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第一話:祈り

 神其人に命じて言ひたまひけるは園の各種すべての樹のは汝意のままに食ふことを得

 されど善惡をしるの樹は汝その果を食ふべからず 汝之を食ふ日には必ずしぬべければなり。

 「歴史」第一巻=創世記第二章第十六節及び十七節拠り抜粋/教府キュリア発行


 鳥は卵の中から抜け出そうと戦う。

 卵は世界だ。

 生まれようと欲するものは一つの世界を破壊しなければならない。

ヘルマン・ヘッセ著「デミアン」撚り抜粋/禁書指定書籍


 元始に神天地を創造つくりたまへり


 この一文で幕開けとなる「歴史」第一巻「創世記」の記述によると、主は人のためにエデンの園に目に良いものばかりを創りたもうたという。

 では、このエデンの街はどうだろう。確かに美しく調和している。しかし、少年の瞳に映る世界はひどく虚ろだった。

 ユバルは辺りを見回す。

 白い教室に、白い制服。ほんのりと漂う森の香りは「木材の樹」を材料に作られた勉強机のものだろう。教卓を挟んで壇上に立つ教師サライのカソックだけが黒い。白と黒とのコントラストは洗練されている。

 だが、それだけだ。


「最近、近辺で不審者が目撃されています。身長五・五フィートの男性、襤褸で体を包んでいるため、細かい顔立ちは判明していません。彼はバビロンの民である疑いが高い。

 皆様、見かけたらすぐに近くの宗教裁判官に連絡するように。

 他に、何か連絡のある人は挙手を」


 サライ女史による連絡の間、ユバルはずっと彼女の頭上にあるキリストを見ていた。


 はりつけにされた神の子を縛り止める釘は、蛍光灯の冷たい光で鈍く輝いている。拒絶をそこに見出して、ユバルは目を背けた。


 サライ女史の話が終わり、ひとりひとりの連絡が始まる。すると気が抜けたのだろう、辺りで雑談がはじまる。ユバルは耳を傾ける。

 彼の鼓膜を震わしているのは、バビロンの民を否定する言葉だった。とある少年が、得意げに、けれどひっそりと話していた。


「バビロンの民って、本当はいないんだぜ。お父さんが言ってたんだ。あれは、子どもを怯えさせるための嘘だって」


 彼はクラスの中で一番人気が高かった。だから、級友は口々に賛同した。けれどユバルは、バカバカしいと首を振った。彼の父は工場勤めだから、そういうホラが吹けるのだ。

 ユバルは教府キュリアの司祭である父が、バビロンの民の実在を信じていると知っていた。ならば、それは真実だ。ユバルはそう考えていた。だいたい、教府から配布されている警句書にバビロンの民の記述があるのだ。存在しないはずがない。ユバルは一人笑ったが、誰からも賛同を得られないと知っていた。真実は一種の信仰によって成立すると、ユバルは理解していた。

 彼は教室に一人、孤独だった。彼の求めるものは、この空虚な場には存在しないからだ。誰かが挙手して意見を述べている、もう一人がそれに反応している。不定形だった人々の意志が指向性を持つ中で、ユバルはまたキリストを見上げた。


 胸の奥のどこかしらが、ひどい軋みをあげている。


 耐え切れないのだ、とユバルは感じた。だが、なにに耐え切れないのかは解らなかった。ユバルは、いや、エデンは明らかに豊かだった。病気をすればすぐに手当を受けられるし、そもそも衛生環境が整っているため病気にかかる心配が少ない。子どもは子どもであるというだけで教育を受けられる。中等までは同じ教校で、その後学力に応じた選別と教育局との対話を通じて、各自が最も望む道を歩める。

 ユバルはその中でも裕福な家庭に生まれ育った。何一つ不自由ないはずだった。しかし、軋みは絶叫の衝動に変わろうとしていた。彼はそれを恐れ、同時に疑った。


 いったい、なにが、軋みをあげているのだろう?


 ユバルはその答えが己の内側だけには収まっていない気がしていた。彼はその黒い瞳に映り込むなにもかもに、限界を見出していた。存在の耐えられない、なにか。その正体は不明のままだ。

 それはユバルの鋭敏な感受性がもたらした錯覚かもしれない。しかしユバルの主観が彼の判断の絶対基準である以上、感覚は真実だった。

 されどキリストは黙して語らない。


 イエスの細い目は世界をどう映しているのだろう?

 復活したと聞く主の御子の視座を想像し、ユバルは思索に耽溺した。


 時とともに観念が過ぎていく。あとのよどみに浮かぶ雑念うたかたはかく消えかく結び、留まることなく流れていった。

  そうしてようやく、退屈の終焉が告げられる。


「――皆様、終業後は安息日です。安息日を無事に迎えることができた喜びを主に伝えるため、みなでお祈りをいたしましょう。跪いて、椅子のクッションに肘をついて……」


 級友たちと同じように、冷たい床に膝を下ろす。クッションフロアの感触にはいつまで経っても慣れない。困惑しながら、ユバルは首から下げた磔のキリストを握りしめて目を閉じる。


「天にましますわれらの父よ、

 願わくは御名の尊まれんことを、

 御国の来たらんことを、

 御旨みむねの天に行わるる如く

 地にも行われんことを。

 われらの日用の糧を

 今日こんにちわれらに与え給え。

 われらが人に赦す如く、

 われらの罪を赦し給え。

 われらを試みに引き給わざれ、

 われらを悪より救い給え。

 願わくは、エデンの永遠を。

 かくあれかし《アーメン》。」


 サライの祈りの結びにユバルは重ねた。


「かくあれかし《エイメン》」


 願わくは、わたしに答えを授けたまえ。

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