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第七話:バビロン

 空の涯てが迫っていた。空はここから生まれていた。ユバルは呆然と立ち尽くしていた。

 空の根本に異界への通用口があったからだ。

 鈍色の表面に写る少年の姿は憔悴している。ユバルはそんなことを考えながら、自分の背丈の倍ほどある扉を見る。

 扉はひどく重々しい。分厚い鋼鉄は鎖をかけられていたのだろう。地面には真ん中から切断された、これもまた太い鎖が転がっていた。切断面が少し錆びている。

 蒼穹が近いと思ったのは、半刻ほど歩いた時だったろうか。空から丸みと奥行きが失われ、のっぺりとした印象を受けた。それから少し歩いたところで、ユバルは扉を見つけたのだった。


「ヱホバ人衆再び東に移りて邑と塔とを建てるを恐る ヱホバシナルの地を壁に封ぜり 其地をバビロンとなづけ其地に住ふ者に証を授けり」


 並んで歩いていたペレグが暗誦する。創世記だ、とユバルは直感した。しかし、初めて聞く記述だった。


「それは……?」

「創世記第十一章の、本来の第十一章第十節だ」


 明日の学業について話すような気軽さだったので、ユバルはその意味を理解するのに時間がかかった。


「まさか――教府が創世記を改竄したっていうのか?」


「改竄じゃない、正しい形に直したのだ……と、彼らは言うだろうね。なにせ、主がバビロンの地を封じたと記述があるのだから、そもそも表に出さないのが正しいというわけさ。


 臭いものには蓋をしろ。

 この杜撰な編集作業がバビロンを際立たのは皮肉だな」

 口ぶりとは裏腹に、その声は震えていた。強い怒りの現れだった。ユバルの立つ位置からは彼の表情は窺い知れない。ペレグはそれきり黙った。

 そうして空の根本に至り、扉は開こうとしている。

 ユバルは待ち受けるものを想像して、つばを飲み込んだ。両親の顔を思い出し、首を振って追い出した。ここからは、歩みを止めてはいけない。彼はそう直感していた。

 気づけば、隣にいたペレグがいない。どこへ行ったのかと探すと、彼は扉の横の空から突き出た箱を何やらいじっていた。

 側面の蓋を取り外すと、襤褸の下に隠していた小箱に繋いだ。

 赤と黒のコードが、空と箱とをつないでいる。ポン、と間の抜けた音が箱から響くと、ペレグが満足そうに頷いた。


「もう後戻りはできないぞ」

「ひと思いにやってくれ」


 ペレグが、箱に手をのせる。音を立てて、扉は横にスライドする。

 空の裂け目の向こうから、荒廃が姿を現した。

 大地はひび割れ、空は灰色に閉ざされていた。冷気が長袖の間から入り込む。急な寒さに鳥肌が立った。ユバルは腕をかき抱くようにして、体を冷やすまいとした。

 振り向くと、エデンが四角く切り抜かれている。しかし、そこに空はなかった。灰白色がそびえ立つだけだ。それが巨大な壁と気づくのに、そう時間はかからなかった。


「封じられた街、バビロンへようこそ」


 仰々しく両手を広げて、ペレグが笑う。

 ユバルは、思わず叫んでいた。


「――なんだ、これは」

「君の求めたバビロンさ。神に見棄てられ封じられた、罪人の墓場。喪われた繁栄の遺骸というやつさ」

「わけがわからない。僕は、……バビロンで何が起きたのかを知りたかった。あなたに話を聞きたかった。僕の胸の軋みの正体を知りたかっただけだ。こんなこと、望んでない」

「望んでいなくとも求めたのは君だ。私は確かに告げたはずだ、卵を割ろうと思うならば、ここに来いと」

「確かに、たしかにそうだけど――」


 ユバルは、広がる光景を受け入れたくなかった。頭のなかでエデンが音を立てて崩れ去る。虚飾の街、偽りの幸福、園に生きる人々はたしかにそこにいた。だが、その拠って立つものが偽りなんて、誰が想像しているだろう。

 あの空は、偽物だった。そして世界は、あの氷河期からまったく抜けだしてなんかいない。エデンは、その裏側の犠牲によって成り立っていた。

 これを母は知っているのだろうか。父は知っているのだろうか。サライ女史は、――

 胸の軋みがひどくなる。理解を超えた現実を突きつけられて、ユバルは逃げ出したくなった。だが、ど

こへ逃げるというのだろう。エデンに戻ったところで、きっとこの灰色の空を思い出す。自分が不可逆の変化を遂げたことに気づき、ユバルは喉が引きつった。


「卵は世界だ。

 生まれようと欲するものは一つの世界を破壊しなければならない。

 ――これも教府キュリアによって封じられた言葉だ。

 君はバビロンを見た。殻の外の世界を見た。事態は次に進む」


「僕に、なにをさせる気だ」


 ユバルが問うと、ペレグは嬉しそうに笑った。ようやくその気になったかと、そう思っているようだ。だからユバルは言った。


「僕はあなたの言いなりにはならない。自ら考え、行動する」


「それでいい」ペレグは笑う。「それでいいんだ、ユバルくん。君は殻を割ろうとしている。『常識センスス・コムニス』をただ受け入れるのではなく、その上で行動しようとしている。それでいいんだ」


「僕がいったい、なにを割ろうとしているっていうんだ」

教育インプリンティングさ」


 そういうと、ペレグはユバルを通り過ぎ、こちら側にも同様に飛び出していた箱を操作した。すると、扉が閉まった。ユバルは、エデンと隔絶された。


「なに、今日一日で終わる話さ。いや、始まる話と言うべきかな。では、行こうじゃないか。話は歩きながらでもできる」

「行くって……どこへ?」


 ペレグはユバルの前に出ると、更に西を指差した。


「飯を――美食を食べに」

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