人ノ精神ヲ喰ラウ鬼 其ノ参
視界に入ってきた瞬間、日和は叫んだ。
「水琴!」
無防備に歩いていた水琴はその声に驚き振り向いた。
だが、時はもう遅し……
水琴の両肩は日和によってしっかり摑まれていたのだった。
「つ~かま~え~た~!」
「ぎゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁ! 変態ですぅ! 不審者ですぅ! 幼女誘拐ですぅ! 日和変人ですぅ!」
あまりの大声を上げる水琴を必死に落ち着けようとする日和だった。。
「おい! 落ち着け! そんなに大声を上げたら本当に誰か来てしまうじゃないか! 安心しろ俺だ!」
「ぎゃあぁぁぁぁ! 優しく声を掛けて油断した所で変な薬を飲ませて連れ去るつもりなのですぅ! 日和野蛮人なのですぅ!」
「頼むから静かにしてくれ!」
そう言って水琴に顔を近付けると、やっと気付いてくれた感じで大人しくなった。
「あ、日和さんなのです。びっくりさせないで下さいです。てっきり善人を装った日和さんかと思ったじゃないですか」
「意味分かんねぇぞ! っていうか最初から俺だって気付いてただろ? 今思い返せば普通に俺の名前呼んでるじゃねぇか!」
「それは日和さんが悪いのです! 無邪気に歩いているところに全力で走って来られたら誰だって驚くのです! だから罰なのです!」
「罰も何も多分もう少しで本当に警察呼ばれてたぞ! あそこのマンションの叔母さんがずっとこっち見てたんだからな! むしろ既に呼ばれてる可能性の方が高いかも知れないぞ!」
「もしそうなったら地獄の果てまで逃げて行く日和さんを見せて下さいです!」
「……そんなに俺の事を虐めてると流石に高校二年でも泣くぞ」
落ち込んでいる日和を見て水琴が笑い始める。
「あははっ。そんな落ち込まないで下さいです。冗談なのです。日和さんに久し振りに会えたので嬉しくてつい意地悪しちゃったです」
(めっちゃ可愛いじゃん。やっぱり俺には水琴しか居ないな! さぁて新婚旅行は何処に行こうか? ヴェネツィアで海に浮かぶ町並みをゴンドラに乗って見るのも悪くないぞ。それとも海外は怖いから国内でも良いんじゃないかな。そうだ! 沖縄の青い海と白い砂浜。それから眩しい水琴の水着姿なんて良いんじゃないかな。あぁ~考えるだけで待ち切れない! よし! 今日、今から旅立とう!)
「……さん? ……和さん? 日和さん?」
水琴が心配そうに日和の顔を伺っていた。
「日和さんって時々ボーっとしてしまう時があるのです」
「いや! ちょっと考え事をしてしまってね! 眩しい水着……じゃなくて眩しい太陽から受ける紫外線量の事をついつい考えてしまってね」
「へぇ~色々難しい事を考えてるのです」
「俺くらいになると何時如何なる場合でも頭を常にフル回転させていなければならないのだよ!」
「……何だか口調が変わってきてるです」
鋭い水琴の突っ込みで言葉を無くした。
普段から頭を使う事が無い為、日和に無理が生じてきてしまったのだった。
一回思考をリセットした日和が普通に話し始める。
「ところで何でこんな所に居るんだ?」
「別に居た訳じゃないです。日和さんが私を止めたのです」
「あ、ごめんごめん。どこかに行く途中なのか?」
「これから友達の家に行く所なのです」
「そっか。ちゃんと友達とも遊べるようになったんだな。良かったな!」
「はい! ずっと学校休んでたので最初はなかなか誰とも話せなかったし、話してくれなかったんですけど、ある日一人の子が話し掛けてくれたのです。それから仲良くなって遊ぶようになったです」
「やったな。最初の友達が出来たんだな」
その言葉に水琴は俯いて言った。
「……その子は最初の友達じゃないのです」
俯いた表情から日和は何かまずい事を聞いてしまったんじゃないかと焦る。
「あ、ごめん……何か思い出したくない事を思い出させちゃったかな?」
すると首を横に振った。
「違うんです! 最初の友達は凄く良い思い出ですし、今でも私が困っていたら助けてくれるのです! ちょっと変な所もありますけど、とても優しくて温かい人です」
「俺が知らない間にそんな凄く良い友達が出来てたなんて何だか嬉しいな」
「何を考えてるのか分からなくって変人丸出しでいつも忙しそうなその人は私の前に居るのです。そう私の最初の友達は日和さんなのです」
そう言いながら上げた水琴の顔は今まで見た事が無いくらいキラキラした笑顔だった。
日和は一瞬、胸を射抜かれたような感じになり見蕩れてしまったのだった。
すると水琴は少し恥ずかしそうな表情を浮かべながら言う。
「……日和さんは私の初めての友達で間違って無いで良いです?」
「あぁ、間違いじゃないな。これからもずっと俺は水琴の友達だからな。だから困った事があったらいつでも俺に言うんだぞ。すぐに助けてやるからな!」
「はいです!」
もう一度笑った水琴の顔はやっぱり輝いていた。
