夏の宴 18
「明確には決まっていません。
ただ……自分がしたいことは漠然とですが、あります」
『なに?』
「言いません」
『なんで!』
と、白い肌の頬を膨らませる。
「簡単に口にすること……よくないと思っています」
『私には教えてよ……!』
「夢とか、願いとか。簡単に口にできません。
それが叶うとか叶わないとかじゃないんです。
人に否定されることが怖いわけでもありません」
『じゃあ、どうして?』
「口に出すことで軽くなる気がするんです。
言うことで自身を鼓舞することもあると思います。
その反面、他人からの一定の反応を求めている。
肯定してほしい、応援してほしい。僕はそのようなことは望みません。
――自分の中でしっかりと考えて行動したいんです」
茜音さんは目を丸くした後で微笑んだ。
『ふふ、朝陽くんらしい。好きだよ、そういうところ。
わかった、もう聞かないけど……私は朝陽くんが行く道を応援するからね。
いっぱい悩んで進む道を選んで。違ってたら別の道を選べばいいよ』
上腕を指で刺され『モモダー飲みたい』と言われる。
道中の自動販売機で二本の薄桃色の飲料を購入していた。
『乾杯しようよ。二人の夏の思い出に』
二つの瓶が衝突すると軽やかでありながら少し鈍い音が鳴った。
『おいしいー! やっぱり夏はモモダーだね!』
「いつも言っていますよね。それ、今年のモモダーを初めて飲んだ人の台詞ですよ」
『いいの……! モモダーは、いつ飲んでも夏の初恋の味がするんだから!』
「その発言は初めて聞きました」
続けて飲んだ茜音さんは鼻から香りを抜き幸せそうにしている。
『ね、結衣ちゃんのことだけどさ。
困ってたら助けてあげて。倒れそうになってたら支えてあげてね』
「まあ……はい。できることがあるなら」
彼女は砂浜を手で掘りモモダーが倒れないように刺した。
その後で立ち上がり一歩、二歩と進む。
『もう……指示できないからさ』
「え……?」
『朝陽くんは言わなくても動いてくれるけどね』
「ちょっと……待ってくださいよ。指示できないって、どういう意味ですか?」
胸の辺りからドクっと重い音が鳴る。予想する言葉を耳に入れることが怖い。
『私には……もう時間がないみたい。感覚でわかる』
「それって……」
彼女は背を向けたまま答えた。
『うん。私は……いなくなる』
聞きたくなかった。その美しい声から一番聞きたくなかった言葉だ。
『ね、朝陽くん。音楽ってさ……人の生き方に似てるって思わない?』
僕の動揺を気にすることなく、後ろで手を組んだ彼女は話を続ける。
『和音は……たった一つの音で変わる。
一つの音が半音下がるだけで物悲しい響きにもなるでしょ。
そこから半音前に進めば明るい音がする。
苦しくて落ち込んだり。楽しいことで前向きになれたりすることと同じ。
テンションノートを加えるとキラキラする。ディミィニッシュとかは不安定になる。
新しい人との出会いで人生に彩りが加わる。
嫌な人、苦手な人になにかを言われて不安になったり悲しくなったり。
ね、人生に似てるでしょ?
――全部、必要なことだよ。楽しいことも、苦しいことも全部、必要。
それがあるから人生なんだよ』
彼女は振り返ってくれない。
『私は多分……幽霊で。未練があって現れた、っていう感じなんだよね』
そう、それは仮定の話だった。
幽霊、成仏。すべて仮定の話だ。
『結衣ちゃんやみんなに届けたかった音楽。困っている人や泣いている人を助けたい。
それに協力してくれた朝陽くん。
――私はギターに触ることができなかったから、一緒に曲を作ろうってことになったよね』
「はい……」
『最初は作曲だけだった。どうして歌詞を一緒に書こうって言ったかわかる?』
「いえ……」
彼女は振り向いてくれない。
その背中を見ていると彼女の存在が薄くなってきているように感じる。
僅かにピントの合わない写真のように。明瞭と不明瞭を繰り返すように。
『私は歌詞をすごく大事にしている。
楽曲提供を受けたのは久保さんの一曲だけ。その時も歌詞は私が書いたよ。
私の作る曲、作曲もそうだけど……さ、歌詞は人に触れさせたくない』
「それなら……どうしてですか?」
『朝陽くんは色々なことを考えて、人のことを想っていたから。
私には……わかってたよ、内に秘めた想いが。
だから、朝陽くんとなら歌詞を合作できると思った。一緒に作ってみたかった。
――私の音楽と想いを理解して作ってくれると思ったの』
波の音は緩やかに夏の終わりを導こうとしている。
まだ終わってほしくないし、眼前にいる人にいなくなってほしくない。
砂を右手で強く掴んでも握れるのは僅かな量だけだ。
ほとんどは無力感と共に逃げていってしまう。
『朝陽くんは多くの人から心をもらっている。
周りにいる大切な人たち。今まで会ってきた人たち。
みんな朝陽くんという人を形成するのに必要だったんだよ。
それはこれからも続く。色々な人との出会いで朝陽くんは成長していくよ』
――その中の一番は……あなた、だ。
『がんばってね。師匠は……いつだって……いつだって応援してるよ。
泣きたい時は……いっぱい泣いていいんだよ。笑う時もいっぱい笑っていいんだよ』
彼女の声は震えている。頸椎の動作と連動し鼻を啜り上げる音も聞こえた。
『あ、それと……葉月ちゃんに、ちゃんと思ってること話すんだよ』
「…………。言いにくいっていうか……」
『だーめ。これは師匠から弟子への命令だからね。
