第八話:百年の孤独
ごう、ごう、――どこかで巨人が呻いている。見上げると、壁から生えた巨大な数多の扇風機が鈍重に回転していた。刃の隙間から漏れる光が、壁がエデンに繋がっていると示している。
扉は遠くに離れている。ずいぶん歩いた気がするが、空は常に暗く、鐘の音も聞こえてこない。
ペレグが同時に指差した先に、薄っすら見えた明かりの集まり。彼らはそれを目指していた。
「あそこに人が住んでいる。みな園人に烙印を押された者たちさ。
もっとも、あの虐殺以来こちらに来たものはいないのだがね」
「虐殺?」
問うと、ペレグは少し歩調を速める。慌ててユバルも早歩きする。
「ユバルくんの祖父の、そのまたお父さんくらいの世代で起きた事件さ。エデンとバビロンがまた分かたれる前の話だ」
「どうして、あなたはそれを知っている」
「私がそれを経験したからだ」
「……は?」
思わずユバルはペレグを見た。
彼はどう見ても、ユバルの父より若々しい。サライ女史より少し歳をとっているくらいの見た目だ。それが、百年前を生きたという。
「あなたは、……悪魔か?」
ペレグは吹き出した。
「違う、ちがう。ナノマシンだ。内臓機能を強化してくれているんだが……ようするに、技術の恩恵さ。魔法でも魔術でも、悪魔との取引でも何でもない。これもかつての人が持っていたものだ。おかげで、私も今年で一五〇歳とちょっとだ」
「ひゃ……!?」
「教府の教皇はもっと長生きだ。君も知っているだろう」
「確かに、そうだけど――あれは、神の祝福を受けたからじゃ……?」
そこからか、とペレグは頭を掻いた。腕を組んでしばらく考え、ユバルにこう尋ねた。
「かつて、大陸を氷河期が襲った。それは、習ったか?」
「うん。だから、エデンが作られたって……」
「氷河期というのが、何かわかるか?」
問われて、ユバルは氷河期が何か解らなかった。
自分は今まで、オウム返しのように「常識」で学んだことを繰り返しているだけだったのか。ドームが存在する以前のことも、ユバルには解らなかった。
なぜ?
少し考えれば、エデンははじめからあったわけではないと判る。なぜ、疑問に思わなかった? ドームが作られたと習ったではないか。
「そうだ、あの『狭き門』もそうだ。あんなの誰にだってくぐれる。どうして、それが解らなかったんだ? 僕は今までいったいなにを見ていた?」
混乱するユバルは気づけば歩みを止めていた。胸の軋みは大きくなり、動悸はどんどんひどくなる。
少しふらついて倒れそうになったユバルを思わずペレグが支えた。ペレグの腕を掴んだユバルは彼を見上げて、懇願した。
「……教えてくれ、ペレグ。いったい僕は、……いや、園人は教府に何をされている?」
沈黙が二人を包む。地上の星はまだ遠い。辺りが静謐に包まれた頃、ペレグはようやく口を開いた。
「今は喪われた過去の話だ。まずはそこから話さなくてはいけない。少し長くなるけれど、最後までよく聞くんだ。
……かつて大陸には国家と呼ばれるものがあった。
教府ではなく、政府と呼ばれる統治機構。政府を中心とする共同体が国家だ。かつて世界は、国家によって形成された秩序に支配されていた。
終わりの見えない民族紛争、国家間の武力的牽制の中で日夜科学を発展させるという、歪んだ秩序。それがかつての文明だった。
科学というのは……そうだな、教府が掲げる『信じるもの』だと思ってくれ。科学者は、教校の教師や、教府に勤める司祭のようなものだ。
技術は司祭が成すことと思えばいい。例えば、幻視などを意図的に行う手段――つまりは、擬似幻視なんかもその一例だ。
科学ははじめ、自然のシミュレーションから始まった。自然に起きていることを思弁した人々は、紆余曲折を経て、自然の現象を言葉で説明するようになった。
人々はやがて、自らの肉体をも科学によって解明しはじめた。好奇心は、留まるところを知らなかった。あらゆるものを彼らは解明し始めようとした。
科学と技術が果てのない発展を続け、その文明から『心』という言葉が消え去って、脳の働きの全貌に迫った頃だ。
ある科学者によって、預言がなされた。
――数年のうちに、大陸は氷河に覆われる。
神はかつて洪水によって文明を滅ぼしたが、今度は寒波によって文明を滅ぼすというのだ。
それは多くの客観的データによって裏付けされていた。
しかし、人々は自らの文明が滅び行くとは想像しなかった。
……だから、決定的瞬間が訪れるまで、なにもしなかった。
危機感を覚えた科学者の一部が連帯するのにそう時間はかからなかった。縁の深かった宗教と融和して――科学者たちはその宗教団体の中心地である、小さな国家を巨大なドームで覆いつくした。
