第九話:疾走
荒廃の中にも人はいる。星がまるで地上で瞬いているようだった。薄暗い街を、茫とした灯が照らしている。その街は、チカチカと瞬く半透明の球根で彩られていた。
白黒模様のボールを蹴って遊ぶ子どもたちが、ユバルたちの前を通りすぎた。こんな劣悪な環境でも、それでも人は生きている。
「歴史」にも記されていない、巨大な建物。画一的な建物が、規則正しく並んでいる。
しかし、その街からは異様な臭いがしていた。
ユバルは思わず鼻を押さえたが、彼の嗅覚細胞はその複雑な刺激を受け取り、すでに脳に送信している。必然として、幻視がもたらされた。
視界の裏から、頭の中から、腹の底から、見たこともないイメージが湧きでた。餃子、炒飯、蕎麦、饂飩、饅頭、スパゲティ、ナポリタン、ピッツァ――見たことがないはずなのに、見覚えがある。聞いたことがないのに、聞き覚えがある。食事だ、この全てが食事だ。ユバルはそれが幻視だということにも気づかず、口腔は唾液で溢れている。ユバルは慌てて飲み込んだ。しかしイメージは消えない。複雑な匂いのその奥に、蕎麦でも、饂飩でもない、ひときわ輝く麺が見えた。
なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ わが首にあぶらをそそぎたまふ わが酒杯はあふるるなり
詩篇の言葉が匂いの激流と化してユバルを襲った。もみくちゃにされたユバルは、虚空に手を伸ばした自らを発見して、ようやく今のが幻視だと気がついた。
「幻視を見たのか」
ペレグの問いに、しばらくユバルは答えられなかった。頭のなかで、あの拉麺の味わいを何度も反芻している最中だったからだ。
「見たんだな!」
「あれは、なんだ」
肩を揺らされて、ユバルはようやく幻想の味から解放された。体が、あの味を渇望していた。
「あの麺、あのスープ。いったいなんだ。あのスープには何が閉じ込められているんだ」
「――見たんだな、巨砲を」
ペレグの呟きに、ユバルは鋭敏に反応した。
「巨砲? それが、あの名前なのか。僕に、アレを食べさせてくれ。全身が、あの味を欲している。欲しくてたまらないんだ、頼む」
わけも分からず、涙が出そうになっていた。ユバルはペレグの胸にすがりついた。
「今から連れて行く。だから、その、泣くな。えーっと、あれだ。オスモ飲むか?」
「毒じゃん!」
「毒じゃないぞ、教府がそう教えているだけだ。さ、ほら飲め飲め」
「うん……」
渡された百五十ミリリットルの瓶を瞬く間に飲み干したユバルは、ペレグの体を支えにして立ち上がった。
「幻視も薬物の副作用だ。感覚細胞の過剰反応が生み出す錯視現象、それが幻視の正体だ。強い刺激を受けると、超自然的な映像が見える。遠く離れていたとしても、巨砲の力は衰えていないというわけだ」
「……その、巨砲っていったい……?」
「拉麺だ。巨砲拉麺。当代一の名店だ。――よく覚えておくといい。そこが、君が孵る場所となるだろう」
「孵る場所……? 僕はここにいる、卵の中には入っていない」
「食事によって、君の教育という殻が打ち破られるのさ。
食事は五感に作用する。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚――その全てに、未知の刺激を加える。刺激の少ない環境において思考が減退するのなら、多様な刺激を加える事で思考能力の回復を図れる……とまあ、こういうわけだ。わかったか?」
ぼんやりとした頭には、難しい話だった。
だがしなければならないことは判った。それは体が欲するものに一致していた。だから、ユバルはペレグに頭を下げて頼み込んだ。。
「とにかく、連れて行ってくれ。僕にはあれが必要だ」
「その意気やよし。すぐ行こう!」
二人は走りだした。
バビロンの街は、その見た目とは裏腹に入り組んでいる。無計画に拡大を繰り返したら都市は一つの宇宙を作る。バビロンはそんな街だった。あらゆる建物より高く聳えた尖塔が、バビロンの月だった。その月の下、繰り広げられるのは熱狂だ。
あらゆる通りが、雑多な文字で覆われていた。本日割引最大五割、明日ヨリ開店休業開始、冷やし中華終わりました――文字の下で人々はガヤガヤ騒ぎ、飯を食い、遊び、笑っている。時に暴力の現場にも立ち会った。だがあらゆるものが満ちていた。エデンに感じた空虚さは、バビロンの街のどこにもなかった。そこにあるのは狂乱。生命の乱舞だ。
走りながら、ユバルは気になっていたことを尋ねた。
「初めて会った時、あなたから漂っていたにおいは何なんです!」
息せき切って走っているから、思わず声が荒くなる。ペレグも負けじと声を張る。
「なんの話だ!」
「とぼけないでくださいッあの時幻視を生んだ匂いですよ!」
「わからん――が、もしかしたら拉麺かもしれん」
「ラーメンですって?」
「あの前日、特濃を食ったんだ! まさかあの残り香が幻視を生むなんて――」
あの時も幻視が出ていいたのかと驚く。意図していなかったに違いない、とユバルは想像した。切り替えて、ユバルはまた足を速める。
だが、それから三つほど曲がり角を曲がったところで、思わずユバルは足を止めた。
「どうした、急に……っ」
ペレグも足を止めていた。
数えきれない卒塔婆の群れ。その中心に、バビロンの月があった。