 カインは馬から飛び降り、マーガレットはハッとして会釈をする。そんなマーガレットをまじまじと見やるカインの視線に居心地の悪さを感じ始め、口を開こうとした時、先に口火を切ったのはカインだった。


「今日はやけに質素なドレスを着ているな」

「ええ、マッサージをするのに着飾る必要はございませんので。それに、むしろ煌びやかさは邪魔にございます」


 しずしずとそう言うと、カインはははっと笑った。けれどそれもすぐに影に隠れて、再びこう言った。


「マーガレットがやりやすいようにすればいい。けれど、その言葉遣いはやめろ」


 そうだった。と、指摘されるまで自分の言葉遣いには気づかず、今更どうやって言葉を崩せばいいのか。普段こちらでは目上の方、殿方とは基本的にこのように振る舞うよう教えられている。イザベラは特にそれに煩いのだ。


「そう申されても、急には難しいかと……けれど譲歩するよう努力いたします」


 どこか満足のいかない様子だが、「まぁいい」そう言い、カインはマーガレットの荷物を見やった。


「そんな荷物、どうするつもりだ?」

「ああ、これはマッサージに使う布と私のショール、水筒、そして……」


 パスケットの一番下に大切に入れていたもの、それはカインのジュストコールだ。この上着が大きいため、マーガレットはこの抱えるほど大きなバスケットを持っていたのだ。


「こちらお返しします」

「いらんと言っただろう」

「ですが、私も必要ございません。お貸しいただきありがとうございました」


 深々と頭を下げてみるが、カインは不満な様子が手に取るようにわかる。そんな様子がなぜだかマーガレットにはおもしろおかしく思えてきて、下げた頭の下でクスクスと笑っていた。

 偉そうな口ぶりの騎士団長。その人物がまるで子供みたいに見えてきたのだ。案外慣れてしまうとこの人物の取り扱いがわかってきた……気がしていたそんな矢先、カインはマーガレットの頭をグリグリと力一杯撫でた後、ジュストコールを受け取った。


「何がおかしいのだ?」

「いいえ、何も」


 髪をかき乱され、それを整えているうちにカインはジュストコールを羽織り、馬に跨った。


「マーガレット」


 来いと言わんばかりに手を差し出され、マーガレットがバスケットを抱え持った。


「えーっと……どのようにしたら?」


 そんな疑問を投げた瞬間、カインは上手く馬に捕まったまま、片手でマーガレットを抱き上げた。驚く間も無くマーガレットの視線はいつもよりも高い位置にある。


「ゆっくりと走る。そのバスケットごと振り落とされないよう、しっかり俺にひっついてるんだな」


 そんな言葉を耳元でそっと囁かれ、マーガレットはカインの片手に抱きとめられた状態で馬が歩き出した。腰に回された強い腕。甘い甘いパフュームの香り。

 慣れていないマーガレットは赤く染まる顔を抑えることも、隠すこともできず、ただただ羞恥心から胸がむず痒くなる衝動と戦っていた。そんなマーガレットを見てほくそ笑みながらカインは再びマーガレットの耳元に息を吹きかけ、囁いた。


「……先ほどの仕返しだ。俺を笑ったことを後悔させてやる」


(でしたら私は、すでに後悔済みです……)


 そう言いたいところだが言うのは悔しく、マーガレットは静かに下唇を噛み閉めただけだった。

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