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英雄姉を好む  作者: 七歌
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四章『姉と、義兄弟。』 その5

「はる……あきぃ……!」


「と、お、かあ……ッ!」



 どれくらいの時間が経ったかはわからなかったが、冬夏の本来の目の視点が血涙のせいで機能しなくなり始めたころ、お互い一度なぐり合うのを止めた。


 あと一撃。

 あと一撃で、体の中にあるすべてが無くなるような感覚があった。


 両目から血を流す冬夏のように、春秋も能力を維持するのが限界なほどに体力を消耗している。

 狼の毛皮は、じりじりとその姿形を揺らめかせていた。


 最後の一発。

 確実に決めるために、冬夏は。



「ぁあああ――――!」



 思案する冬夏に向かって、春秋が痺れを切らしたように先に襲い掛かってくる。

 力強く拳を掲げてはいるものの、能力の効果が切れているのか、走る速度は人並。


 避けるのはたやすい。

 だが、冬夏は素早く腰にあったものを取ると、春秋の顔に向かって投げつけた。



「あ――?」



 それは靴だ。いやしの靴。


 春秋はそれに危険度はまったくないと考えたのだろう。

 速度を緩めることなく、顔面で靴を受け止め、冬夏に向かって突っ走ろうとした、が。



「っ!? ぐ、ぁあああ!?」



 直後、その場で足を滑らせ転がった挙句、涙目で鼻を押さえてのたうちまわった。


 そんな春秋に向かって冬夏は素早く近づくと、両腕を膝で踏んで固定しつつ、勝利の笑みを浮かべ拳を構える。



「へ、へへ……愛が足りないぜ春秋。姉ちゃんの足の臭いで死ぬほどのたうちまわるなんて。

おれならむしろ活力みなぎってパワーアップするってのに」


「ば、この、冬夏ぁ……! 狼の、鼻に……げほっ、げほっ」



 苦しそうにむせる春秋。呼吸が整わず、四肢にも力が入っていない。


 狼の嗅覚は人間のそれより数倍鋭い。

 そこにいきなり薬を打たれて大分足が『におって』いたいやしの履いていた靴なんて押し当てられたら、それは呼吸困難なほどのたうちまわるだろう。


 苦しそうにしている春秋を見下ろして、にたぁ、と冬夏はいやらしい笑みを浮かべる。


 なるべく春秋がむかつくように感じる表情を。



「――好きなら全部受け入れろよ。変えるんじゃなく、全部好きになれ」


「この、こ、の、このぉおお――!?」


「おれの勝ちだ」



 鼻っ柱に拳を突きこんだ瞬間、ぐべ、と呻きを漏らして春秋は白目を剥き、体を覆っていた狼の毛皮が消失した。


 完全に意識が無くなったのを確認すると、冬夏も春秋の隣に仰向けに倒れ込む。


 自分の本来の目の代わりに使っていた二つの視点を残して全て視点を消すと、加熱していた脳が一気に楽になる。

 だが、反動は凄まじい。しばらく動けそうになかった。



「あー……来夢に心配かけちゃうなぁ……あーあ……」



 呟いているうちに、疲労からか能力が維持できなくなって不意に視界がぼんやりとしたものになった。

 

 もうそろそろ三十分は経つだろう。


 かすんで役に立たない目を開けていても仕方ない。

 両目を閉じてしばらくじっとしていると、ふと、やや遠くから足音が聞こえた。

 二人か、三人か。

 どんどん近づいてくる。

 もしかしたら春秋が結託した組織の人間かもしれないとも思ったが、敵意は感じなかった。



「来夢か……?」



 かすれた声で問う。

 すると、いくつかの足音のうち、一つだけが冬夏の近くで止まった。



「残念だが、私は来夢ではないよ、冬夏」



 その声を聞いた瞬間、冬夏の全身に緊張が走った。

 疲労がピークに達していた全身の筋肉が石のように硬直した上、冷や汗まで出てくる。

 どこかいやしに似た、けれど凛とした声音。

 目を開けずとも瞼に浮かぶ。

 びしっと格好よく決まったパンツスーツを着て、両手に黒い皮手袋をはめて腕を組み、涼やかな目で冬夏を見下ろす姿が。



「し、師匠……です……か?」


「ほう。私の声を忘れたかい?」


「すいません忘れてませんごめんなさい。来夢と勘違いしてホントすいませんでした許してくださぁい!」



 ……土下座! 今すぐ土下座しないとまずいよこれは!


