終章 4
バッグに飲み物とタオルを入れギターを持ち玄関へ向かう。
三和土にある靴へ足を入れていると葉月が料理を中断し追いかけてきた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「どこに行くの?」
「海に行ってくるよ」
「いつもの海?」
「そう」
「毎年、お盆と今日だけは必ず帰ってくるよね」
「まあ……色々あるんだよ」
立ち上がりバッグとギターを持つ。
「いってらっしゃい」
「うん。な、葉月」
「なーに?」
「部屋のエアコン、ありがとう」
「うん」
扉の取手に指をかけると夏場であるのに少しばかりヒンヤリとした。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なに?」
「うん……」
「ん?」
「ううん。やっぱり……いいや」
夕方を迎えようとしている外は夏の暑さを保ち蝉が笑う。
僕はいつからか笑えなくなっていた。
*
眼前に広がる海。
波は大きく口を明け僕へ向かってくるが届かないものは……どうしても届かない。
さらに大きくなれば到達することもあるだろう。
白波が生まれては次々と消えていく。
砂浜の土手に腰を下ろすと目の前には小さく光るガラスがあって指先で拾い上げる。
透明なシーグラスだ。
結衣さんは今でも茜音さんとの思い出の品を大切にしている。
隣りにあるアコースティックギターのように。
僕は茜音さんに出会って一つの考えを明確にした。
人の痛みを少しでも減らしたい。
涙を流す人を一人でも減らしたい。
それには力が必要だった。権力だ。社会の上に行く必要があった。
少しでも変えようと今の場所で行動しているが自身の無力さを痛感する。
現実と理想の乖離。そして他者からの容赦ない攻撃に疲弊していた。
多勢に無勢だった。
誰にも話せない。内に秘めた想いを話せなかった。
周りの人たちを信用していないわけではない。
父、母、葉月。結衣さん、胡桃、ソムさん。
ミンミさん、平良さん、清原さん、久保さん。一応……凪咲も。
あの青かった時に出会った人々。話せば親身になってくれるだろう。
みんな優しい人たちだ。それでも僕は話せなかった。
自身の弱さを曝け出すことが怖いわけではない。
誰かに肯定してほしいわけでもない。
自身の決めた道。揺らぐことが怖かった。
一人で背負い込むことで心の均衡を保っていた。
いつでも彼女の笑顔が頭に浮かぶ。
あの時、一緒に夏を過ごしていた女性を。
和泉茜音さん。
彼女の笑顔が頭の中に溢れる。
十年前、二人の男性の発言は的を射ていた。
大学生風の男性が言った「権力は腐敗する」
平良さんが言った「権力は腐敗している」
どちらも正しかった。
改善することは容易ではない。そこに身を置く前から理解していた。
それでも戦っていくことを選んだ。
改革しなければ何も変わらない。
そして……一つの現実を目の当たりにした。
一度腐った物は元に戻らない、ということだ。わざわざ触ろうとしないことも普通だ。
好き好んで触れる者はいない。見て見ぬ振りをしていた方が楽だ。
球体の果物は指先で押せば転がる。
しかし、腐った果物は転がらない。
まるで根を張ったようにベチャッと居座る。
諦めにも似た感情が芽生えていた。
僕の考えに賛同してくれる者はいた。共に戦う中で疲弊し離れる者もいたし、
権力に抱き込まれ敵に寝返った者たちもいる。
そして……大学で出会い、志同じく、誰よりも共に戦ってくれた友人。
彼は鬼籍に入ってしまった。
正面から吹きつける潮風が身体を抜けていく。
バッグから道中で購入した飲料を二本取り出す。
一本は開栓し砂浜を掘って立たせる。
もう一本のスクリューキャップを捻り、飲み口同士を軽く触れ合わせた。
コン、と軽い音だけが聞こえる。
微炭酸は喉を柔らかく刺激した。
口内には桃の甘い味、爽やかな香りが鼻腔から抜けていく。
今の僕を見たら茜音さんは何と言ってくれるだろうか。
隣に置いたギターケースの留め具をパチリ、パチリと外していく。
今でもギターを弾くことは変わらずに好きだ。ポロポロと夏の海へ音を走らせていく。
コードを軽く鳴らし、そこに乗る旋律を奏でていた時だった。
「お兄ちゃん……!」
水色のワンピースで黒い日傘を差す葉月が駆け寄ってきた。
「もう……早いよ。あの後、すぐに追いかけていったのに……!」
と、口を尖らせ、少しばかり汗を流している。
「まあ、歩くのは速いほうだから」
葉月は白い腕にかけていた紙袋を漁っている。
母と結衣さんが営むパン屋のロゴが入っていた。
「なに? パン?」
「違うよ」
僕の目の前に差し出されたのはモモダーだ。
いや……正確には薄桃色の空き瓶だった。
「なに、これ」
と、受け取った後で瓶をくるりと回す。
ラベルの後方が露わになり中には液体ではなく紙が入っていた。
「覚えてる? 私が中三の頃、お父さんがお兄ちゃんを殴った日のこと」
「ああ、覚えてるよ」
自身の弱さのあまり葉月に酷い言葉を吐いた日だ。
「次の日から私は葉月会があったんだよ」
中学卒業と共に葉月会は葉月會と漢字が変わっている。
そして葉月を頭とした組織は凪咲という強力なメンバーが復帰し、
高校生活の多方面において活動的であった。
「あの時さ、行くかどうか迷ったんだけど、みんなと約束したからなーって。
葉月会が終わって、なぎちゃんと話して。