これが、エデンの始まりだ。
氷河期が始まり、教皇は人々に呼びかけた。エデンは開かれている。どうかみな来てほしい。
科学者たちは、自分たちが呼びかけるより教皇に呼びかけてもらったほうが多くの人を救えると予想していた。そして、そのとおりになった。
エデンは人々に寛容だった。だから、寒波をなんとか逃れてきた世界中の人々を収容した。食料も、水も、まかなえるだけの科学力があった。エデンという小さなドームの中で、人々は氷河期の終わりまで耐えていけると、はじめは誰もが思っていた。
けれどエデンは一枚岩ではなかった。
集団が大きくなると、野心に取り憑かれる人間が出てくるのは当然だ。――その裏切り者が教皇でなければ、こんな悲劇は起こらなかっただろうが。
ナノマシンを教皇に導入した直後のことだ。
教皇は前触れもなく、人々に告げた。
『科学者たちは人々にナノマシンを埋め込もうとしている。このナノマシンを埋め込まれたら、バベルの塔の電波によって操られる。
科学者たちを許すな。我々の手で本当のエデンを作るのだ』
こんな文句を信じる人がいるなんて、科学者たちは信じられなかった。けれど、人々は違った。人々は宗教のもとに集ったのであり、科学のもとに集ったのではなかったんだ。
そうして、あの虐殺が起きた。
今からちょうど百年前だ。人々は教皇の煽動によって科学者を殺した。熱狂した人々は盲目だ。科学者を殺して選ばれた民になろうとした。それが、教皇による支配に繋がるとも知らずに。
……そうして科学者の多くとその家族は殺されて、教皇についた民衆は壁を作った。その中には、教皇の側についた科学者もいた。
……彼らは血塗られた過去に蓋をして、自分たちだけの楽園を作った。
これが、バビロンで起きた悲劇だ。
エデンの園を作り上げた教皇は、教府という統治機構を作り、そのトップに君臨した。
自らの王国を持った彼は、今度は、教府側についた科学者の技術を利用して人々から考える力を奪った。
人々の熱狂が冷めるうちに、科学者を殺したのは間違いだったのではないかと思うようになると思っていたからだろう。
人間の思考能力は、刺激の少ない環境で長時間用いられなければ減退すると、旧文明の時代から判っていた。
だから教府の科学者は人々に配給する食事に思考を鈍くする薬を混ぜ、エデンの園から目に見える変化を奪った。
道路・部屋の材料、並木の並び方、天球に映写される空の風景……身の回りの殆どを人工物で固めていたから、工夫は容易だった。
そして時間をかけて、人々を教府に都合の良い規範で束縛した。
また、新生児には条件反射で『見えるものを見えなくする』ように刷り込みを行った。
そうして園人の一世代が亡くなる頃には、バビロンは忘却の彼方に喪われていた。
だが、彼らにとって予想外の出来事があった。殺したはずの科学者たちが一部、壁の向こうで生きていたことだ。
教皇に埋め込まれたナノマシンは、もとは寿命をのばすため量産する予定だった。だから、そのプロトタイプが数多く作られていた。
科学者の多くが自分たちの体にナノマシンを埋め込んでいたんだ。
科学者は自らを実験動物にすることで人々を救おうとした。だがその人々によって弾圧され、技術によって生きながらえた。……
どういうわけか、教府は生き残りがいることを掴んでいるようだがね。
私も、その科学者の生き残りの一人というわけだ」
ペレグの声が震えていた。必死にこらえようとしていた。
ユバルは彼もまた、耐え切れない一人だと気づいた。
だから、ペレグの我慢が決壊した時、ユバルは彼の悲しみに胸を引き裂かれそうだった。
「…………百年だ! 我々は百年間、雌伏の時を過ごした。カインの証を押され、バビロンの民と弾圧された我々は、けれど生きながらえたのだ。
百年かけて、我々だけの文化をも持てるくらいに回復した。計算では、隔世遺伝が起きるのは三世代目からだった。脳機能の萎縮していない子どもを、私は待ち続けていた!
そしてようやく、君に巡りあったのだ。教府のサーバをハッキングして、見つけ出した子供の一人。それが君なのだ。君はエデンの、そしてバビロンの民の救世主!
私たちの街、バビロンの街の救い主だ!」
ペレグの興奮した声が、茫漠たる大地に響き渡った。
ユバルの前方に踊りでたペレグは、腕を大きく広げて街を示した。
それはところどころひび割れた、しかし巨大な筒の森だ。
墓標を思わせる建造物は、色とりどりの光る球根で彩られている。眼を貫く光の中に、ユバルは確かに、人々の息遣いを見出していた。