人ノ記憶ヲ喰ラウ鬼 其ノ伍
眠ってしまっていた日和はふと目を開けた。
(夢か……そうだったな。木乃葉と初めて会った時に握手をしたんだっけな。大切な俺との思い出を忘れてしまっていると思っていたのに一番大切な事を忘れていたのは俺の方だったんだ。最低だな俺……そのせいで木乃葉の『合図』気付いてやれなかった! ……まだ間に合うのか?)
咄嗟に日和はベットから起き上がるとディユンに呼び掛けた。
(ディユン……一緒に木乃葉の所に行くぞ!)
(こんな夜中に何をしに行こうと言うのじゃ? まさか幼馴染に欲情でもしてしまったと言うのではなかろうな?)
(何を寝惚けた事を言っているんだ? 木乃葉に憑いている鬼を退治しに行くんじゃないか)
(……気付いておったのか?)
(いや、全然気付いてなかったし、むしろディユンの言葉を信じて安心し切っていたよ)
(では何故、幼馴染に鬼が憑いておると?)
(思い出したんだよ……大切な『合図』を。木乃葉はずっと俺にその『合図』を送ってくれていたのに馬鹿な俺はすっかりその『合図』を忘れてしまっていて気付いてやれなかった。まぁ話は向かいながらしよう)
部屋のドアに向かって行く日和にディユンが言った。
(どっちに行きおるのじゃ? 窓から行くぞ)
(窓って? そんな飛び降りなくても下から出ればいいじゃないか)
(『降りる』のではない。『飛ぶ』のじゃ。少し力を使う為に『澪』を喰らうぞ)
身体の中からディユンが心臓の中の『澪』を喰らうと日和は身体が軽くなったような感覚がした。
「えっえっ」
(今、日和の足を鬼の筋力と同じにした。私を信じて窓から幼馴染の家まで飛んでみろ)
「そんな事言われたってアニメや漫画じゃないんだから簡単に信じられる訳無いだろ!」
(……あ~あ~こうしている間にも幼馴染は鬼に喰われてしまっておるというのにこの男が根性無しのせいで無残な事に)
「あぁもう分かったよ! どうなっても知らねぇからな!」
日和は窓を開けると右足を乗せ、思いっ切り飛び出した。
すると身体が高々と舞い上がっていき、大きな弧を描いた。
「何だ! コレ!」
(良いぞ。屋根に着地したらまた大きく飛び上がるのじゃ。この方が走って行くより断然早いじゃろう)
「確かにそうだけど、人間っていう生き物はこんなに高く飛んだり出来る訳じゃないから正直めっちゃ怖いんだけど……」
(最初は誰もが怖がるものじゃ。慣れてしまえば何て事は無い)
「…お前今、明らかに世の中をまだ知らない少年少女を誑かして悪い世界へと勧誘するような言い方だったぞ」
そんな話をしている間に気が付くと確かにディユンの言った通り、木乃葉の家まで数分で到着出来たのだった。
再び家の前に立った日和だったが、電気もついておらず真っ暗な闇に薄っすらと浮かぶ家は禍々しさすらも感じられた。
「なぁディユン。凄く静かだけど木乃葉はちゃんと中に居るんだよな?」
(あぁ、間違いない。日和の幼馴染も憑いとる鬼も中に居る)
ディユンは日和の身体から出ると
「鬼の気配は二階のあの部屋から感じるぞ。じゃが直接這入って何が待ち受けとるか分からんから隣の部屋の窓から入るぞ」
軽くジャンプしたディユンと日和は家の屋根に飛び上がった。
(よく遊んだ木乃葉の家に久し振りに来て、こんな風に這入ろうとしてるなんてなぁ……)
ふと窓に手を掛けた日和は鍵が閉まっている事に気付く。
「おい、ディユン! 鍵が閉まっているぞ。これじゃ這入れないじゃん」
「それなら任せておけ」
そう言うと手に気を集中させ始めた。
少しずつ光を帯びていくのを見ていた日和は嫌な予感がしていた。
「ディユン。一応確認しておくけど……割るなよ!」
「さぁてどうかのう」
眩く光り始めた手を握り締め、腕を引いたディユンに
「おい! マジかよ! こんな静かな所で窓なんて割ったら周りに気付かれちゃうじゃねぇか! やめろ~!」
その瞬間、腕を前に出したディユンはゆっくりと窓を通り抜けさせて中から鍵を開けた。
「スーパー女の時、日和は下で待っておったから知らんかったと思うが、私の腕は何でも通り抜けるのじゃ。こうすれば簡単に開ける事が出来るんでな」
「それならそうと誤解するような行動するなよ!」
「びっくりするかのうと思うてのう」
日和に憑いて同じ思考内に居るようになってからディユンにも僅かであるが日和のどうしようもない部分がうつってしまったようだ。
「それじゃここからは何が起こっても不思議では無いから気を付けていくのじゃ」
