夏の宴 16
「行っちゃいました……ね」
『うん。ありがとう……朝陽くん』
熱を持つ地面に向けた言葉は悲しみを含むけれど温かい。
『みんなに……もう一度会わせてくれて……ありがとう』
「これが……本当のサプライズというものだと思います。
葉月が凪咲を連れてきたことは違います。葉月はサプライズって言っていましたけど」
自宅の玄間を開けると三和土に見慣れない靴が並んでいた。
一つはよく知っている。残りの三足はずいぶんと小さい。
リビングの引き戸を開け、横に首を動かすと食卓に五人の顔が並んでいた。
母、胡桃、三つ子の弟たちだ。
「あーくん……お邪魔してます」
「うん」
と、近付き食器棚へギターを立て掛ける。
「ほら、ちゃんと挨拶して」
「おじゃま、して、まーす!」
明るい三つの声が重なる。
「すぐに用意するね」と、立ち上がる母に「外で食べてきたから」と制止する。
食卓にはメインである揚げ物が多数並んでいた。
とんかつ、メンチカツ、コロッケ、唐揚げ。凪咲が所望した品だ。
真っ直ぐに伸びるエビフライの姿もあった。
「母さん、凪咲は? 午前中に道で会ったから」
「うん、いっぱい食べてくれて、さっき帰ったよ」
「そう」
「ね、なぎちゃん、変なことを言ってたよ」
と、母は小首を傾げる。
三つ子の一人の口元に付いた米粒に気付き指先で取り話を続けた。
「戦死したら骨は拾って、って。
その代わり勝利を手にしたら朝陽のお嫁さんになってあげるって」
「なんでそうなるんだ……相手の気持ちを無視しているところが恐ろしいよ」
「この前……泣いていたじゃない? なにか知ってるの、朝陽は」
三つ子は頬を上げ母の手料理を食している。
「大丈夫だよ、心配いらないよ。二つの意味で。
凪咲は必ず勝つけど、この家に嫁ぐこともない」
母は眉をハの字にしているが、胡桃は事情を知っているから、
少しばかり不安そうな表情が垣間見えた。
「とんかつ、コロッケ……これはなにかなー」
「こら、迷い箸しないの。お行儀よくして」
三つ子の一人に対し胡桃が優しく叱った。
「うん……ねえちゃん、ごめんなさい」
「はい、ちゃんと謝れて偉いよ。怒ってるわけじゃないからね」
会話を聞いていた母は優しい笑みを浮かべ小さく頷いた。
「少し粗いパン粉にしてあるほうがメンチだよ。
ごめんね、わかりやすいようにコロッケは俵型にでもすればよかったね」
母はとても嬉しそうだ。
「朝陽も葉月も同じ年の頃があったなー。
これくらいの時に好きなエビフライをなぎちゃんに取られて泣いてたもんね」
「昔の話だよ。それに凪咲がおかしいんだ。一人で十本以上食べるんだから。
葉月のは取らないのに、僕が皿に取るとすぐに横取りするんだから」
話題の流れで母が胡桃と三つ子の小皿にエビフライを乗せると、
三者三様の動きを見せてくれた。
三つ子はタルタルソース、中濃ソース、醤油。
そして……胡桃は塩をつけた。
「胡桃は塩なの?」
「え? へ、変かな……」
「いや、変じゃないけど、多分珍しいと思う」
「そうなんだ……私、揚げ物って塩で食べることも多いかな」
「手作りのタルタルソースも食べてみてよ」
「うん」
僕は洗面台へ行き手洗いうがいをして、ギターケースを持ち自室へ向かう。
『揚げ物おいしそうだったね。カボチャの煮物、小松菜のサラダ、ナスの煮浸しも』
と、ベッドに腰掛ける茜音さんは言う。
「余るでしょうから後で持ってきますよ」
スマートフォンを光らせ夕焼けの宴で撮った映像を確認するために音を出す。
やはり端末のマイクでは音が鮮明に捕らえきれていない。