その瞬間、日和の心の中である言葉が浮かぶのだった。
(もう水琴は大丈夫だ……ちゃんと自分の力で前に進む事が出来るんだから)
そして何か思い付いたかのように水琴に言うのだった。。
「なぁ、友達の家に行く前に少しだけ公園に寄って行かないか?」
「えっ? 公園です? 別に大丈夫なのです」
すぐ目の前に見えていた公園まで二人で歩いて行く。
中に入ると日和は一直線にブランコに向かい、水琴の背中をぽんっと叩いた。
「前に約束したよな。手足が治ったら思いっ切り背中を押してやるって。俺なかなか忙しいから次いつ会えるか分からないじゃん。だから今あの時の約束を果たしてやるよ」
そう言うと水琴をブランコに座らせ、ゆっくりと押し始めた。
だが、念願叶っているというのに浮かない表情をする水琴。
一旦、背中を押す手を止めた日和が顔を覗き込んで
「どうした? 楽しくないのか?」
首を振って答える水琴。
「そんな事は無いのです。日和さんに約束を果たして貰えて凄く嬉しいのです」
「じゃあもっと楽しそうにしろよ。さっきみたいに笑った顔が一番可愛い水琴なんだから……そんな今にも泣きそうな顔するなよ」
「だって……よく分からないのです……よく分からないのに涙が出てくるのです」
必死に我慢していたが、目からは涙がぼろぼろと溢れ始める。
「俺もよく分かんないぞ。こんなに楽しいのに泣くなんてどうしちゃったんだよ?」
「何か……上手く言えないのですけど今日が終わってしまったら、日和さんが何処か遠くに行ってしまそうな気がして……また会えるです? 今までと変わらず、いきなり後ろから声を掛けてくれるです?」
「何を言ってるんだよ! そんなの当たり前じゃないか! 俺が水琴の前から姿を消す訳が無いだろ。ずっと友達だし、困った時は必ず助けに行くってさっき言ったじゃないか。そんな心配しなくても俺はずっとこの街に居るから大丈夫さ」
「約束なのです!」
「あぁ約束だ! それじゃ思いっ切り押すからしっかり摑まっとけよ」
「はいです!」
水琴の身体が高々と舞い上がるのと同時に笑い声も響いてきた。
ずっと風と一緒になりたいと思っていた願いが叶った瞬間だった。
そして僅かではあったが楽しい時間は水琴の胸に刻まれていくのだった。。
また一つ『良い思い出』となって――
だが、どうして急にそんな事を言い出したのか水琴自身も分からなかったし、言われた日和自身も分からなかった。
公園前まで戻ってきた二人は入り口を挟んで向かい合う形になった。
「それじゃ俺は用事があるからこっちに行くけど、気を付けて行ってくるんだぞ。それと友達と仲良くな」
「はい! 日和さんも気を付けて下さいです。くれぐれも犯罪にだけは手を染めない様にして下さいです!」
「するか!」
いつものような遣り取りをして笑い合う日和と水琴だったが、刹那の様な沈黙の後
「じゃあ、またな」
「はい、それではです!」
お互いに振り返ると背中を向かい合わせながら距離が離れていった。
今日と同じように明日も当たり前のようにあると信じて……
歩いていた日和にディユンがまた突然のように話し掛けてきた。
(今日は『日和、心配デー』なのか? あの少女までも心配しておったぞ)
「きっと情緒不安定な日をたまたま迎えているだけだよ」
(何じゃ? そんな決まった日が人間にはあるのか?)
「ディユンは知らなくて良い事だよ」
(訳分からんのう?)
全く実の無い話をディユンと繰り広げている間に木乃葉の家の前まで来ていた。
しかし話に夢中になっていた日和は気付かずに通り過ぎようとしていた。
「だからツナは鰹なんだってば!」
(いや、鮪じゃろう)
「缶詰の原材料の所に鰹って書いてあるの見た事あるぜ!」
(っというより日和は鰹と鮪の漢字を知っておるのか?)
「当たり前じゃないか! 魚偏に弱だろ」
(それでは鰯ではないか! そうなってしまうとまた更にややこしくなってしまうのう)
「えっ、違うのか?」
ツナが何で出来ているかを議論していた所に呼び止める声が聞こえた。
「ちょっと! 通り過ぎて何処に行く気よ!」
振り返ったが誰もそこには居なかった。
「何処見てるのよ! 上よ! 上!」
言われるまま視線を上げると二階の窓から木乃葉が顔を出していた。
「おぉ、そんな所で何してるんだよ?」
「それはこっちの台詞よ。私の家に来たんじゃないの?」
「あれ? もう着いてたのか?」
「ったくもう……またどうしようも無い事を考えながら歩いてたんでしょう?」
木乃葉の指摘は的を射ていた。
そして何かを閃いたように日和が拳を手の平にぽんっと打ち付けた。
「ちょっと木乃葉に質問なんだけど、ツナって鮪? それとも鰹?」
「はぁ? 何その何処から持ってきたのか分からない質問」
「いや、俺は鰹だと思うんだけど、鮪って言う奴も居てさ」
(何を聞いておるんじゃ! そんな事を幼馴染が答えてくれる訳が無かろうが!)