「ちょっと待てよ」
窓を開けようとしたディユンに日和が声を掛けた。
「なんじゃ? まださっきの事を怒っておるのか?」
「そんな事はどうでも良いんだ。ただ何で今日の夕方来た時に嘘を付いたんだ? 一緒に力を取り戻そうって約束したじゃないか? なのに何故嘘を付くような真似をしたんだ? ……もしかしてまだあの事を怒っているのか?」
「いや、怒ってはおらぬ。ただ……」
言い掛けた言葉を飲み込むようにして黙り込んだ。
「ただ……なんだよ?」
日和は煽る様に問う。
話す言葉を選んでいるかのようにディユンは目を泳がせたが、すぐに口を開いた。
「ただ……私は日和が言うてくれた言葉が嬉しかったのじゃ。今まで考えすらもしなかった事を投げ掛けてくれた」
「それなら何故?」
「その嬉しいと思い、幸せという言葉を聞いて心で望んでしまった自分自身に苛立ってしもうたのじゃ。今の今まで自分を限界まで追い込み、罪悪感の塊として生きておった私がついつい幻想を抱いてしもうた事に……そして何も悪う無い日和に強う当たってしもうた事で更に自分の愚かさを感じてしもうたのじゃ。だからあれ程までに酷い事を言うたのに都合の良い時には協力して貰うなどあまりにも自分勝手であろう。大切であろう幼馴染の痛々しい姿を日和に見せまいと私一人で助け出そうと思っておったのじゃ。今までも見たであろう! スーパー女の時も少女の時も鬼というのは残忍で且つ残酷な生き物なのじゃ。幼馴染も綺麗な姿のままとは限らんのじゃ。今ならまだそんな姿を見なくて済もう。引き返すなら今じゃぞ!」
ずっと話を俯いて聞いていた日和だったが、急にディユンの胸倉を掴んだ。
「お前さっきから何言ってんだ? 喜んだり嬉しいと思ったりして何が悪いんだよ! 幸せを望んでしまった自分に苛立っただと! もういい加減ふざけるんじゃねぇ! 十分ディユンは罪を感じて自分を追い込んで辛い思いを沢山してきた。それなのにまだ自分自身を許せないでいる。もう沢山後悔して罪悪感に苛まれて見えない傷を無数に受けたじゃねぇか。それなら今度は許せねぇ自分自身を許してやるのも罪滅ぼしじゃねぇのか? お前はただ逃げてるだけなんだ。罪を背負う事で自由から逃げてるんだよ。いつまで罪のせいにして逃げ回るつもりなんだよ。大丈夫さ……もうお前を恨んでる奴も憎んでる奴も居ない。望むモノを手に入れて自由に幸せに生きても誰も文句言わないから。そして俺がディユンを信じているようにディユンも俺を信じてくれ! 俺に罪悪感なんか感じないでくれ。見せてはいけないものを勝手に作らないでくれ。人を救える力を持つ事が出来たんだから俺はディユンと一緒に救っていきたい。そして俺の幼馴染の木乃葉なら尚更だ! いつも身近で俺の事を見ていてくれて辛い時や苦しい時には助けてくれた。そんな大切な存在ならばこそ自分自身の手で助けてやりたい! 救ってやりたい! それが出来なければ俺が鬼になって力を手に入れた意味が無いんだ。今までの事もあるから悲惨な状況は覚悟の上だ。俺は引き返さない! ディユンと一緒に先へ進んで木乃葉の所に行き、必ず救い出す! この先何があってもディユンは俺を信じろ! そして自分自身を信じろ! また罪悪感がどうのとか自分は愚かだとか言ってみろ。その時はぶん殴ってやるからな!」
ディユンはこれまでなった事の無いような気持ちになった。
今まで自分が何に悩んできていたのかが分からなくなってしまった。
口元を少し緩ましたディユンは思わず口から出た言葉は
「日和、本当に有難う。私はずっと自分自身で闇を作り、そこに閉じ籠もっておっただけじゃったんじゃのう。だが日和の言葉で漸く目を覚ます事が出来た。私の勝手な思い込みで色々迷惑を掛けてしもうたのう……すまなかった」
掴んでいた胸倉をゆっくりと離す日和は素直に心内を話してくれたディユンに対して笑顔で答えた。
「俺はディユンが少しでも光を見出してくれたら良いなと思って言ったまでだから、それで心が楽になれたなら何よりだよ」
数日前から続いていた二人のギクシャクした雰囲気はやっと解かれたのであった。
俯いていたディユンは顔を上げ、日和の目を見ながら言った。
「それでは幼馴染を救いに一緒に行こう日和!」
「おう!」
窓を開け中に入って行った二人は木乃葉が居る隣の部屋に向かう為に今居る部屋を出た。
そこで日和は目を疑うような光景を目の当たりにしたのだった。
壁や床に異常なまでに引っ掻き回したような痕が無数に残っていた。
