深層の檻:情報断絶ルーム
雑居ビルの地下深く。外界のあらゆる電波と音波を遮断した「情報断絶ルーム」は、冷ややかな沈黙に満ちていた。非常用の青白い蛍光灯に照らされたコンクリート壁は、深く冷たい海底を思わせる暗青色の影を落としている。その色彩は、足を踏み入れた者の胸を静かに押しつぶすようだった。
鉄格子の外側。パイプ椅子に浅く腰掛けた我妻は、指先でシワの寄った煙草を揉んでいた。鋭い目つきの奥には、長年の監視業務でこびりついた疲労の色が隠しきれない。
格子で仕切られた房の中にいるのは、利用者の小清水だ。ダボついた白いスウェット姿で、口元には薄笑いが張り付いている。その首元には、ずっしりと重い密閉型ヘッドホンがぶら下がっていた。
「おい、小清水。昨夜も独房で一人で笑ってたそうだな。夜間の発声は利用規約違反だ」
我妻の声は、乾いた砂のように淡々としていた。
「アカン、またバレたか」
小清水はボサボサの頭を掻き、大袈裟に肩をすくめた。
「いや、管理者さん。誤解せんといてよ。俺は笑ってたんやなくて、笑う練習をしてただけや」
「練習? ここはデジタル・デトックスのための更生施設だ。お笑い養成所じゃねえ」
「知ってるって。でもな、我妻さん。あんたも俺のカルテ見て知ってるやろ? 俺の病名は『SNSに対する過剰なサービス精神』や。ネットの海でサービスしすぎて破綻したんや。けど、ここを出て社会に戻ったら、また『いい人』の顔して笑わな生きていかれへん。筋肉と一緒で、錆びつかせたら終わりなんよ」
我妻はギッとパイプ椅子を鳴らし、体を前に倒した。
「お前のその笑いは、いつ見ても空洞だな。中身がない」
「痛いところ突くねえ」
小清水はニヤリと歯を見せたが、その目は笑っていない。
「ええか、我妻さん。『本物の笑い』なんてものはな、とっくにタイムラインの藻屑になって消えたんや。俺らが日常でやってんのはな、本物っぽく見せるための『高性能な嘘』だけ。あんたがモニター越しに覗いてる『まっとうな人間たち』かってそうやろ。全員、死にそうな顔隠して笑っとるんや」
「俺は嘘の果てに本物の疲労を知っている。お前のはただの逃避だ」
小清水は首のヘッドホンに指をかけ、弄り始めた。プラスチックの軋む音が静寂に響く。
「……このヘッドホンな。断絶ルームで唯一持ち込みを許された娯楽や。俺が何聴いてるか当ててみ?」
「どうせ流行りの動画か、お気に入りの配信者のアーカイブだろ」
「ブッブー。外れ」小清水は舌を出し、声を落とした。「俺が聴いてんのはな、『無音』や」
我妻の眉が、わずかに動いた。
「無音?」
「そうや。耳を塞ぐと、完璧な無が広がる。この静寂の中にだけあるんや。『俺が何を言っても、誰からもいいねがつかへん、完璧に安全な場所』がな。俺はここでずっと、誰にも邪魔されずに、つまらん自分と向き合っとるんよ」
我妻は煙草をくわえ、ライターの火をつけた。小さな炎が暗青色の壁を揺らし、消える。紫煙が天井へ昇っていった。
「誰にも見られない場所か」
我妻はゆっくりと煙を吐き出した。
「お前にとっては、それが一番の地獄のはずだがな」
「地獄も通り越せば快感になるんよ。あんたやってそうやろ? 誰も入ってこんこんな地下の底で、一人で狂人を監視し続けるのがあんたの快感や。俺は笑い、あんたは監視。どっちも同じ『孤独の引きこもり』やないか」
「お前はいつもそうだ。口八丁で自分を正当化する」
我妻は煙草を指で挟み、鉄格子の隙間から小清水を直視した。
「だがな、小清水。お前のそのペラペラした理屈の裏から、聞こえてんだよ。『誰でもいいから助けてくれ』っていう、情けねえ悲鳴がな」
小清水の指が止まった。へらへらとした笑いが、潮が引くようにその顔から消えていく。彼の手がヘッドホンを強く握りしめ、関節が白くなった。
「……ハッ、何言っとんの。あんたの錯覚や」
「お前が笑うのは、寂しいって言えねえからだ」
「アホか!」
小清水の声が跳ね上がった。静寂を切り裂くその声は、うろたえを隠しきれていない。
「寂しいなんて言えるか! 言うた瞬間、この狭い部屋で本当に一人きりになってまうやろ! 俺の孤独はな、『笑いで誤魔化せる程度の軽さ』やないとアカンねん! それが俺の生き残り方なんや!」
小清水は乾いた高笑いを響かせようとしたが、声は途中でかすれ、歪んだ。
我妻は立ち上がり、静かに小清水を見下ろした。
「じゃあ、一つ教えてやる」
「……なんやよ」
「お前がそのヘッドホンで聴いている『無音』は、安全な避難所なんかじゃない」
我妻は鉄格子を一度、コンクリートの静寂に響かせるように強く叩いた。
「それは、お前がネットから消えた途端に訪れた、『世界がお前を完全に忘れた音』だ」
小清水の呼吸が止まった。顔から完全に血の気が引き、彼は見開いた目で我妻を凝視した。ゆっくりとヘッドホンを両耳に押し当て、現実の音を拒絶するように膝を抱え込む。
「……最低やな。ほんま、あんたは最低の担当者や」
「そうだな。俺の仕事は、お前をお前自身の孤独から逃がさないことだ」
我妻は背を向け、暗い廊下の奥へと歩き出した。
残された情報断絶ルームには、どこまでも深い静寂と、耳を塞いだまま小さく震え続ける小清水の影だけが残されていた。