しかし、一種の深みがあるような気もした。
明瞭ではない美しさがある。
画面を指先で操作していると、いつの間にか茜音さんの顔が隣にありドキッとした。
『なにしてるの?』
「前後のいらない部分を切り取りしているんです」
『へー』
「これで、みんなに聴いてもらえますよ」
『え?』
「これを動画プラットフォームに投稿します。
知名度がないので、多くの人に届くまで、どれくらい時間を要するかわかりませんけど」
改めて聴き直し、主観を排除しても、素晴らしい楽曲であると思う。
そこに彩りを与え支えてくれたのは一流の演奏者たちだ。
この動画に知名度はなくても確かな自信は存在している。
『みんなに……届くんだね。朝陽くんと私の音楽が』
目を向けると少しばかり寂しそうな表情をしていた。
彼女はタブレット端末を手に取り、お気に入りチャンネルの視聴を始めた。
相変わらず猫の動画を見て身悶えている。
夕焼けの宴の店内が映し出された動画に歌詞を入れていく。
他の作業はいらないと判断し動画プラットフォームへ投稿した。
見つけてもらうまで時間はかかるだろう。
教科書を開いて英文を眺めていると自室の扉をノックする音が聞こえた。
椅子をくるりと回し「どうぞ」と、言うと、扉が緩徐に動き胡桃が立っていた。
「あの……あーくん、ご飯、ご馳走さま」
「うん」
「あーくんのお母さんのご飯、すごくおいしくて、弟たちも喜んでたよ」
「それはよかった」
「うん……」
胡桃は廊下に静かに立っている。
「中に入れば」
「入って……いいの?」
「ダメな理由がないよ。ダメなのは凪咲だけ。勝手に入ってくるけど」
胡桃は微笑み、ゆっくりと入室する。
ベッドの端に置いてあるオレンジ色のクッションをガラステーブルの前に置いて、
そこへ座るように手で示した。
僕も着座すると彼女は部屋の中をぐるりと見渡す。
「きれいな部屋だね」
「ごちゃごちゃしているのは好きじゃないから」
「あの……ごめんね」
言葉の意味がわからず胡桃の顔を見る。
「いきなり来ちゃって……。あーくんのお母さんが食べに来てって言ってくれて」
「謝ることじゃないよ」
「いっぱい作ってくれて……申し訳ないよ」
「大丈夫。凪咲も来るから大量に作ってたんだよ」
凪咲は転校する前まで僕の家で食べることが多かった。
食べる量が尋常ではないから、砂山家の食費が増える、といえばそうではない。
凪咲の親は農業と畜産業を生業にしているから、米、肉類、野菜が大量に自宅へ届く。
彼女の両親も娘と仲良くしてくれることが嬉しいようだ。
「胡桃たちが来た時に凪咲はいたの?」
「うん。弟たちと遊んでくれたよ」
「凪咲……が? そういう一面……あるんだな」
「すごく楽しそうだったよ。弟たちも懐いてた。
――私に『戦うことにしたから』って。大丈夫かな……一人で」
「大丈夫だよ。結果を見るまでもない」
胡桃は眉を下げ艶のある唇を口内に隠す。
「でも……心配だよ。一人で戦うなんて……心配だよ」
「心配なのは相手」
「え?」
「どれほどのことをされるんだろう、って。
そうだな……胡桃も知ってる事件なら、体育教師と一騎討ちのこと」
彼女は頷いた後でクスクスと笑いながら概要を僕に話す。
「そう。それの後日談って知ってる? 普通は知らないと思うけど」
「うん。知らない。なにがあったの?」
体育教師と戦闘した後、興奮状態から戻った凪咲は、
「おっぱい触られた! 股間も触られた! 首も舐められた!」
と、激昂し、教師の自動車をグラインダーで削り取り、酸性の液体をかけて腐食させた。
「ええ……そんなことあったの?」