その後にお兄ちゃんと海で話したの覚えてる?」
「ああ、覚えてる。凪咲がその夜に襲撃したことも」
「そうそう。お兄ちゃんと家に帰って、さ。
そしたら部屋の中に、そのモモダーが置かれてたの」
「どうして……僕に?」
葉月は紙袋の中を再度手で漁り畳まれた白い紙を取り出し見せる。
「この手紙が隣に置いてあったから」
空き瓶を砂浜へ一旦置いて受け取った。
そこに並ぶ文字。
音楽理論を教えてくれた時の文字。
それぞれの歌詞を書き出した時に見た文字。
茜音さんの字だった。
指先で紙を掴み、目で彼女の字を追い、脳内で再生していく。
『初めまして。茜音といいます。突然の手紙で驚かせてしまい申し訳ございません。
この手紙は葉月ちゃんに向けて書いています。
勝手に部屋に入り手紙を残すことをお許しください。
葉月ちゃんは私のことを知らないと思いますが、あなたにお願いしたいことがあります。
隣に置いてあるボトルメールを朝陽くんへ渡してほしいのです。
朝陽くんが寂しそうにしている時や苦しそうにしている時に渡してほしいのです。
渡すタイミングは葉月ちゃんにお任せします。
朝陽くんが人生を楽しく歩んでいるのであれば渡さないでください。
元気がなくて……泣いている時が、もし……あったなら渡してください。
勝手なお願いとは承知していますが、どうかよろしくお願いいたします』
僕は声を出せず紙と指の腹は微かに擦れる。
「十年前さ、お兄ちゃんと仲直りできて、しばらく経ってからかなー。
二人で歩いている時に私、言ったよ――」
耳に届く葉月の声は当時の文言に似ていた。
――私も……変なことっていうか……不思議なことあったよ。
――教えない。今は……教えない。
――いつかわかるから、それまでずっと気にしてればいいよ……!
「ね、思い出した? 忘れないで、ずーっと温めてたんだから」
「ああ……思い出した。秘密にしておかなきゃ……いけないことだって言ってた」
「誰なの、茜音さんって」
「葉月……悪いんだけど……一人にしてくれないかな」
「え……うん、わかった」
日傘をくるくると回した葉月は眉を下げ微笑む。
「じゃあ、おばあちゃんのところに行ってくるね」
彼女の言うお婆さんとは現在も商店を営む老人だ。
僕たちを幼い頃から見守ってくれている。
茜音さんは彼女から貰った生のとうもろこしを土手でおいしそうに食べていた。
十年前に出会ったお婆さんの顔も浮かぶ。
とても優しい人だった。戦争で恋人を亡くし何十年も相手のことを想っていた。
自力で墓参りに行くことが困難となり今年で最後になる、と言っていたが、
僕が毎年連れて行くと約束した。
その約束は彼女が亡くなるまで続けることができた。
最後まで……ワッペンを肌見放さず持っていた。
砂浜に置いたモモダーの空き瓶を手に取る。
――ボトルメール……。
十年前、この砂浜で見つけた物だ。
あの時と同様に空き瓶の中で紙が広がり取り出せそうもない。
飲料の雫からバッグを守るために入れていた袋を取り出す。
中に空き瓶を入れ近くにあった大きめの石で割る。
力など必要なく瓶は音を立て砕けた。
袋の中から数枚の白い紙を取り出し細かいガラス片を手で払い落とす。
そこには……やはり茜音さんの文字が並んでいた。
『親愛なる朝陽くんへ。
お久しぶりです! 二人が出会った頃に海で見たボトルメールに影響されました!
本当は海に流して、いつか朝陽くんの手元に届いたら、
すごくロマンチックだと思ったのですが……。
朝陽くんはボトルメールを海に流したら環境汚染って言うと思います。
だから、この手紙は葉月ちゃんに託しました』
――確かに言います。でも、それはボトルメールじゃないでしょう。
『はい、それはボトルメールじゃないとか言わない』
――僕の思考は十年前に読まれていたか。
『なにから話しましょうか……。あ、そう、そう。
どうやってボトルメールを葉月ちゃんに託したか、あなたは疑問に思いましたね。
私は朝陽くんに嘘をついていました。
ギターから二、三メートルぐらいしか動けないのは嘘ですよ。
本当は自由に動けます……!
朝陽くんが寝た後に試したことがあります。どこまでも歩けました』
――嘘……だったのか。いつも重いギターケースを持っていたのに。嘘つき……。
『はい、嘘つきな女とか言わない。女心をわかっていない証拠です。
ちゃんと学びましょう、弟子よ』
ようやく長年の疑問が解決した。
海で結衣さんを助けた時、土手にギターがあるのに波打ち際で手を上げていた。
思い返せば部屋で行動範囲の確認をした時の様子もおかしかった。
葉月の証言と僕の記憶から推測するにボトルメールを置いたのは十年前の今日。
朝目覚めると彼女が部屋からいなくなっていて廊下で寝ていた、と言っていた時だ。
『朝陽くんと一緒にいたかったから嘘ついたの。
初めにそういう設定にしといてよかった、って一緒に過ごす中で改めて思いました。
平日は学校に行っているし、休日は二日の内一日はアルバイトに行っているし。
夏休みもアルバイトに行っていましたね。
だから、それ以外の時間は隣にいたいと思うことは悪ですか?
それを嘘つきっていいますか? それって悪いことですか?』
――開き直らないでくださいよ。
『開き直って、なにが悪いんですか?』
――十年も前から思考を読まないでください。
『一緒にいたかったんだもん』




