第五話:始動
通りは足音で満ちている。遠くや近くで響いた足音、人々の生活。教会に向かう人々で大通りは混雑していた。その流れを横切って抜けた空白地帯に、聖マリア公園はある。安息日に、教会へ行く前立ちよる人はいなかった。もちろん、宗教裁判官も。赤い服を着た三人も、今日はのんびりしているだろう。
ユバルは聖マリア像を見上げて、待っていた。
衝動の火は弱まるところがなかったが、しかし自らの行為をユバルは疑い始めていた。
父に、そして母に嘘をついたことはまごうことなき裏切りである。それは十五年の生涯で初めての経験だった。ユバルは園人として恥じることのないよう生きてきた。未だ試練に遭っていないという幸運もあって、ユバルはこれといった罪を犯していない。「常識」を逸脱した行動も幼い頃からとっていなかった。早熟だった精神と、おとなしい気質のゆえである。だからユバルはいつも親に褒められてきた。
ユバルは、自分をもみくちゃに撫でる母の手を思い出す。胸の奥が軋みはじめる。まただ、とユバルは歯噛みした。母のことを思い出すたび、胸の奥がズキズキ痛む。これは母を裏切ったためなのか、それとももっと別の何かなのか。ユバルには判断ができない。ただ体の内側が空っぽになったような、底冷えする薄暗さが体に取りついた。
ユバルは膝を押さえた。足が震えている。屈しそうになっていた。しかし、ユバルは寸前で耐える。ユバルは迷いながらも、しかし自らの行動が過ちであるとは思えなかった。その感覚を信じ、案山子の登場を待ち続けた。
しかしユバルの決意に反して、喧騒が遠く離れ、静謐が朝を彩りはじめても、案山子はまだ来なかった。
時間を指定されなかったと気がついたのは、退屈まぎれにマリア像の台座を手で触ろうとした時だった。
明日またここに来いと言った案山子は、しかし、いつ来いとまでは言わなかった。
途端に、不安がむくむくと育ち始める。もしかしたら、このまま待ちぼうけを食らうのではないだろうか。ついに彼が来なかったりしたら、どうしよう。
時間つぶしのためにタブレットを開こうかと思って、やめた。位置探知を逃れるために、昨日から電源は落としている。今点けては意味がない。ユバルは緊張のためか、思索に没頭することもできなかった。退屈を持て余し、不安は恐怖に変わり始める。
腕時計は高等教校で支給されるので、ユバルはまだ所持していない。ユバルは次の鐘がいつ鳴るのかを待つことにした。来るかどうかもわからない人を待つよりは有意義だ。ユバルは自分にそう言い聞かせる。
しかし完成された風景には、正常な時間の物差しは存在しない。風も少なく、日は高く、目に見えて変わるものがない静けさはユバルの主観的時間を狂わせる。刹那は一秒に、一秒は一時間に、一分はまるで永遠のようにも引き伸ばされる。ユバルの頭のなかで屈強なヘレネスが亀を永遠に追いかけはじめる。距離は一向に縮まらない。自分はこのまま永遠に案山子を待ち続け、いつしか自分が案山子になっていることを発見するのではないか? そんな妄想まで湧き上がった。だから、背後で驚きの声が上がった時、ユバルは心臓が止まるかと思った。
「もう来ていたのか」
振り返ったそこに案山子はいなかった。
下ろされたフードの中にあったのは、知的という言葉を練り固めたような顔だった。彫りの深い顔つき、浅黒い肌。目元や頬に刻まれた皺は重ねてきた歳月の重たさに応じているかのようだ。
鷹のように鋭い緑眼に、当惑したユバルが写っている。この男が、案山子だ。襤褸には見覚えのある意匠があったし、男の手の甲に刻まれているのはカインの証だ。
待ち望んでいた瞬間だった。ユバルは、安堵に胸をなでおろした。
「来ないかと思っていた」
そういうと男は破顔した。
「待たせてしまってすまなかった。私はペレグ。――園人の少年、君の決断を歓迎しよう」
差し出された右手を、おそるおそる握り返す。男の手は、ユバルの細い指先と違って太くゴツゴツしていた。脂肪の多い父とは、違った。その硬さに負けじと、ユバルは手のひらを強く握りしめた。
「僕はユバルだ。バビロンの民よ、あなたの話を聞かせてほしい」
その言葉にしかし、男は戸惑っているようだった。
「話を聞きたい。君はそういったのか?」
手を離したペレグは、目を丸くして聞き返した。ユバルは毅然として返答する。
「そうだ。僕は、あなたに尋ねたい。バビロンでいったい何があった。なぜ教府は考えることを否定する。そして、あなたのいう卵とはなんだ」
「……なるほど、君はなにも知らないということを知ったのだな。これは面白い。孵卵を迎えるにはあと一歩というところか」
今度はユバルが戸惑う番だった。
「いったいなんの話をしているんです?」
「私の目的の話さ。ギブ・アンド・テイク……といっても、君には理解できないか」
「なんですか、その……与えて奪う?」
「違う、ちがう。封印された過去の思想さ。今もそこに残っているが、目を背けられている過去。バビロンを知ることは、即ち過去を知ることだ」
といって、ペレグは一度言葉を区切った。ユバルの周りを歩きだす。ユバルは彼を目で追わないことにした。下を見て、言葉に耳を傾けた。今日は、においがしない。幻視も浮かばない。
「君は禁忌に触れることになる。それでも知りたいというのかね」
「僕があなたに会った時、幻視をみました。その内容と、今朝の擬似幻視。どちらも試練を予感させました。覚悟はしています」
後悔はあった。だが、行動しなければいけないという熱は燃え猛り、抑えがたい衝動に変わっていた。
ペレグは暫くの間沈黙していた。そして、ユバルの正面に立ち、彼をじっと見据えた。緑色の瞳をユバルは見つめ返す。
試されていた。男は変革を自分にもたらすつもりだ。その目を見てユバルは直感した。
安寧との決別が目前に迫っていた。だが、ユバルは逃げなかった。聖マリアの眼の下では、彼は自分を偽りたくなかった。
「わかった」とペレグは言った。「君にバビロンを見せよう」
ペレグは踵を返した。
「エデンの西だ。そこできみは、『狭き門』に立ち向かわなくてはいけない」