第十一話:孵卵
バベルの塔を右手に見て、左の路地裏を奥に進んだ突き当りにそれはあった。
それは店ではなかった。
食事を衛生的な環境で提供する場所を飲食店とするならば、そこは確実に飲食店ではない。申し訳程度のひさしと、足が錆だらけの丸椅子。ひさしから垂れた赤い布は、『巨砲拉麺』と白く染め抜かれている。その両側面は空き、濃厚な香りが漂っている。ユバルは、興奮を必死に押さえつけた。理性で持って、衝動をねじ伏せていた。
しかし布の奥でひときわ大きな音が立つと、はやくも理性は崩れかける。嗅いだこともない強烈なにおいがユバルの頭をつんざいた。
「~~~~~~~~~~~~っ!」
必死に声を抑える。幻視が出ていないのが不思議なくらいだった。
「流石に三回目にもなると、慣れるか。入ろう」
「入るって、これに?」
耐えられないと、ユバルは感じた。これ以上近づけば壊れてしまう。
「どうせもっと凄いのが待ってるんだ。さ」
「あ、ちょ、ちょっと……!」
ペレグに強引に手を引かれ、二人は暖簾をくぐった。
「らっしゃい……なんだ、先生か」
「久しぶり。連れてきたよ」
ユバルはスパークに包まれていた。一気に押し寄せてきた複雑な刺激は理性も思考も吹き飛ばした。それは一種の爆発である。強烈な化学反応が、ユバルの中で巻き起こっている。胸の軋みの正体が、見えそうになっている。だが、最後の一歩が足りなかった。生殺し状態のユバルは、椅子に座り、カウンターテーブルに力なく状態をもたれさせていた。
「おい、こいつ、大丈夫なのか」
「鋭敏すぎるんだ。だが、だからこそ慣れが生じるのも早い……親父、巨砲。特濃を」
「いっちょだな」
「いいや、ふたつだ」
「なにィ! 一つで十分だ。それとも何だ、巨砲初めてのこのガキが、特濃に値するっていうのかい。伊達に百年、ラーメン作っちゃいねえんだ。元化学者の現料理人。舐めてかかられちゃあ塩っ辛いぜ」
「いいや、……二つだ。エノク、頼む」
ユバルの隣で、にらみ合いが続いた。均衡を破ったのは、やはりユバルだった。
「あと少しなんだ――凄いのを、くれ」
「……そうかい、そうかい! 後悔しても知らねェぞ。特濃ふたつゥ!」
店主がラーメンを作りはじめる。せっかくだからとユバルは作る光景を見たかったが、体が動かなかった。まだあの衝撃のダメージが抜けていない。歯噛みしながら、ユバルは必死に背筋を伸ばそうと努力した。
しかし、ユバルを次々欲望が襲った。それは七つの大罪をその中に閉じ込めた出汁だった。暴食、色欲、強欲、憂鬱、憤怒、怠惰、虚飾、傲慢。そのすべてが混ざり合い、互いの巨悪を消し飛ばしている。残ったものは、その上澄み。スパイスとしての罪の香りだ。ユバルはむくむくと背徳感が湧き上がるのを感じた。胸の中に湧き上がる情動のもとが解らなかった。
「店主――エノクの特濃はとにかく凄いぞ。
だから、安心しろ」
なにを安心しろというのだ。ユバルは言い返そうとして、喉が引きつった。声が出ない。慌てて、傍らに置かれた飲み水を流しこむ。むせながら、彼はきっちり飲み干した。
「特濃、どうぞ」
コップをカウンターに置くと同時、す、と向こうから丼鉢が差し出された。そこにあったのは宇宙だった。バビロンの街を溶かしこみ、五十年の歴史の出汁を取ったスープ。黄金色に輝く麺はエデンの園を指す。チャーシュー、メンマ、……様々なトッピングが重ねられ、お互いの味を侵しあっているのではないかと、素人のユバルは恐れた。
「美味いぞ?」
早く食えと言わんばかりに、ペレグはすでに食べ始めている。いただきますをいつの間に済ませたのだろう、呆気にとられて見ていると、スープがズズッ、と男の口に消えていく。何度かの咀嚼、ゴクリ、と太い喉仏が前後。
賢者の顔が、崩れた。その表情がすべてを語っていた。ごくり、とユバルはつばを飲む。
箸はすでに与えられていた。
幸いユバルは教育の過程で箸の使い方をマスターしている。それでも、手が震えた。拉麺と睨み合ったまま、ユバルは箸を虚空に彷徨わせる。
湯気から漂う匂いだけで、腹がぐるぐると鳴った。恥ずかしさは消えている。飯の前に人は平等である。ユバルは一度息を吐き、目を見開いて立ち向かう。
「いただきます」
一礼。
丼の底に手を添える。麺を掴むと、隠れていたにおいが立ちのぼる。これは――なんだ?
奥底から伸びる光条は、錯覚か?
ユバルは考えることをやめた。吶喊である。
スープが絡んだ麺が、口の中に侵入する。だが、まだ味の全ては見えてこない。舌の上で、辛さと甘さが踊っている。これは序の口だ。ユバルは口の中で複雑に動く麺を感じながら、ついに、最初のひと噛みを決行する。
ぷつ、ん。何度でも味わいたくなる歯ごたえとともに、麺の奥に染みた味が解き放たれた。口腔を通って全身ににおいと味が広がっていく。何度も咀嚼し、唾液と交わったスープの味の変化すら楽しんで、そして気づけばもうひと掴み。もう手はどうにもとまらない。
ユバルは麺を食べスープを啜り、チャーシューを味わった。本能も理性も吹き飛んで、ただ衝動だけがあとに残る。
この味のすべてを堪能したいという、強烈な欲望。
すべてが消し飛んだ内面世界ではユバルはたしかに孤独である。しかし、この食事を誰かと共有する気にはならない以上、孤独は幸福に転じた。
ユバルは劇的な旨味の中、いつしか己との対話を始めている。それは理性の再構築、自分を規定するものを象ること。そして、卵の殻を破ること。そう、卵だ。卵の味が隠れている。スープの隠し味に気づき、ユバルは歓喜に打ち震える。
そうだ、僕は耐えられなかったのだ。母やエデンの規範に従い自信を押し込め閉じ込めて、自由を否定し己を否定し他者に迎合することのいったい何が幸せか。神と飯の前では人々は平等だが、あんなクソ不味い飯がこれ以上食えるか。
心の底から、ユバルに湧き上がるものがある。すべての判断の基準たる神が、彼の中に蘇ったのだ。
何度だって言ってやろう、エデンの飯はクソマズだ。くそったれ、神が中指を立てている。僕も一緒に中指立ててエデンにサヨナラを告げた。二度と従ってやるものか。
僕は神と肩を組んでタップダンスを始めた。楽しさが二人を包んでいる。マリアもキリストも、天使も悪魔も関係ない。みなみな同じ舞台の上で、バカバカ喜劇を踊ってる。
これこそ生、これこそ死。生きるべきか死ぬべきか、それはとうに問題じゃない――問題なのはどう生きるかだ。
ここに少年はその殻を食い破った。
スープの最後の一滴までも飲み干して、ユバルは果てた。