海より来たる
昔のことだ。
僕は毎年、夏の数週間を海辺の別荘で過ごしていた。
別荘は海岸沿いの崖っぷちに建っていた。台風の夜などは、高波が崖にうちつけ、ぞうぞうと音を立てながら岩を削り取っていく。波は荒々しく別荘の壁を舐め、そのまま海に攫われないのが不思議なくらいだった。
ある年のこと、僕はいつもより早い時期に別荘を訪れた。
僕は別荘に滞在する間、窓から見える人気のない海を飽きもせず、毎日黒い窓枠に凭れていた。
家事をこなすだけで無口な家政婦は、全くと言っていい程存在感が無く、果てしなく僕はひとりきりだった。
ある晩、僕は美しい月に誘われて、海辺へと彷徨い出た。
波は黒々とうねり、僕は肌にまとわりつく潮の匂いを、肺の奥まで吸い込んだ。
月に照らされて、小さな貝の死骸はきらきらと光り、ヘンゼルとグレーテルが落としていった目印とはこのような輝きを持っていたのではないかと僕は思った。
いつの間にか、月は天空を駆け上った。
僕が別荘に戻ろうと、砂浜に降ろしていた腰を上げたとき、海からひとりの人間が上がってきた。
こんな夜中に泳ぐなんて酔狂な、僕が驚いていると、その人影はどんどん僕の方へ近づいてきた。
若い男だった。
月明りにもよく焼けた色をした頬は濡れていなかった。
その剥き出しの肩も、長い足を包む白いだぼだぼのズボンも乾いたままだった。
「いい月夜だね」
彼の声は波音にかき消されることもなく、柔らかく僕の鼓膜を響かせた。
「本当にいい月夜です」
僕はそう答えた。
それから毎晩、彼と僕は真夜中の海辺で逢瀬を重ねた。
彼は饒舌ではなかったが、僕は満ち足りていた。
彼は優しくほほえんで、僕に語りかける。
青白く発光した海月の美しさ、海星の可憐さ、海蛇の小さな牙、泳ぐ魚の群れ、彼の声は僕の中に小さな海を作り上げた。
彼は僕の海を支配し、ひいては深海に眠る僕を静かに包んだ。
夏が永遠に続くことはないと知っていたが、僕はその刹那だけに息をすることを許されてた。
満ちていた月は、やがて細く欠けていく。
「あの月が無くなったらお別れだよ」
「僕を置いていくの」
「誰だって、置いていきも、連れていきもしないんだよ」
「嘘ばっかり」
「嘘ならどんなによかったか」
彼は僕の言葉を頬への小さなキスで封じた。
「誰もがひとりだ」
その言葉は僕の海に落ち、どこまでも深く沈み、底の見えない海溝に呑み込まれ、闇に消えた。
月は夜毎その形を変え、糸のような細い月を背負って、彼は僕に別れを告げた。
海は凪いで、潮はやさしく彼を迎えた。
「さようなら」
僕は暗い海に叫んだ。
「さようなら」
彼の声はなく、波音だけが僕に応えた。
僕はひとり、家に帰った。
自分の部屋の引き出しには、僕の宝物が入っていた。
父のくれた万年筆、母が刺繍したハンカチ、そして最後の航海の前に撮られた家族の写真。
父と母と、そして年上で誰よりも僕を可愛がった、海が大好きで、窓辺で鬱々としている僕を太陽の下に引っ張り出した兄。
僕もあの船に乗るはずだった。父と、母と、兄と、四人で船に乗り、遠い国へ旅に出るはずだった。
兄は、あの海で月の光を浴びているだろうか。
そして、その年っきり、海辺の別荘は誰も訪れることもないまま、ある台風の晩に波に押し流され、夏の遠い記憶とともに海に消えた。