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春の秋刀魚

作者: 豊島修二

 四月もあと一週間と言うのに、平成二十二年の春は気まぐれな気温の変化を続けている。二十度を越えたかと思えば、翌日は十度にも満たない。予測できない気温差に、タンスの春物も出番を計りかねている。


 予測できない事は、誰にでも起こり得る。


 彼女は都内の団地に住む、土建屋の女房である。専業主婦としてほとんど亭主のいない家を守っている。その日も食事の支度をして、亭主の電話を待っていた。時計は既に二十二時を回っていたが、日が変わらない内に帰る亭主ではない。


 と、突然隣から大きな物音がして、けたたましい叫び声が聞こえた。何かと思っていると、家のドアが何の遠慮もなくドンドンと叩かれる。線の細い彼女は、肝を潰しながらもドアを開けた。そこに現れた隣人の尋常ならざる顔つきを見て、何事か分からぬながらも緊張が伝播する。

「ごめんなさい!助けて!助けて下さい!火事なんです!」

 見れば台所の窓が、オレンジ色にメラメラと揺れている。彼女は自宅からバスタオルを持ち出し、火元に走った。


 どうやら魚を焼いていたコンロが、出火元らしい。白い煙がもうもうとする中、オレンジの炎は次に己が燃やすべき対象物を探すように揺れている。

「男の人を!誰か男の人を呼んで下さい!」彼女は叫んだ。

 隣人の老女は、一人暮らしなのだ。こんな時間のこんな時に家にいない亭主の事がチラリと脳裏をよぎったが、今はいない人間の事を考えている場合ではない。バスタオルで火を覆うが、勢いは衰えない。誰が呼んだか消防車のサイレンが聞こえてやや安堵するが、眼前の炎も恐怖もまだ消えはしない。


 廊下にドヤドヤと消防士達らしい足音が聞こえ、ドアを振り向いた途端、ガラスが破裂するように割れた。驚いて尻餅をつく彼女が振り向くと、この部屋の主である老女は居間で既にへたりこんでいる。ほどなく消防隊の消火活動が始まり、ようやく心から安心して彼女は自分の亭主にメールを送信した。


 亭主は、自分が働く会社の事務所にいた。一報がメールである事から緊急事態は脱していると思ったが、それでも心配で歩いて十分の帰途をタクシーで帰る事にした。その間、彼女は消防士や警察官、おまけに野次馬にまで事情を説明せねばならなかった。その作業は、消火活動よりも彼女を疲れさせた。

 消防隊や警察と入れ替わるように帰宅した亭主の姿を認めると、彼女は小走りに走り寄った。走りながら火元の部屋を覗くと、居間には老女、台所ではガス会社の社員らしい男が何やら作業をしていた。終わったんだなと、ここで彼女はやっと完全に我に返った気がした。


 騒ぎの逐一を説明する彼女を、亭主はちょっと遮り念を押した。

「それで本当にウチに被害は無いんだな?」

「無いわよ。それは良かったけど、煙も物凄くて本当にびっくりしたわ」

 彼女の興奮に合わせるように、飼い犬のミニチュアダックスが勢いよく尻尾を振り続ける。


「消防士さんに事情を聞かれた時にも話したのよ、物凄い煙だった、驚いた、って」

「それで何か、言っていたかい?」

「それが“そりゃあ焼いていたのがサンマですからね”ですって!」


 夫婦は、笑い崩れた。

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