「一体……これは……何か今までと違う感じがしないか?」
「これ程までに異常をきたして来しておるとは状況的にかなりマズイやも知れぬぞ!」
その時だった。
木乃葉が居る部屋から苦しむような声が微かに聞こえてきた。
表情を強張らせたディユンが
「部屋に行くぞ! 早くせねば手遅れになってしまうぞ!」
二人は飛び込むようにして木乃葉の部屋に入って行く。
するとそこには目を疑いたくなるような光景があった。さっき家の廊下で見てきたものよりも更に無残なまでに引っ掻き回した痕だけで埋め尽くされた部屋の中にボロボロの姿をして壁に凭れ掛かるようにして座っている木乃葉が居たのだった。
その姿は見る影も無い程に窶れ切っており、無残な印象を受けた。
そして何より顔面の損傷が激しかった。
掻き毟った様に無数の爪痕があり、日和は不意に目を逸らさずにはいられなかった。
そこにディユンが近付いて来て
「大丈夫か? 辛いだろうが目を逸らさずにちゃんと見るのじゃ。お前が救わないといけない幼馴染は目の前に居るのだからな」
日和は僅かに頷くと目を開けてしっかりと木乃葉を見て話し掛けるのだった。
「木乃葉、大丈夫か? 俺……お前の事ちゃんと気付いてやれてなかったな……本当はずっと助けを求めてたんだよな。こんなになるまで苦しませてしまって本当に馬鹿だよ俺は……今日来た時に木乃葉が俺と最初に会った時の話をしてくれただろ。家に帰ってずっと考えていたんだけど、どうしても思い出せなくってよ。でも不思議な事にあの時の夢を見たんだ。本当なら忘れちゃいけない思い出なのにすっかり忘れてしまってて、お前の『合図』を見逃してた……ごめんな木乃葉」
意識があるのかさえも分からない状態の木乃葉は無反応だった。
でも日和は必死に話し掛ける。
「でもさ……何もこんなになるまで俺と決めた『合図』を守らなくても良かったんだぞ! 素直に言ってくれて良かったんだ……」
(本当にわざわざそんな約束なんて守らなくて良かったのに……)
「じゃあ本当に助けて欲しい時の『合図』を決めない?」
「『合図』?」
「うん! その方が何だか二人しか分からない『秘密の暗号』みたいで格好良くない?」
「そうだね! じゃあどんな感じのが良いかな?」
「う~ん……あっ! こんなのはどうかな?」
(この時、木乃葉は俺の耳元でこう言ったんだ)
「本当に助けて欲しい時は今日の日和君みたいに思いっ切り『強がる』っていうのはどうかな? やっぱり素直に言うって少し照れちゃったりするから、これなら意外と素直に出来そうじゃない?」
「木乃葉が図書室で『強がる』事を言ったのは本当は俺に助けて欲しいって『合図』だったんだ。今まで俺はその事を忘れて辛い時や苦しい時に心配してくれる木乃葉に『強がる』事を言ってた。それを覚えていた木乃葉は笑顔で俺に手を差し伸べてくれた。今思えば木乃葉を傷付けてしまってばかりだったのに何で助けてくれるのか疑問だった事が納得出来たよ。普段の木乃葉なら絶対に俺にあんな風な態度をしないのにと感じた時に気付くべきだった。それくらい極限まで追い詰められてたって事だもんな。でもそれももう少しの我慢だからな。今すぐ俺がそんな苦痛から助け出してやるから!」
相変わらず無反応のようにも見えたが、微かに指が反応した事で日和は少し安心した。
何故なら声が届いている事が分かったと共に命を失っていない事を知る事が出来たからである。
日和は後方に居るディユンに言う。
「取り敢えず生きてるみたいだな。今回はどうやって鬼を木乃葉の身体から出せばいいんだ? まさかまた針で突き刺すのか?」
「いや、きっと向こうから勝手に出てくるじゃろう」
「えっ? 勝手に出てくる?」
そう疑問に感じた日和だったが、急に体中が痺れ始めた。
「ど、どうしたんだ……? 急に……か、身体が言う事を聞かなくなっ……て」
異変に動揺している日和だったが、ディユンは表情一つ変えずに
「やはりそうじゃったか。家の中の荒れ具合といい、憑いておる人間の身体の損傷具合といい精神的に壊す鬼と言えば心当たりが二つあるが、その内の一つはもう会っておるのでな。残りの一つと言えばお前しか居らんじゃろう。のう『ミリテリアス』」
「エヘヘ、やっぱりサーベスト様にはバレちゃってたんだね」
そう答えると木乃葉の身体から憑いていた鬼がゆっくりと出てきた。
日和は水琴の時みたいに恐ろしい姿を思い浮かべながら生唾を飲んで顕になるのを待った。




