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富美子

作者: 佐藤真白

富美子は私の曽祖母の名である。

大正産まれの(ひと)だった。



彼女は私にとって実の祖母以上に祖母だった。

大家族の中であっても忙しくしていた両親や祖父、遊びに夢中の祖母以上に私達兄弟を面倒見てくれていたのは曽祖母だった。


祖母に背負われた記憶などとんと無いが、曽祖母の背に負われて綿入り半纏でぬくぬくと秋風の中散歩に連れていってもらった記憶はある。

いつの頃からかその定位置が弟のものになり、私は手を引かれて歩いて散歩に行く事もしばしばだった。



小柄で身長は150は無かったと思う。

いつも朗らかなまん丸笑顔で、口元が少しだけ突き出た様に笑う人だった。



曽祖父は私の兄が生まれる前から脳梗塞で半身不随。寝たきりで言語障害もあった。


そんな曽祖父と曽祖母は2人同じ部屋で過ごしていた。

傍目に見ても仲の良い夫婦だったと思う。



私はそんな2人が大好きで、よくかくれんぼの時にはひいおじいちゃんのベッドに潜り込み「白ちゃんここにいないからね!兄ちゃん来ても言っちゃダメだからね」などとお願いして隠してもらったりしていた。


無論毎回隠れる場所などお決まりなので直ぐに見つかる。そんな曽孫が可愛いのか曽祖父母は大事に懐にしまっていたオブラートに包まれた寒天菓子や体温でべとりと周りが溶けた黒飴なんかを良くくれた。

甘いものなんて殆どおやつに上らない我が家では貴重な甘味だったので私は正直美味しく無いとは思いながらも喜んで食べたものだ。




そんな2人が…いや、曽祖父が私の本当の曽祖父でないと聞いたのはいったい何歳の頃だったのだろうか…


物心はついていたはずなので幼稚園の頃かも知れない。




今思うと彼女は語部だった。

幼さを理由に何も語らないのでは無く、事あるごとに自分の体験を語ってくれた。



芋掘りをすれば「昔は米の代わりに芋を蒸して食べたもんだ。こんなに立派な芋は無かったけどなぁ」と教えてくれた。


夕方の空を見上げれば「昔は向こうの山にもB-29がきて爆弾落としたんだよ。あそこには滑走路があったから…」と遠い目をしていた。


そんな曽祖母は寡婦だった。

私が曽祖父だと思っていたのは曽祖母の再婚相手で、血縁はあるが祖父の実父では無かった。




渡邉富美子が生まれたのは北国の農村だった。


そこそこの規模の豪農の三女として生まれた。

海も3時間ほど歩けば行き着く様な山村で不自由はなく育ったという。


年頃になった上の姉達は少し先の農村に続々と嫁いで行った。


姉達と同じ年頃になった頃に富美子にも縁談が舞い込んだ。


隣の農村の若人で評判の良い青年だったそうだ。

富美子もその男の話は噂で聞いていた。



相手の名前は「新妻 愛(にいつま かつお)

「愛」と書いて「かつお」と読む。

今考えても読めないし中々のDQNネームだと思う。

愛称として「あいさん」と呼ばれていたそうだ。


当時の男衆にしては大柄で立派な躯体。高等学校まで行った秀才で寡黙で真面目な男だという。

周囲からは果ては将校かなどと言われており、娘達が頬を染めて見ていると噂の男。

更には顔立ちも良い美丈夫だと言うのだから、10人並みの自分には勿体無いと思ったそうだ。



しかしながら縁談は向こうからで、更には当時の縁談など両家の代表が決めればそれで合意。本人達の意思など関係はなかった。


愛と富美子が初めて会ったのは祝言の日だったと笑っていた。



愛の家は富美子の生家よりも草臥れた家だった。

隣の藩に仕えた武家の家柄だったそうだが大した武勲もなく、昭和の時代なのに江戸の頃の栄光を語る様な舅と、もらいたくも無い嫁なのだと言ってくる姑、嫁いでも出産を機に婚家に帰らない小姑がいる家だった。


