第十話:対峙
世界を縦一閃に切り裂いて、天球に届かんとする白い塔。荒廃の波はかつての雄姿を失わせ、その本来の役割は失われている。
しかし、威容は健在だった。
バベルの塔。かつての文明の象徴は今、死者たちの慰霊碑となっている。
塔の麓に並ぶは卒塔婆。渇いた大地に突き立つそれらは、かつての虐殺の苛烈さを伝える遺産だった。
棒はどれも朽ち始めている。そのすべてがかつての生者。一人ひとりに、生があった。
けど教皇は私欲のために蹂躙し、虐殺した。
……その怨念の数はいかに多きかな、我これを算えんとすれどもその数は沙よりも多し。
否、果たしてその沙、怨念なるや?
ユバルには、異界に迷い込んだ錯覚に陥った。そこではあらゆる現象が吹き飛ばされる。厳然たる事実だけを、その塔は突きつけていた。
辺りを見渡し、また塔を見る。
空間が有限である限り、卒塔婆の数も有限だ。しかしここには、無限を錯覚させる何かがある。
それを生み出すのは、やはり、乾いた大地に刺さった一本の柱だ。苦難の歴史を見守り続けたバベルの塔。慰霊碑は同時に歴史の証人でもあった。だからこそ、ユバルが見えなかったものを気づかせる。
「……ここを、左に曲がったところだ」
先ほどの熱狂はいずこに消えたか、ペレグは静かな声で伝えた。ユバルからも熱狂は立ち去っている。
そして残っているのは、まだ知らないことが残されているという事実だけだ。
これを聞かずして、巨砲を食べることはできない。卒塔婆の群れを眺めるペレグに、ユバルは一歩近づいた。
「あなたの目的を聞かせてください」
「……目的?」
怪訝そうに、ペレグはユバルに振り向いた。
「目的ならば、もう話した。君の殻を破ること。それが、私の目的だ」
「それだけが目的じゃないはずだ」
「なにを根拠にそんなことを?」
「あなた自身が伝えたことです。
僕を、救世主と言いましたね。それにあなたははじめから、エデンを卵と形容した。卵は割らねばならぬとも言った。
説明してください。あなたは、僕に、いったい何をさせようとしているのです」
ユバルは気づいていなかったが、すでに彼は変わりつつあった。エデンの園にいた時ならば、きっとペレグの目的を聞こうともしなかっただろう。
ペレグはその変貌に気づいていた。だからこそ、話すことを決断した。
バベルの塔と卒塔婆に背を向けて、ペレグは語り始める。
「ユバルくん。先ほど話した教皇の支配の手法を覚えているかい」
「ええ、覚えています」
人々に配給する食事に、思考を鈍くする薬を混ぜ、エデンの園から急激な変化を奪った。
すべてペレグが語ったことである。
「思考活動を制限したその薬品には、副作用があった。胎児の脳の発達を阻害する効力があった。これがために、エデンは滅びるかもしれない」
「……なんですって?」
ユバルは耳を疑った。
「知能は、世代を経るたび減退している。薬入りの薬品を配給されていないのは、教府の関係者家族だけだ。
科学者の絶対数は減っている上、エデンに渡った科学技術はまったく進歩していない。これでは氷河期が悪化した時、対処できなくなるだろう。
最悪の事態が起きてから科学を流布しても、手遅れだ」
ユバルは押し黙った。それをどう受け止めたのか、ペレグは言葉を重ねる。
「空を見ろ! まだ昼だというのに厚い雲が空を覆っている。ドームがなければ、私たちは瞬く間に凍え死んでしまうだろう。
それを忘れないために、私たちは灰色の空を見ることができるようエデンを設計した。
それなのに、……教皇と教府の幹部たちはそれすら覆った。偽りの青空を投射して、世界はマシになっていると人々を騙した。それもまともな判断能力すら奪い取って。
……私は、……こんな結果をもたらすために、科学を研究したわけではない。私は、そして、我々は、この間違った世界を改めたいんだ!
君はこの世界をおかしいとは思わないのか? だから、私に会おうと思ったんじゃないのか? 世界の歪みを見つけるために、我々に接触したのではないのか?
君は隔世遺伝のおかげもあってか、知能の高さは我々の世代と変わらない。教府のサーバーにもそういうデータが登録されていた。これは間違いないことだ。科学を理解することも容易だろう。君を中心に新たな世代の科学者を育成すれば、エデンを救うことができる。
エデンの真の姿を、いつかそこから出ていく卵だと人々にしらしめることができるのは君なんだ……」
ペレグは言い切り、大きく息を吐いた。
ようやくユバルは、ペレグの正体を見出した。
「ペレグさん。あなたの話は、僕にはとんと関係がない」
「……なに?」
混乱した表情のペレグに、ユバルは続ける。
「僕は、僕の神を見出すためにここにきた。
確かに、あなたに会おうと思った動機は、この世界の歪みに疑問を抱いたからかもしれない。
けれど、あなたの目的と僕の目的は別だ。僕はあなたに利用されない。母さんの意に沿うことを続けるつもりもないし、『常識』を盲信するつもりもない。
僕は僕に拠って立つ。そのために、僕は僕を規定する殻を破る」
それを聞いて、ペレグは、くしゃりと笑った。
なぜ笑うのだろうと、今度はユバルが混乱した。しかしペレグの言葉を信じるならば、彼は百五十年生きてきた。ユバルの十倍生きた人間を、理解できるなんてありえない。だが、理解できないからこそ、ユバルはペレグを知りたかった。
「……それでいい。それで、いいんだ。ユバルくん。
行こう。孵卵はもう目の前だ」
提灯の火は、もう目前に迫っている。