終章 3
「なーんか……陰気な顔してるね」
そうだ。僕は変わったのかもしれない。
物事はすべて変遷するものだ。変わらないことはない。
それでもソムさんの笑顔のように変わらないものもあった。
おそらく真っ直ぐに持っていた芯は大樹から鉛筆ほどに減っている。
ガリガリと目の荒いヤスリで削られていっているのかもしれない。
両の手で曲げれば簡単に折れてしまう。
「日本で一番の大学出て、人のために、って言ってた奴がそんな顔するのかー。
所詮、学力と信念だけじゃ無理なんだよ。あっちゃんは、そこんとこをわかってない」
そうだ。現実は甘くない。甘くなかった。
最初から理解していた。理解していたつもりだった。
チリチリに熱せられたアスファルトを見ていると胸ぐらを掴まれた。
「もっと自分のこと……考えたほうがいいんじゃない」
「…………」
「そんなの辞めて、こっちに帰ってきたら? うちで面倒みてあげるよ。
あっちゃんだったら正社員として迎えてあげる。月収十万で、どう?」
「…………。少なすぎるだろ、どんな会社だよ。
そこから所得税や社会保険が引かれるんだから」
「黙れ、私の会社は黒じゃない、漆黒なんだよ」
「漆黒って……。他の社員も同じ給料なのか?」
「ううん、みんなには手厚く払ってる。みんながんばってくれるからね。
当然だよ。みんなで作った金は、ちゃんと配らないと。
私は必要な分だけあればいい。みんなは家族を幸せにできる金を手にする」
「凪咲……まともになったんだな。多くの経営者がそうあってほしいよ」
「黙れ、私は最初からまともだ。
――別に……さ、あっちゃんがそんなにやらなくたっていいじゃん」
目を伏せた彼女は小さく続ける。
「あっちゃんの今の姿……見てられない。昔から一緒にいたからわかる」
「――たんだよ」
「え? なに? 聞こえない」
「決めたんだよ。約束……したんだよ」
「なにを?」
「少しでも……変えていくって。一人でも変えていく……って」
「誰に?」
高校を卒業し都会へ向かう前に茜音さんの墓前で誓った。
一人でも泣く人が減る世の中にしていく、と。
茜音さんの意志を継いでいくから安心してください、と。
「誰でも……ないよ」
「なにそれ」
彼女の手を掴み空中へ戻す。
「明日の昼、あっちゃんの家でバーベキューやるからね。
明日の夜までいるって聞いてる」
「ああ、明日の夜まではいるよ」
「あー、肉も海鮮も楽しみだなー。酒も飲み放題だし。
あっちゃんとスイカ割り、かき氷早食いするのも楽しみ」
「スイカ割りって……子どもじゃないんだから」
「はあ? いつでも子どもの心を大切にしてんの。
ソムの子ども、社員の子ども呼ぶから、それで万事解決」
「それは解決じゃないんだよ。子どもたちから奪い取らずに譲ってあげろよ。
――じゃあ、もう行くよ」
エアコンの名残がなくなってしまった自動車へ乗り込む。
凪咲にガラスウィンドウを二回叩かれ、エンジンを始動させ下へスライドさせる。
「あっちゃん。あっちゃんが困ってるなら、いつでも特攻してやるからね。
はっちゃんとあっちゃんのためなら私が特攻してあげる。
助けてほしかったら、いつでも言えよ」
彼女は十年前の夏、葉月に自身の置かれている状況を話した後で報復へと向かった。
イジメてくる相手の各家に繋がる電線を切断し事に及んだ。
そこにいる家族を縛り上げ、イジメた人物へ謝罪を求めると共に恐怖と絶望を与えた。
警察などに駆け込まれないよう、さんざん脅迫したようだ。
イジメた側の者の中には失禁する者もあれば嘔吐を繰り返した者もいる。
それは新たな腐敗爆弾を製造し戦ったから当然の結果だ。
虎の尾を踏む。
イジメた側は理解したはずだ。
この世には触れてはいけない人物がいる。
触れなければ大事にならなかったもの。
法にも権力にも脅かされることのない人物。
彼女の根底は今も変わっていなかった。
*
自宅の上がり框に座り靴を脱いでいた。
「わっ……!」
突然の声と共に肩を叩かれる。ビクッと身体は驚き荒れた鼓動と共に振り返った。
「おかえり……!」
「葉月……。いたのか。誰もいないのかと思ってた」
そうであるから自ら鍵を解錠し自宅の扉を開けた。
「うん、夜勤明け。お母さんはパン屋で、お父さんも仕事だよ」
「そう……」
久しぶりの妹の顔だ。
お盆に地元へ来た時は墓参りをして母の営むパン屋に顔を出しただけだ。
「もう……! お兄ちゃん! もっと帰ってきてよ……!」
「色々……あるんだよ」
靴を揃え荷物を手にする。
「お母さんもお父さんも寂しがってるよ……!
お兄ちゃんには言わないかもしれないけど!
お父さん、お兄ちゃんとお酒飲みたいって!
