プロローグ『姉と、いつもの朝。』その2
「……っふぅ! 朝から仕事したなぁ」
倒れた男の手足を縛った冬夏は、その場で大きく伸びをした。
緊張状態にあった体と脳にしっかりと酸素が回って心地いい。
その表情には、今さっきまであった剣呑とした雰囲気は欠片もない。
やや赤くなった目をまぶたの上から擦りながら、本気で気の抜けたあくびを漏らす。
「さーって。後はこいつを来夢に渡して――」
さっさと布団に戻らなきゃ、と冬夏が男を担いだ瞬間だった。
『冬夏、起きてる~?』
「やばっ……! もう姉ちゃんが起こしに来る時間!?」
家の中から聞こえてくる『姉』の声と、ゆっくりと階段を上がるような音。
冬夏は慌てて、発動しっぱなしだった能力で視点を移動させ家の中を覗き見る。
すると、案の定階段を冬夏の『姉ちゃん』が上がってきていた。
慌てた冬夏は、冬夏と同じく護衛をしている人間が住んでいる隣の家の敷地に男を投げ込んだ。
ぐべ、と潰れたカエルのような声と骨を強打したような音が聞こえたが無視。
今はそれどころではない。
能力を解除しながら、自分の部屋の窓のある二階の壁の下へと移動する。
近くにはエアコンの室外機があるため、それの上に乗り、それからお隣の一階部分の屋根を伝ったりして、数秒で自室の窓へ到着。
あらかじめ部屋の鍵は開けて置いてあった。勢いよく窓を開けて部屋に転がり込む。
そして冬夏は窓を閉め、鍵を閉めると、ベッドの中へと飛び込んだ。
ドアの外から声が聞こえてきたのは、それとほぼ同時。
『冬夏ー、入るよー?』
「お、おきてるよー、入っていいよー」
冬夏が答えると、ドアを開けて一人の少女が入ってきた。
若干内巻きなクセのある、セミロングの黒髪。
均整のとれた肢体を、かわいらしい猫柄のパジャマで包んでいる。
冬夏の義理の姉、楠城 いやし(くすのき・いやし)は、飛びこんだせいで布団をぐちゃぐちゃにしてしまっている冬夏を見て、くすりと笑う。
「ふふ、もう、冬夏ってばすごい寝相。それに汗もかいてるし……変な夢でも見たの?」
「あ、あはは……いやぁ……ちょっと」
誤魔化すように笑うと、ふといやしは真剣な顔になって、冬夏の顔を覗き込む。
「怖い夢? あんまり夜うなされたりしたら、一緒に寝てあげるから。いつでも私の部屋、来ていいからね?」
本気で心配してくれている声音。
それに、冬夏の胸の内はかっと熱くなって、パッと見てわかるくらいに頬が赤くなって、胸がしめつけられる。
――ああ、おれ、姉ちゃんのこと好きだなぁ。
いつものように大好きな姉に起こされるという至福の瞬間、自分の気持ちを再確認しながら、心配かけないようにと笑みを浮かべる。
「大丈夫。怖い夢とかは見てないから。……でも、いやし姉ちゃんとならいつでも添い寝はしたいかなぁ」
「子供じゃないんだから、怖い夢みたんじゃないなら一人で寝なさい。……どうしてもっていうなら、週に一回くらいはいいけどね?」
ぱちりと、茶目っ気のあるウインクをするいやし。
その仕草がまた可愛くて、冬夏は自分の顔が自然と緩んでしまうのを感じた。
「ごめん、ウソウソ。一人で寝れるって」
多分本当に一緒に寝てくれと言ったら寝てくれるのだろうが、流石に年頃の男女。
『まだ』恋人でもなんでもないので、その程度は冬夏も弁えている。
――それに、添い寝は恋人になってからのお楽しみだからッ!
心の中でぐっと拳を握りしめ自制していると、いやしは自然な笑顔を向けてドアに手をかけた。
「それじゃ、ご飯作ってるから。二度寝とかしちゃダメだよー?」
「はーい」
ぱたん、とドアが閉められる。
それを見送ってから、冬夏は枕に顔をうずめた。
そして、猛る思いをそこそこ大きな声で吐き出した。
「ねへはんらひふきはあ(姉ちゃん大好きだ)――――っ!」
そこに、さっきまで驚異的な身体能力と異能の力で侵入者を追いつめていた、戦い慣れした少年の姿はなく。
ただ、義理の姉が好きで好きでたまらなく恋している、一人の少年が居るだけだった。
×××
世の中には、特殊な『力』を持つ人間が少し居る。
水を操ったり。
視点を生み出し自由に操ったり。
獣の如き力を得たり。
ある少女は、自らの孕んだ子供にその特殊な『力』を与える力を持ち、多くの人間に狙われているが……そのことに無自覚だった。
その事実を知らせず、陰ながら守る少年が居たからだ。
これはそんな――大好きな義理の姉、楠城いやしを守り戦う少年・楠城冬夏の物語である。