呆れた表情を浮かべていた木乃葉が溜息を吐いて
「ツナっていうのはスズキ目サバ科マグロ族に分類される魚の総称の事よ。だから鮪でも鰹でも間違いじゃないわよ」
(普通に答えるのか!)
「そっかぁ! それじゃ意見が分かれる筈だよな。サンキューな!」
身体の向きを元に戻した日和は再び歩き始めた。
見ていた木乃葉も再び呼び止める。
「だからちょっと! 何処に行こうとしてるのよ? 私の家を直しに来てくれたんじゃないの? 今日で終わりなんだから頑張ってよ!」
「そうだった。話に夢中で何をする為にここに来たのか忘れてたよ。木乃葉の家を直しに来たんだったな。よし! 気合入れて頑張るぞ!」
日和は駆け込むように家の中に入っていった。
「もうっ! 本当頼りになるのか、ならないのか、よく分かんないんだから……」
昼過ぎに着いた木乃葉の家で日和は夕方前まで修理を行い、何とか無事に終える事が出来たのだった。
「やっと終わったぁ! これで木乃葉も安心して過ごしていけるな」
「有難う日和! 毎週来て直してくれたお陰ですっかり元通りになったわ。これでお父さんとお母さんがいつ帰って来ても大丈夫ね」
「そういえば木乃葉の両親は今何処に居るんだ?」
「えっと、お父さんがフランスでお母さんがアフリカかな」
これまで何故鬼に憑かれてしまっていた木乃葉が家をボロボロにしても何の騒ぎにもなって無かったかというと両親は滅多に家に帰って来る事が無かったからである。
木乃葉の父親は国際線のパイロットで母親は海外派遣の医師なのである。
だから普段から一人で居る事が多い為、ずっと日和と一緒に居たのであった。
「遠いよな……因みに予定ではいつ日本に帰って来るんだ?」
「年末くらいかな?」
「まだまだ先なんだな」
「でもほぼ毎日電話を掛けてくれるし、手紙も送ってくれるからそんなに離れている感じがしないんだよね」
「それなら良いんだけど、一応女なんだから夜とかちゃんと戸締りしないとダメだからな」
「何? 心配してくれてるの?」
「ばっ、何を言ってるんだよ! 心配なんてする訳ねぇだろ! 例え心配するとしても木乃葉を襲おうとした相手の命の方だよ!」
「それどういう意味よ! 私だって女なんだから相手が男だったら敵う訳無いじゃん!」
「でも木乃葉はいつでも俺の前に立って守ってくれていたイメージがあるからよ。男とか関係無しにやっつけてしまいそうだよな。あの頃みたいに」
「もう……私が日和を助けた時はまだ幼稚園児だったじゃない。あの時のイメージでいつまでも私が強いと思われてるなんて何か嫌だなぁ~。それに高校生にもなれば日和の方が力も強くなってるに決まってるじゃん」
「いつまでもあの頃のままじゃないって事だな。俺も昔とは比べ物にならないくらい強くなれたと思うし……」
(まぁ昔と言うよりはつい最近、変化を遂げてしまったような感じなんだけどな)
「じゃあさ。これから先は余計に俺が木乃葉の事を守ってやらないとな。一人で家に居て、寂しく感じたらいつだって俺を呼んでくれても良いし、逆に俺の家に来ても良いんだからな。幼い頃に約束した通り、いつでも俺が木乃葉を守ってやる」
日和の大胆な言葉に頬を赤らめる木乃葉。
そんな状況を思考内で見ていたディユンが声援を送る。
(良いぞ日和! その調子じゃ。しかし焦ってはいかぬぞ。ここはじっくり責めるのじゃぞ!)
後押しを受けた日和は木乃葉の目を見詰めながら言った。
「それじゃ俺の家に来た時は昔みたいに一緒に布団で寝ような! これでもう寂しくないぞ!」
優しい表情を浮かべながら言った日和の顔面に木乃葉の拳がめり込んだ。
「何調子に乗ってんのよ! 日和と同じ布団で寝てしまったら何されるか分かったものじゃないわよ!」
(やっぱりコイツめっちゃつぇ~じゃん……)
(今のは日和が悪いぞ。じゃから焦るなと言うたじゃろうに……)
顔面の痛みはすぐに消えたが少しへこんでしまった日和であった。
「でも寂しくなったらその言葉に甘えようかな……」
呟くように言ったその言葉は日和の耳には届いてなかった。