ちゃんと本心で話さないとダメだよ』
「わかり……ました」
『ここで……お別れだね』
彼女は振り返った。
きれいな目から涙が溢れている。
一歩、二歩と近付いてきた。
目の前には細く白い腕が伸びる。
差し出された手。彼女の手のひらは僕の手のひらを待っていた。
『約束、守ってくれて……ありがとう。これで成仏完了、だね』
右手は湿度の高い空気を強く握りしめる。
彼女の柔らかい皮膚に触れることを拒絶した。
『最後に……握手しようよ。最初に会った時……ギターから出る時も握ってくれたよね』
「嫌……です」
『え……』
「嫌です……握手なんてしたくありません」
彼女の顔は見れなかった。打ち寄せる波の音と潮の香りだけが支配する。
『朝陽くん……』
「握手なんて……しませんよ」
『朝陽くん、あまり強い言葉を――』
「弱いんです……」
彼女が好んでいた漫画の台詞に対し明確な言葉を続けるのは初めてだ。
「弱いんです。僕は……弱いんです。
強がってる……だけです。虚勢を張っているだけなんです」
『朝陽くん……』
「どうして……急に現れて……急にいなくなるなんて言うんですか……」
『うん……ごめん、ね。でも、これからも大丈夫だよ。
私が作った音楽がある。私は、いつでも、いつだって……そこにいるよ。
少しだけ……さ、思い出して聴いてくれたら嬉しい。
朝陽くんの人生の中で時々、思い出してくれたら嬉しい』
身体の中心から重いものが込み上げてくる。
手をかけ、足をかけ、這い上がろうとしていた。
それはとても痛くて……鋭利な棘が付いている。
「成仏しなくて……いいじゃないですか。このままでいいじゃないですか……」
『こーら。未来ある青年。幽霊といつまでも一緒にいたらダメだよ。私は過去の人。
朝陽くんには未来……これからを生きてほしい。
生きている人と共に、これからを生きて、ね。
――成仏させるって約束したでしょ?』
僕は視線を上げる。
茜音さんはいつでも真っ直ぐな瞳を向けてくれた。
大粒の涙が彼女の頬を伝い喉元へ流れている。
止まることなく次々と溢れていた。
僕は彼女の涙を止める術を今も知らない。
『これは……師匠からの最後の命令です』
「僕は……茜音さん……」
言いたいことがたくさんある。今まで言えなかったことがある。
それは物事に対する意見や思想ではなく彼女に対しての言葉だ。
茜音さんへ伝えたいのに言葉にならない。
いつも胸の辺りをゆらゆらと漂う淡く切ない言葉だ。
『朝陽くん、気付いてる? それとも……無意識だったのかも』
唐突で曖昧な発言に戸惑う。
『朝陽くんは一度も心っていう言葉を使わなかった。
私と話している時に一回も使わなかったよ。
別の言葉に言い換えて表現してた。きっと自分の中で抑え込んでいたんだよね。
産んでくれた、ご両親のことで、人助け……人の心を否定するしかなかったんだよね。
でもね……言葉にしなくても、朝陽くんの心はここに確かにあったよ』
指先で優しく身体の中心を触られた。
『今まで……よくがんばりました』
その言葉で目元に集まっていた水分が溢れ出す。
止めようとも止まらず、絶え間ないほどに流れ出す。
頬を伝う涙の中心には悲しみと温かさが住んでいる。
僕は茜音さんの華奢な身体を抱きしめた。
肌から伝わる温かさ。鼻腔を安心させる優しい香り。
胸の奥が安らぎに満たされていく。
『わ……やっと……抱きしめてくれた、ね』
彼女の細腕が背中に回され、お互いの身体と想いが一つになる。
涙に溺れていても、とても……とても心地良かった。
『ごめん……ね。私に……新しい未練があっても……止められないみたい』
涙は止まらない。次々と外へ走っていく。
わかっている。
抱きしめているのに茜音さんの身体が遠ざかっていくような感覚になってきた。
人の手で水を掴むことが不可能なように。火を掴むことができないように。
「茜音さん……茜音さん……」
『うん。わかってる。大丈夫だよ……わかってるから』
離したくないはずなのに、どんどんと離れていくような感覚だ。
『私は……夏が好きだよ。この世で一番好きな季節なの。
一番……ね。これからも変わらないよ。
――わかってる。私も……朝陽くんと同じだよ』
強く抱きしめると彼女も同様に応えてくれる。
彼女は僕の両肩を優しく押しやり少し離れた。
先程のように手を差し出される。
『朝陽くん。いつも一緒にいてくれて嬉しかったよ。
一緒にいてれて、ありがとう』
いつでも真っ直ぐな瞳を向けてくれた。
『抱きしめてくれて、ありがとう』
いつでも温かい声を聞かせてくれた。
『お別れ……しよう』
僕は震える手で茜音さんの手を握った。
『バイバイ』
「はい……あ、ありが……とうございました……」
嗚咽の中で俯き目を閉じると手のひらに伝わる感触と温かさが薄れていく。
どんどんと薄れていく。
目を開けると……茜音さんはいなかった。
眼前の綺麗な海は色を変えている。背後を守る空がそれを与えた。
真っ赤な色をして優しく微笑む、とても……とても美しい夕陽が存在していた。
「茜音さん……待って、ください。まだ、言いたいことが……あるんです。
話したいことが……あるんです……。伝えたい……ことがあるんです。まだ……」
砂浜へ身体を倒し言葉にならない音を繰り返す。
鼻の奥に、つーんと痛みが走り身体の挙動は大きくなる。
いつもの優しい声が返ってくることはなかった。
彼女の優しい笑顔が目の前に現れることはなかった。