「そう。その後、すぐに教師の自宅へ乗り込んだ」
カラーコンタクトの入る双眸は広がり口元から出る言葉はなかった。
「これは僕と葉月しか知らない話かな。
家に乗り込んだ凪咲は教師の奥さんに『変態ロリコン教師の女!』とか。
『お前が制服来て相手すればいい! このババア!』とか。
『お前の夫は教育者じゃない! ゴミクズだ! 死んで詫びろ!』とか。
さんざん罵った後で教師が帰ってきて脅迫したんだ。
僕たちも直接見たわけじゃなくて本人から聞いた話だけど」
「きょ、脅迫って?」
「自分にしたことをバラされたくなかったら金を払え、って。
まあ……その前に凪咲の身体を性的な目的で触ったことを認めたらしいけど。
教師もやられて当然のことはしたわけだよ」
それほどの人間がイジメに負けるわけがない。
胡桃と夏休みに起きたことなどを話していた。
一通り話した後で彼女は腹の前に置いた両の手へ視線を変える。
「あーくん……ありがとう」
静かな室内に鼻の啜る音がした。
「昨日ね……あーくんのお父さんとお母さんが……家に来てくれたの。
市の職員さんを連れてきてくれて……お金貰えることになったよ……」
父母はすぐに動いてくれたのか。
「手続きするの……まだ先になるんだけど……。
あーくんのお父さんが生活費……貸してくれたよ」
父は恐らく貸したとは思っていない。以前、言っていたことがある。
金の貸し借りはしない。貸すという行為をするぐらいなら、その人物に分け与える、と。
「あーくんが……助けてって……言ってくれたって……。
頭を下げて……言ってくれた……って……」
柄の入るカラーコンタクトの瞳は涙によって沈んでいた。
「卑怯者だよ」
「え……」
「僕は今までそうしなかった卑怯者だよ。
本当は……胡桃の話を聞いた時に、すぐに両親へ言えばよかった。
でも……僕は言わなかった。言えなかったんだ」
ガラステーブルには茜音さんが昨日に読んでいた漫画が置かれていて、
その表紙に視線を移し自身の弱さを告げる。
「勝手に……悪い方、悪い方に思い込んでてさ。
本当はわかっていたのに。一緒にいるから……わかっていたはずなのに。
自分の弱さを認めないで、言えない理由を他のせいにして……卑怯者なんだよ」
「そんなこと……ないよ」
胡桃に視線を戻すと笑顔でこちらを見ていた。
「あーくんは、卑怯者なんかじゃないよ」
『そうだよー、胡桃ちゃんの言うとおり』
と、ベッドに座る茜音さんが言葉を被せてくる。
僕は手にしていた教科書を棚に収めるため立ち上がり机へ身体を向けた。
背中に微かな人肌の温もりを感じた。
胡桃の両の手と顔が当たっていると神経が教えてくれる。
「あーくん……ありがとう。助けて……くれて……ありがとう」
目の前にある椅子は静かに僕を見ていた。
「本当は……ずっと……ずっとね……嫌だったの……」
「わかってるよ」
「嫌で、嫌で……気持ち悪くて……汚くて……。
でも……私も同じだって……。私も……」
家族のために。大切な人のために。
欲だけに溺れる人たちと同じでは決してない。
「本当は……したくなくて……でも、私バカだから……。
そうする……ことしかできなくて……。いつも……嫌で……怖くて、怖くて」
「大変だったよな……僕が簡単に言うべきことじゃないけど」
彼女が一人で抱えていた哀哭は溢れ出す。誰にも言えず、誰にも頼れず。
凪咲が一人で戦うことを胡桃は心配していたけれど、
一人で戦ってきたのは彼女も同様だ。
背後にある感情の雨音を聞いていると、やはり世の中は理不尽だと認識する。