だから、毎日、毎日、なぎちゃんと飲んでるんだよ……!」
「ああ……わかってるよ。なるべく顔を見せるようにするよ」
僕が手を伸ばすより先に彼女の視線は一点を見つめた。壁に立てかけた黒いケース。
「今日もギター持ってきたんだ。
いつも持ってるからミュージシャンよりミュージシャンだよね」
白い花の模様が施されたギターケース。
茜音さんのアコースティックギター。
「高校生の頃から大切にしてるもんね」
「まあ……ね」
左手に旅行カバン、右手にギターケースを持ち廊下を進んでいく。
「お兄ちゃん……」
「ん?」
振り返ると葉月は外からの明かりが入る床板を見つめていた。
「ううん……なんでもない」
二階へ上がり自室の扉のレバーハンドルを軽く握る。
地元を離れ都会で暮らす。実家へ帰った時は毎回想像してしまう。
この先の空間は普段と変わっていてほしい、と。
あの夏の日から……いつも願っていたかもしれない。
カチャリと音を立てた扉の隙間から中を覗く。
変わっていない。昔から変わっていない。部屋の中は変わっていない。
だからこそ、考えてしまう。
扉を開ければ一つの綺麗な声がすることを。
『おかえりー』
あの頃、共に過ごす毎日で欠かさずに言ってくれた優しい彼女の声は聞こえない。
荷物を床に置きベッドへ横たわる。隣から声が聞こえてきてほしい。
『今日は、どんな一日だったの? 師匠に話してみなさい』
部屋は夏の脅威に侵されてはいなかった。
冷気が室内を循環しているのは、葉月が予めエアコンを稼働してくれたのだろう。
相変わらず優しい妹だ、と腕で顔を隠す。
しばらくしてから身体を返しブラウンのシーツの上でうつ伏せになる。
茜音さんがいなくなっても彼女の優しい香りはベッドに残っていた。
それが時を経て薄まっていく。だんだんと確実に消えていった。
今、彼女の香りは一つもしない。
扉がノックされ麦茶とアイスを並べた盆を手に持つ葉月が顔を見せる。
二人でアイスを咀嚼し彼女は仕事の話をしてくれた。
「でねー、味付けに文句言ってくるの……! その人が!
勝手に味見して『きみの味は利用者に人気あっても俺の口には合わない』とか。
意味不明じゃない!? 別にあなたのために作ってないのに……!
もう……ムカつくー!」
「かまってほしいんじゃないか、葉月に」
「なにそれー、小学生じゃないんだから……! 本当に私は嫌いなの……!
髪の毛もチリチリだし……! なんかいつも脇の匂いを嗅いでるの!
お土産を買っていけば、いちいちセンスの非難してくるんだよ!?」
「いるよ、そういう人。なんでも優位に立とうとするんだ、自分に自信がないから。
そういう人なんだって諦めたほうが精神衛生にはいいよ」
「でも……! でもね……! 許せないの……!
顔を思い出しただけでムカつくの……!」
葉月は話に夢中だ。溶けてきたカップアイスは強く握られヌルっと顔を出す。
怒りに満ちていた瞳は急に僕の様子を窺うように変わった。
「お兄ちゃんは……どうなの?」
「ん?」
「仕事……大変?」
「…………。まあ……大変かな」
「大丈夫? 疲れてる……顔してるよ」
「なんの仕事をしていても……誰だって大変だよ、仕事は」
「でも……お兄ちゃん……一人で抱えてないほうが……いいと思う」
アイスの表面をスプーンで抉ったところで見た目は変わっても色は変わらない。
「僕の話は……いいよ。葉月は、その人のこと好きなの?」
「はっ……はあー!? 今の話聞いてたの!?
その人、お風呂だって一週間に二回しか入らないって言ってたよ……!
だから、髪の毛チリチリなんじゃないの!」
「もしかして、その人って……。
この前、電話で話してくれた凪咲とケンカした人と同一人物?」
「そう、そうだよ! なぎちゃんと焼肉に行ったらいたの!
その人が一人焼肉してたの……!」
その人物は葉月と凪咲の席に勝手に座り肉の焼き方の指導を始めたようだ。
「最初はね、なぎちゃんも黙って聞いてたの。
でね、なぎちゃん、だんだんイライラしたのか、
『肉は焼いても生でもうまいよ』って。生でホルモンを食べ始めたの!」
モモダーを共有しなくてよかった、と改めて感じる。
「その人が『きみたちのような女子は大和撫子ではない。
きみたちは外見だけの俗物だ』って言ったんだよ。
そうしたら、なぎちゃんとケンカ。
もう……止めるの大変だったんだよー。あっ、もちろん、なぎちゃんをね。
チリチリの髪の毛を毟り取るんだもん」
「凪咲に……よく言っておいてくれよ」
「なにを?」
「執行猶予中なんだから派手なことするな、って。
凪咲は深く理解していないんだよ。
凪咲がいなくなると……悲しむ人がいるってことを」
「んー、つまり、お兄ちゃんが?」
首を傾げ上目遣いで見てくる顔は子どもの頃のようだった。
「僕じゃない。葉月や母さん、父さん。その他の町の人もそうだろ。
悪童の凪咲は……この町の英雄になったんだから」
彼女は高校卒業と共に「凪が咲く」という会社を立ち上げた。
草刈り、遺品整理、ゴミの片付け、空き家の解体。
農業、漁業、林業の手伝いなどをしている。
市や学校が行うイベントなどにも対応していた。
顧客からの急な依頼も直ちに動けることが魅力のようだ。
特殊な業務では探偵のようなこともしている。
そして無償で行う地元の治安維持。この治安維持が執行猶予の原因だ。
太陽が一番照りつける時刻は過ぎていた。
葉月は夕飯の準備をすると言い部屋から出て行く。
ちらほらと蜩の鳴き声が外から聞こえベッドから身体を起こす。
あの年から実施していることがあった。
みんなで集まり最後の楽曲を演奏する以外に僕がしていることだ。
階下へ下りてキッチンへ向かう。
葉月が野菜を切るリズムの良い音が流れていた。
「飲み物もらってくよ」
「うん。あっ、お兄ちゃん。今日の夜、食べたい物ある?
もう作ってるけどリクエストあるなら」
「ごめん。今日はソムさんのところで、ごちそうになるんだ。胡桃も一緒に」
「えー! そうなの!? 唐揚げ作るのに……!」
――茜音さんも好きだった唐揚げ……か。




