第十二話:終わりの始まり
「先日、聖マリア公園で不審者が目撃されています。身長五・五フィートの男性、襤褸で体を包んでいるため、細かい顔立ちは判明していません。彼はバビロンの民である疑いが高い。
目撃情報は、次第に東にずれています。
しかし安心してはいけません。皆様、見かけたらすぐに近くの宗教裁判官に連絡するように。
他に、何か連絡のある人は挙手を」
白い教室に、白い制服。ほんのりと漂う森の香りは「木材の樹」を材料に作られた勉強机のものだろう。教卓を挟んで壇上に立つ教師サライのカソックだけが黒い。白と黒とのコントラストは洗練されている。
だが、それだけだ。
あの濃厚の味わいに比べれば、どれもが等しく価値がない。ユバルはサライ女史の腰を見ながら、今や遠い過去にも思える数日前の出来事を思い返す。
ユバルは夕陽を浴びて目を覚ました。聖マリア公園の、マリア像の足元に彼は横たわっていた。慌てて立ち上がり、辺りを見回す。ペレグの姿はなく、まさか今までのすべてが夢かとも思えた。
しかし、風景を見て、ユバルはあれが事実だと確信した。
聖マリア像は長年の汚れにくすんでいた。
手入れの一切されていない道路はあちこちがひび割れ、公園の雑木は雑草がぼうぼうに茂っている。そして、天球は、明らかな映写映像だ。タブレットで閲覧できるアーカイヴの空と比べても、歴然としている。
卵は世界だ。生まれようと欲するものは一つの世界を破壊しなければならない。
この決定的な一日を境に、ユバルのエデンは崩壊した。エデンという卵は、孵ったのだ。今や残されたのは、無常な現実だけだった。
しかしユバルは後悔もしていなければ、絶望もしていない。
彼はズボンのポケットに突っ込まれた紙を見つけた。それは、結社『美食家』の案内状。次の子供の孵卵の日が、そこには記されていた。
ユバルは、美食家の意見に完全に賛同したわけではない。ユバルは自らの中にエデンの青写真を持っている。それは彼の神が教えたもので、おそらく美食家の描くエデンとは合致していないだろう。
しかし、それでいいのだ。
周りで騒ぐ級友や、呆れたように頭を抱えるサライ女史を見て、彼は思う。この人々がなにも知らないままなのは、気に入らない。彼らの安寧を曇らすことは本意ではない。だが彼らがいいように利用されてるのも気に入らない。ユバルは歳相応になっていた。
それに、とユバルは朝食を思い返して、顔をしかめた。
パンに緑色のペーストを塗った、味のしない朝食を続けることのほうが、エデンを壊すより耐えられないことだった。
「――皆様、本日を無事に終えることができた喜びを主に伝えましょう。跪いて、椅子のクッションに肘をついて……」
気づけば、話は終わっていたらしい。ユバルは周りと同じように膝をつき、不思議な感触を楽しんだ。
肘を椅子について、目を閉じる。
「天にましますわれらの父よ、
願わくは御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨の天に行わるる如く
地にも行われんことを。
われらの日用の糧を
今日われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、
われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。
願わくは、エデンの永遠を。
かくあれかし《アーメン》」
サライの祈りの結びにユバルは重ねた。
「かくあれかし《エイメン》」
願わくは、園人に孵卵を与え給え。
最後まで付き合っていただき、ありがとうございました。