第三話:幻視
頭から膝下まで覆っている襤褸は、かつての美しい姿の名残をところどこに残った刺繍に示している。しかしあちこち穴が空き、おそらく黒かったはずの布地は汚れで茶色に変色していた。加えて、少し離れたユバルのところへ届くほどに強烈な臭いが染み込んでいる。畑に放置された案山子はこんな風貌だろうとユバルが想像したのも頷ける装いだ。
その下もまた、汚れていた。染みだらけのシャツと、あちこちが裂けたズボン。園人ではありえない劣化だが、その細かな意匠はどことなく神父の正装を連想させる。
バビロンの民が、園人の神父に似ているだと? ユバルは自らの判断を不思議に思いながらも、それを深く考えなかった。正しくは、考える予断を与えられなかった。
案山子がつかつか歩みより、ユバルの前に立ちふさがったからだ。思わず鼻をつまみながら、ユバルは案山子を見上げる。フードの奥は暗く、容貌は細かく見れない。ひどくヘンなにおいがした。嗅いだことのない、非自然的なにおい。これは、なんだ?
深淵の奥から、低い声が響いてきた。
「随分しみったれた顔じゃないか。それでは飯がまずくなる」
案山子は人だった。
だが、ただの人ではない。ユバルはすぐ察した。目線の高さで揺れる手の甲に、見覚えのある痕が刻まれていたからだ。
筋張った手にハッキリ描かれた、カインの証。バビロンの民の証拠である。ユバルはこの男が、サライ女史の語った不審者だと認識した。
マリアへ懺悔した思いとは別に、ユバルには園人としての自意識がある。彼は今度こそバビロンの民を見据えると、不遜に答えた。
「異端者よ。今なら見逃す、向こうへ行け」
マリアへの懺悔を聞かれたのではないかと、ユバルは不安だった。教府の教えに背いた思いを抱いていると証言されれば、どうなるかわからない。この男はそれをタネに自分をゆすろうとしているのだとユバルは考えていた。
しかし、ユバルの予想は外れた。
「少年。君は卵をどう思う」
「……卵だって?」
仰々しく男が手を動かすと、においは一層濃くなった。頭に直接作用するような、なにか。ユバルは気づけば、男から目が離せなくなっていた。この男の話を聞きたい、と思った。
「鳥の卵、魚の卵、トカゲの卵、竜の卵、天使の卵。……そしてエデンという卵。卵は中に棲むものを、守り育てる揺りかごだ。
君は、卵を、どう思う?」
ユバルは答えるべきか悩んだ。彼を今すぐ通報するのが、当たり前だ。鞄を漁れば学校から支給された警報機が出てくるだろう。それだけで全ては終わる。しかし彼は自分の懺悔を思い返し、しばしの問答に付きあおうと決めた。
ユバルは男がバビロンの民であるというだけでないがしろにしようとしていた。立ち姿は確りしていて、呂律も明瞭。その手の甲に刻まれた証を除けば、園人となんら変わるところはない。ただ彼の異質な容貌が目につくのみだ。であるならば、彼と言葉をかわすこともまた神の導きである……そう考えたが故だった。いや、そのように自分を正当化した。
彼は、この奇妙な案山子と話したかった。
卵のことを考える。案山子はそこに実在する卵のことを尋ねているのではない。ユバル自身のもつ卵のことを、彼は尋ねているのだ。直感に従い、考える。
黄身、太陽、白身、溶ける、焦げつき、
覆う、嘴、食べる、割る、砕く、
中身を焼く、外に出る、打ち破る、――
「生まれいづる者を守り、育て、そしていつかは打ち破られるもの……それが、卵だ。揺りかごなんかじゃない」
「では君は、どうして卵を割ろうとしない」
深き闇の奥深くから、ユバルを見つめる二つの眼。ユバルは押し黙った。
男とユバルの間に、奇妙な関係が生まれつつあった。ユバルはこの上なく高揚していて、思考は研ぎ澄まされていく。
深淵の奥を見つめ、その闇に浮かぶ二つの月の模様を読む。実在はそこに必要なく、情報は形而上で共有される。色彩がユバルの意識を覆った。
抽象画のような、ランダムな線。塗りたくられる原色は互いを溶かしあい、やがて大きな卵を描いた。エデンの園という卵、幸せを与え園人を肥やし、やがて醜く太らす卵。クラック、クラック、クラック――広がる罅、溢れる血液 ?魂の通貨? 変質が起動し走り、罅を広げまだ広げ、その奥に潜む雛に向かって
甲高い笛の音に、ユバルは我に返った。
今のはいったいなんだったのか。
幻視のことと、笛の音。どちらも理解を超えている。
ユバルは妨害者に目を向けた。
どたどたと公園の入り口に殺到する赤い修道服。
まさかの時の宗教裁判官だ。
案山子も彼らを見つけたらしい。舌打ちすると、案山子はユバルに告げる。
「卵を割ろうと欲するならば、また明日ここに来るといい。求めよ、さらば与えられん」
言うなり男は走り去り、「見て美しい樹」の間に消えていった。
ユバルは、その後のことをよく覚えていない。彼はあの抽象の中に見出したものをずっと考えていた。裁判官の一人の質問に答えている間も、署に連行されて簡単な取り調べを受けている間も。あらゆる事象はその表層だけが記憶され、あっという間に流されていった。
「大丈夫、ケガはない?」
ユバルは護送車の中で我に返った。ユバルの母アダが、息子を心配そうに気遣っていた。
迎えに来てくれたのだとようやく気づく。
無事を伝えて、気分が悪いと続けた。だからユバルはすんなり自室にこもることができた。食欲がなかったので、生まれて初めて、晩御飯を食べなかった。
その夜ユバルはずっと案山子のことを考えた。イメージの奔流が意識の面を覆っていた。これを乗り越えなければならないという思いだけが意識できた。
天窓から見上げた空の真ん中に、少し欠けた月が浮かんでいる。その姿をじっと眺めているうちに、決心はついた。
ユバルは夜の女王に、案山子に会いに行くことを告げた。