第四話:罪
決断してから、体が燃えているかのように熱を持った。衝動がユバルの体内で暴れ回り、今すぐにでも走りださんとする。それを必死に抑えて、ユバルは朝を待った。深呼吸をして、動き出そうとする体を抑える。そうするうちに自然と眠りについていた。
ユバルは、鐘の声で目を覚ました。部屋は自動点灯した照明のために明るい。枕もとにあるスイッチを切って、ユニットバスで顔を洗う。
水は痛いくらいに冷たかった。顔を洗って、鏡に映った顔を見る。少年の目元には隈ができていた。ユバルは口をすすぎながら、母への言い訳を考えた。
ユバルの家は広い。彼の父が教府の幹部だったから、それに応じた広い家を割り当てられていた。教府は各人の評価に見合っただけの待遇を与える。部屋から部屋へと通じる廊下はユバルが両手を広げても足りないくらいに幅が広い。しかしユバルの目には空虚に写った。カーペットの装飾も、壁に走る幾何学模様も、どれもこれもが見かけだけ。
あの案山子の目は、違った。
思い出し、ユバルは震えた。それがどのような感情によるものか、自分自身のことなのにわからない。しかしあの目の奥に視たものが脳裏に焼き付いていた。
あのイメージが超能力によるものかと疑って、すぐにユバルは否定する。超能力の実在は否定されていた。旧文明の研究成果として公式に発表されたデータだ。それに、たとえ超能力が実在したとしても、精神干渉などの言葉であの感覚を表すことはできないだろう。
あれは、幻視だ。ユバルには確信があった。
幻視は非常にメジャーな宗教体験だ。何らかの刺激によって生じる神との連絡回路の視覚的イメージ。園人は、初めて得た幻視によってその生き方を決めることも多いという。ユバルの幻視は殻の破壊。その暗示するものは再生。サライ女史が担当する「常識」の授業で学んだことだった。
ユバルは幻視の意味をしばらく考え続けていたが、食卓の前に来たので一時中断せざるを得なかった。扉が開く。ユバルは中に入って、自分の椅子に座る。両親はだいぶ前に来ていたらしい、二人の前にはすでに料理が用意されていた。
召使が低く唸りながらユバルにも料理を運ぶ。十年も使われているせいで、だいぶがたが来ているようだ。のっぺりとした顔を見ながら、こいつはなにを食べているんだろうとユバルは考える。召使の月の燃料費は、毎月の食費より高かった。ユバルは器に入った、穀物の合わせ煮とパンを見て、見慣れた土色の中に神を見出す用意をする。
レメクは机の縁を三度ノックして了解を求めた。アダがノックを返したのを確かめてから、ユバルも同じように、机を一度ノックした。
木の振動は空気を揺らし、虚ろな場をおだやかに満たしていく。木霊が天井に伝わって、ついに場が整った。
「それでは、週の終わり、安息日の今日この日を迎えられたことに感謝して。アーメン」
「アーメン」
略式祷イ(※言偏に田三つ。変換不可)の終わりを重ね、三人は一斉に食器を取った。食器置きとスプーンが当たり、そのスプーンが器に当たり、器が机に当たり、歯と銀が響きあい、相関のない波が次第にポリフォニーを演奏し始める。ユバルはドロドロとした半液体を咀嚼しながら、臼歯と犬歯の調和に耳を研ぎ澄ます。内向きの聴覚は次第に奥に奥にと潜り、ついに詩篇を導き出した。
第二十三篇、四節より五節。
たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ なんぢ我とともに在せばなり なんぢの笞なんぢの杖われを慰む
なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ わが首にあぶらをそそぎたまふ わが酒杯はあふるるなり
擬似幻視。音と行為と場の雰囲気、そして料理に含まれた成分によって生み出される錯覚だ。
安息日の土曜日の朝は、擬似幻視を通じて神に感謝を捧げるのが習わしであった。これを終えるまで、園人は沈黙の行を課される。
ユバルは己の単純な連想を恥じながら、しかしこれにも意味があると考えた。昨日の幻視といい、この錯覚といい、どうにも一貫性を感じていた。
立ちふさがる試練の予兆。
ユバルは下顎の上下運動を反復しながら、胸の中で笑った。自分がこれから行おうとすることは、まさにその第一歩であった。
ほどなくして朝食が終わり、十五分の安息が与えられる。これは日々の習わしであった。家族が仲を深めるための猶予である。一日のうち、特に父親は子と接する時間が少ない。しかし多くの父親はこの時間を苦痛とともに過ごした。生活の殆どを労働に費やす彼らには子の日々の悩みを察する事のほうが難題である。
ユバルはその辺りを察していたので、またいつものように学業について問いただされる前に自らの要件を切り出した。
「父さん、母さん、今日は友達とマリア教会に行く約束をしたんだ」
「あら、本当? あなたもヒトリダチの季節ね。ちゃんと報告したの、偉いわ。あとでご褒美に本を買ってさし上げましょう」
「やめてよ、母さん。もう子どもじゃない」
「まぁまぁまぁまぁ、あんなに小さくて可愛かったあの子がもうこんなことを言い出して。大きくなったわねえ本当。よかったわ、よかったわ。帰ったらちゃんと何が起きたかお話しなさいね」
「わかったよ、母さん」
ずし、と胸の奥が軋んだ。そんな痛みが走った。まやかしだったが、紛れもない真実でもあった。
「あなたも楽しみでしょう。ねぇ」
「あ、ああ……息子の初仕事だ」
「そんな大げさな」
「大げさなんかじゃありませんよっ」
脳髄の奥に響くような金属質な高声に、男二人は目を合わせ苦笑した。
ユバルは、両親を騙した。
先ほどの軋みとは別の痛みが、胸の奥から湧き上がった。