愛さんはそんな中で耐える富美子を当時にしては良く庇っていたとひいばあちゃんの妹の文ばあちゃんが法事の度に教えてくれた。


しばらくして富美子さんは3人の男の子を立て続けに産んだ。


その長男が私の父方の祖父である。

この頃が1番満ちていたのでは無いだろうか…


しかし世界の情勢が幸せな家族を引き裂いた。


太平洋戦争で召集令状が来る前に愛さんは、お国のためにと志願して出兵した。

それを見届けてから舅は旅立った。


愛さんが出兵して間も無く、愛さんの2人の弟達にも赤紙が届き2人残っていた年頃の男手も居なくなった。


農村とはいえお国のための強制徴収や男手の無い山間での農業では幼児を養うのも苦労したそうだ。


それでも都会に比べれば恵まれた食糧事情だったと語っていた。


秋の山にはキノコや山芋、春には筍や山菜が取れた。罠でうさぎやキジを捕まえる事もあったし、富美子の実家から時折米や野菜も届いたという。

時には田畑の水路でドジョウやタニシも育てた。


しかしそれらは、良い格好しいの姑が近所に配ったり小姑の婚家に流されてしまった。 


それでも子供達にひもじい思いはさせまいと必死に働いた。


祖父は芋や南瓜は未だに喜んでは食べない。

他にもカスベやサガンボ、すいとんなんかも我が家の食卓にはのぼらなかった。

出せば祖父の機嫌が悪くなったからだと母は語る。



話を戻そう。

愛さんとすぐ下の弟は海軍へと配属され軍艦に乗っていると便りが来た。末っ子は陸軍で離島へと向かったと知らされた。




戦況は日増しに悪くなる。

田舎でも空襲はあったし、疎開で東京や埼玉から来た人も多かったそうだ。


畑の物を盗まれるのは日常茶飯事で、時には納屋の中に隠していた南瓜や芋も盗られた。しかし生きる為だから仕方ないと目を瞑った。



時折ラジオを聴きに村長の家まで子供達と向かう。


秋の事だった。

その日は村長の家から沢山の銀杏と渋柿をカゴいっぱいに貰って帰った日だった。


家の前には国民服の男性が立っていた。



「お知らせです。おめでとうございました」


そう言って手渡されたのは1枚の葉書で、内容は愛さんのすぐ下の弟の死を知らせる物だった。


「ありがとうございます」

と震える声で返し、家に入ってから夫の無事を拳が白くなるほど握って祈った。


知らせを受けた姑は小さくなっていたそうだ…



その後届いた遺品は木箱の中に遺書が一通だった。

詳細としてグアム近郊の海域で戦死したとの事だった。遺書は航海前に書かれたものだった。

富美子はそれを姑に目を通さずに渡した。



夫の便りはまだ無い。

そして冬を超えて春。


また国民服の男が家の前に立ったいた。


「おめでとうございました」


「ありがとうございます」


震える手で受け取ったのは夫、愛の戦死の知らせだった。

この日が来てしまったと、知らせの男が去った後只々泣いたそうだ。

そうしたら小姑に見つかり、手にした知らせを見られてから折檻を受けた。



万に一つも他の家に見られたら事だというので小姑は折檻したのだろう。

当時は戦死は誉れ。喜ぶべき事であって悲しむものではなかった。

悲しむのは家の中だけで表にでれば名誉だ誉れだと喜んで見せなければならなかった…



人の道理など無い時代だった。




遺品は届かない。戦況の悪化なのか、はたまた沈没して海の藻屑となった人の遺品など探す余裕など無いのか…


その時に富美子は思ったそうだ。


「せめてあの人の骨の一片でも有れば、私はそれを飲み込んででも愛さんとまた一つになりたい」


その思いは叶うことはなかった。

その後に届いたのは木箱に「新妻愛」と書かれた木札だったそうだ。


富美子はそれを燃やして灰にした。その灰の中にあった小さな木の燃え滓を静かに噛み砕いて嚥下した。

それを骨の代わりとしたのだろう。


初めてこの話を聞いた時、私は意味が分からなかった。なんで炭なんか食べたのか、なんで骨なんか食べたいのかわからなかった。


幼心になんだか怖いなくらいにしか思って居なかった。



大人になり思い出すと、そこには壮大な愛があった。言いようのない悲しみと愛がそこにはあったのだと思う。



灰は先祖代々の墓に入れた。



知らせのあった夏、日本は敗戦した。


しばらくして1番下の弟が帰ってきた。

それと時を違わず、小姑の旦那も帰ってきた。



富美子は子供達と共に家を追い出された。


曰く、「跡取りの長男は戦死した。その嫁は出て行くのが礼儀だ。

幸い長女の自分の旦那は帰ってきた。従兄弟達の中でも自分の子供が1番大きい。

