童話の世界
幼い頃に読んだ童話の内容は今でも覚えている。変わることのない、長く読み継がれてきた童話の世界に憧れにも似た感情を抱くのは、あれが現実とは違うものだと認識しているからなのかもしれない。
*
今日という日がいつものようにやってきた事を伝える鳥のさえずり。そんな合図が聞こえたと共にキッチンへ向かうと、お腹を締め付ける芳しい香りが夢見心地から現実世界へと引き戻す。
「マーガレットお姉様、おはようございます」
小鳥が歌うかのような愛らしい声で、リュセットはマーガレットの姿を見た瞬間にそう言った。朝食のパンをオーブンの釜で焼き直し、それをトングで挟み取り、バスケットに並べるそんなありふれた動作ですら華麗に見えるリュセットの様子は、マーガレットの目には朝の陽の光よりも眩しいと思った。
「おはようリュセット。今朝は何を作っているの?」
スカートの裾をひらりと翻し、結んだ髪を揺らしながらにっこり微笑むその姿は絶世の美少女だとマーガレットは思った。ただし、いつも着てるワンピースが灰で煤汚れている事を除けば、だが。
「ふふっ、今朝は新鮮な卵が手に入ったので、オムレットを作っておりますの」
嬉しそうに鼻歌を歌いながら卵を手に取り、カツンカツンと二度テーブルの端で卵を割り解きほぐす。マーガレットは、なぜリュセットはこんなにも毎日楽しそうなのだろう、と思いながらも彼女の笑顔に引っ張られるようにして微笑んだ。
「いつもありがとう、リュセット。本当ならば私も作ってあげるべきだとは思うのだけれど……」
「マーガレットお姉様は気になさらないで。私が好きでこうしているのですから」
マーガレットは苦い顔で席についた。バターの豊満な香りがマーガレットの胃を締めつけ、締め上げている。だがしかし、マーガレットが渋い顔をしたのはそれが原因ではない。
マーガレットは三人姉妹の真ん中で、リュセットは一番下だ。リュセットは元々一人っ子だったが、マーガレットの実母であるイザベラと、リュセットの実父であるウィルヘルムが再婚したことにより二人は義姉妹となった。
元々生まれた両親が違うためか、生まれ持った育ちのせいなのか、リュセットはとても家庭的で料理、洗濯、掃除、買い物の目利きなど卒なくこなすだけではなく、それがとても上手い。料理に関しては一流シェフ顔負けの味だとマーガレットは心底思っている。
それに比べてマーガレットは、家庭的の“か”の字もなく、料理をすればボヤ騒ぎ、掃除をすれば食器は壊れ、洗濯は衣類の分類もわからずマーガレットの実姉マルガリータのお気に入りのドレスを破いてしまったり、買い物では騙されて粗悪な品を高値で買わされたりもしていた。まるでリュセットとは真逆をいく人物だ。
「あら、まだ朝食の準備もできていないのかい?」
そう言いながらキッチンへと足を運んで来たのは、マーガレットの実母でありリュセットの継母にあたるイザベラだった。鷲の嘴を彷彿させるような鋭い鼻先、目尻は猫に引っ掛かれでもしたかのように釣りあがっている。その上眉間には深い真性ジワが数本刻まれ、普段から何かにつけて文句を言っているイザベラは、今まさにそのシワをさらに深いものにしていた。
「本当に何をさせてもトロい子。あんたの衣服についている灰、その食事の中に入っていないでしょうね?」
イザベラは手に持っていた扇を開き、それで口元と鼻を隠した。リュセットは恥ずかしそうに自分の衣服に視線を落とし、灰がついているスカートの裾をぎゅっと握り締めた。
「お母様、リュセットは私たちのために朝食を用意してくれたのです。そんな言い方はあんまりではありませんか」
マーガレットはイザベラに向かって目くじらを立てながら、二人の間に割って入った。
「リュセットは私たちの代わりに掃除や食事の用意までしてくれているのですよ? 感謝の気持ちがあっても蔑むことはないと思いますわ」
「まぁ、マーガレット!」