 今すぐ体を起こして平身低頭しなければと思うものの、体はぴくりとも動かない。

 いっそ五体投地でもいいかとうつぶせになろうとしたが、それも叶わなかった。無念。


 どうにか気合で目だけは開いて、うすぼんやりとした視界で自分を見下す女性――楠城乱くすのき・らんを見上げる。


「目、見えてないのか。まったく、無茶をする」



 表情は見えないものの、声音は怒っている風ではなかった。

 そのことに少し安堵しつつ、投下は自分の状態を報告した。



「見えてないわけではないですけど……もう三十分くらいは歩くと電柱とかぶつかりそうです」


「そうか」



 短い言葉で会話が途切れる。

 少々気まずく感じているうちに、隣に倒れていた春秋が運ばれていく気配があった。



「兄貴のやつ、運んできました? いやし姉ちゃんは?」


「春秋は今から帳で拘禁、尋問する予定だ。一応私の管理下で起こったことだから、躾は私がすることになるだろうね。帳からは除名かな、態度にもよるが」



 まぁ私の手にかかれば態度は改まるだろうと、どこか楽しげな様子で言う乱。



「……ナムサン」



 敵ながら同情し、心の中で合掌する。

 馬鹿なことさえ考えなければ乱によって心の折れるほどの躾をうけることもなかったろうに。



「いやしは寝ているよ。特に外傷はないから、冬夏と一緒に家に送って行こう」


「そうですか……あ、ついでになんですけど、来夢は?」


「来夢ちゃんも事情聴取中だ。色々手続きがあるから、一日は戻れないだろうが。お咎めの心配はしなくていいさ」



 ですか、と一つ頷いて、ようやく冬夏はほっと一息ついた。

 すると、柔らかな手の感触がふと、額に触れる。

 それが乱の手のひらなのは、すぐにわかった。



「頑張ったな。まだまだとはいえ、春秋に勝って、いやしを守ってくれたことを褒めておこう。

えらいぞ、冬夏。お前は私の自慢の息子だ」



 優しく声をかけられて、体から力が抜ける。

 冬夏の師匠は、普段はわりかし厳しいものの、褒めるべきところは褒めてくれるからやる気が出る。


 だが、そんな少しむず痒いような喜びはすぐにかき消されることになった。



「それと、これはご褒美。受け取れ」


「はい? え、あの、なんで目開かせいだだだだぁああ――っ!?

なにこの目薬いたぁああ――いい――っ!?」



 突然まぶたを開かせられて、なにか液体を目に落されたかと思うと頭痛がぶり返すほどの激痛が走る。


 のたうちまわるにも全身脱力していて指先をぴくぴくさせて膝をちょっと立たせるくらいしかできず、痛みをわずかでも和らげることはできなかった。



「冬夏が無茶した時のために作っておいた目薬だ。

すごくよく効くが薬効に見合って身を焦がす痛みが走る。その身に弱さを刻み込んで、一層励むといい」


「はぁああ……いいいい……っ!? ありがとう、ござ、ぁ、いだ、いだだだだぁっ!?」


「ほら、暴れると傷に響くぞ? 頭を撫でているから大人しくしていなさい」



 涼やかな声で、体を動かせないままうめき声をあげる冬夏をたしなめるように言う。


 冬夏の師匠はたまに褒めてくれるものの、基本厳しい。


 そのことを改めて思い知りながら、目の中にしみいる目薬の痛みに、しばらく冬夏は悶えていたのだった。


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