だから、この家を取るのは自分たち」と宣った。



呆然とする富美子に手を差し伸べたのは帰ってきたばかりの義弟の英だった。


「義姉さん達を追い出すんなら俺も出て行く。こんな家勝手にしろ」


と言ってその日のうちに隣の村の開墾地を買ってきた。次の日には近くの物置小屋を借りて馬と荷車を借りて来て引越したそうだ。



祖父はこの頃のことは話したがらないが私が曽祖父だと思っていたひいじいちゃんには感謝していた。尊敬もしていたし、本当の父の様に思っていたのだと思う。



その後は開拓開墾をしながらひいじいちゃんは農林関係の仕事を始めた。

家族総出で開拓を進めた。いつしか富美子と英の間には6人の子宝に恵まれた。






時は流れ私が小学生の頃に曽祖父、新妻英は亡くなった。


50歳で脳梗塞で倒れてから実に30年近く寝たきりだった。最後まで富美子は英に寄り添っていたが曽祖父の最後を看取る事は出来なかった。


祖父母が死期の近づいた曽祖父を見せたがらなかった。

臨終の間際、私は何故か父と祖父と曽祖父の病室の前にいた。


いつもは穏やかな曽祖父が痛みに獣のような声をあげて叫んでいた。しばらくそれが続くと顎が外れてしまったようで、医者が来て外れた顎を治そうとしたがこのままでは舌を噛んでしまうと、断念した。


そのまま雄叫びの様な音をしばし叫んだ後に曽祖父の部屋からは「ピーーーーーー」という機械音が聞こえ、その後に音は無くなった。




彼女は家で静かに曽祖父が帰ってくるのを待っていた。


「愛さんもじいちゃんみたいにしてあげれたら良かったのにね。じいちゃん、お帰り」


そう言って床間の前に北枕で寝かされる曽祖父を撫でた。

外れた顎は結局戻す事が出来なかった様で包帯を顔を包む様に巻いていた。


「ひいじいちゃん、痛そうだね」

私が言えばひいばあちゃんは首を振った


「じいちゃんは痛くないよ。無事に五体満足で帰って来れて幸せだね」


人の死の何が幸せなのか幼い私には分からなかった。


やはり今ならわかる。天命を全うし、帰るべき家に帰って来れる幸せを…



葬儀の後骨壷に曽祖父の骨は入りきらなかった。

私の地元では骨は全て拾って収骨されるのだが、やはり愛さんの弟だけあって英さんも世代の割にがっしりとした人だった。


特に寝たきりで固まってしまった大腿骨が大きく骨壷に入りきらない。仕方なく砕く事になったのだがその時になって初めて曽祖母は涙を流した。


声もなくただポロリと…




それは2人の夫に先立たれた女の涙だった。

その時、きっと曽祖母の中の愛さんも一緒に骨になったのだろう…




私は曽祖母の愛をその時にみた。

締め付けられるような切なさを感じたが幼くてそれが何かなど当時は分からなかった。



ただ大好きだった曽祖父の死が悲しくて自分の感情でいっぱいだったのもあるだろう。



その数年後に曽祖母も病に倒れ亡くなった。

初夏に食欲を無くしてあっという間だった。


年の割に若々しかったのが災いした。膵臓癌で見つかった時には末期だった。


その年の盆前に葬儀は行われた。

曽祖父の時とは違って、とても小さな骨だった。





更に二十数年だった今、私も最愛の夫の骨をいつか取り込みたいと思う日が来るのだろうか…


いや私の方が先に行くだろうと夢見つつ、今は子の寝顔を愛しむ。





私は曽祖母の愛を知る数少ないひ孫なのかも知れない。


多分語る者は居ない1人の愛を今はここに記す。

こんな愛もあったのだと。


今書いている物語でどうしてあんなストーリーになったのか自問していたら思い出した。


きっと私は愛する人の一部を取り込む事も愛の一部だと感じたんだろうなと…



なんか考えてたら思い出を書いてみたくなり書いてみました。

多分覚書で時系列も事実とは異なるのかも知れないけれど…想像も過分に含まれます。


多分、曽祖母は幸せだったと思いたいな…

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― 新着の感想 ―
はじめまして、通りすがりの読専でございます。 身内の方にとっては淡々とした実話の羅列なのでしょうが、初めてそれを客観的に知る我々にとっては著者様の筆力もあり素晴らしい作品としか言いようがなく。 私の祖…
素敵なお話をありがとうございます。 憶えているのは、記憶だけでなく感覚とか手触り物事に対する接し方(愛し方)なのですね。 時代(戦争、家族制度)などにを振り回されながらも真白さまに繋がる人生を全うされ…
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