威嚇するように母親に牙を剥くマーガレットとは相反して、イザベラはそんなマーガレットに瞳を輝かせながら抱きついた。
「私の知らない間に……マーガレットあなたはいつの間にそんなに優しい子に育ったのかしらね!」
「お母様、今はそんな話をしているのではーー」
イザベラがマーガレットを熱く抱擁している間に、さらにもう一人がキッチンの扉を開けて入ってきた。
「マーガレットまで灰かぶりのように良い子の振りをするのはおよしなさい。アンタまで灰をかぶって生活するつもり?」
「マルガリータお姉様」
嫌味な言葉を言ったのは姉のマルガリータ。裂けるように大きな口を隠すように扇を仰いでいる。リュセットに対してはマルガリータもイザベラも冷たく、まるで何か流行病のバイ菌でも見るかのよう。そんな態度を取られてもリュセットは変わらず微笑みながらマルガリータに会釈を交わす。
「そもそもリュセットに当てがわれた部屋は南側の一番日が当たらない場所。寒い夜は暖炉の残り火で暖を取って寝ているのをお母様もマルガリータお姉様もご存じのはず。そんな言い方をするのであれば替えの衣服をもっと与えるとか、暖炉の前で眠らなくても良いようにキルトを分け与えるとかいう考えはございませんの?」
「おおお、マーガレット。最近のお前は本当に人が変わったようになったじゃないか……お前は私に似てとても優しい子だよ。サンドリヨン、お前マーガレットのキルトを分けてもらってるそうじゃないか。それでも足りないと言うのかい?」
「い、いえ、そのような……」
サンドリヨンとはシンデレラと同意語で、灰かぶりという意味だ。
イザベラの言葉を受けたリュセットは申し訳なさそうに肩を萎縮させた。そんなリュセットに代わり、マーガレットは再び鼻息を荒くしながら二人の会話の間に立った。
「どうしていつもそうなるのです!? 毎日買い物、掃除、洗濯、その上食事まで用意をしているのはリュセットではありませんか。それなのにどうしてーー」
「そこまで言うのであれば、マーガレットが部屋を変わってあげればいいじゃないの」
扇を閉じた後、マーガレットをそれで指差しながら、鼻であしらうようにマルガリータはそう言った。
「マルガリータ、なんてことを言うんだい! マーガレット、お前もあまり余計なことばかり考えるんじゃないよ。リュセットは一番年下なんだから部屋は自ずとそうなるのは普通じゃないか。それにうちにはお金がないんだよ。その上ウィルヘルムときたらぽっくり死んじまってーー」
「お母様!」
マーガレットがイザベラの言葉を制した。あまりにも力強い口調だったためか、イザベラも、その場にいる他の娘達でさえ静かに口を閉じていた。
「今はその話をするのはやめましょう。それに、お母様、本日は出かける用事があると昨日おっしゃっていたではないですか。早く朝食を済ましてしまわないと時間に遅れてしまいますわ」
マーガレットの言葉を聞いて、イザベラは壁にかけられていた時計を見やった。時計を見た後、ぶつくさと何か文句を言いながら、慌てた様子で席に着き、再びリュセットに食事の用意をさっさと済ませるようにと指示を出しはじめた。それを受けて、リュセットは文句の一つも言わず、慌てた様子で再び料理に取りかかった。
「マーガレット、あんたいつからあの灰かぶりと仲良くなったのよ? 何か企んでいるのでしょう? 教えなさい」
マルガリータはマーガレットに近づき、扇で口元を隠しながらそう耳打ちをした。けれどマーガレットはそんなマルガリータの言葉にも笑顔でこういった。
「いいえ、マルガリータお姉様。私は改心したのです。リュセットはとても良い子ではありませんか。ですから仲良くしたいと思うのは自然の摂理かと」
「はんっ、白々しいわね。まぁいいわ、あんたが何を考えているのかをそのうち突き止めてあげるから」
マーガレットは笑顔のまま、食卓についた。けれどその笑顔の奥には、さめざめとした感情をぎゅっと押し隠して。