幽霊と僕 8
『初心者さんには指板上の音名把握は難しいよ。
だから、最初の内は指の形で覚えて大丈夫。後で理論と並行すれば上達も速くなるし』
ベッドに座った僕の左側に来て、弦を押さえる指先を丁寧に移動させてくれる。
僕の呼吸は浅い。
深く呼吸してしまうと彼女の良い香りが、自身の体内に入り込んでしまうからだ。
『指先が痛くなったら教えて』
気合だ、根性だ、と体育会系で指導するつもりはないらしい。
「もっと厳しいのかな、と……思いました」
『私は無意味な熱血指導はしないよ。
指導者が酔いしれたいだけの言葉と腕力による暴力もね。
なにかをやる時は理にかなっていることが前提だし、
意味もなく厳しくする必要ないでしょ。
――どう、痛い?』
「少し痛いです」
『じゃあ、今日は終了です』
「いいんですか? まだ弾けますよ」
静かに首を横に振る茜音さん。
『ギターは指先が硬くならないと、いい音が鳴らない楽器なんです。
ぼんやりした音になるんです。
最初の内は少し痛くなったら止めていいんです。
そこが重要なんです』
先程から気になっていたが、なぜ敬語になっているのだろうか。
「練習しないと硬くならないんじゃないんですか」
『そんなことはありません。痛くなったらやめます。一日ほど待つのです。
痛みがほとんど無くなってからです。そこからまた練習します。
また、少し痛くなります。そこで練習をやめます』
――なぜ、敬語なんだ……。少し片言だし。
『今のあなたの指先は、ほんの少し変わりました。これでいいんです。
これを明日からも様子を見て何度か繰り返します。
そうすると、あなたの指先は硬くなり、弦を押さえることが容易になります。
もちろん、弾きたい欲求が強く、痛みに耐えて練習を続けても大丈夫です。
どちらでも弾けるようになります。
連続で続けていく場合は、痛みとの格闘と指先が硬くなるのが長引くこともあります。
指先を早く硬くしたいなら前者を選ぶことです』
――片言が強くなってる。
『人生も同じです』
「人生?」
『休むことは大事です。
休まずに身体と心を酷使し続けることは美徳ではありません。
ですが、人生でがんばることは、とても大切です。
物事を必死にやることは素敵ですし、尊敬できますね。
その姿はとても美しいものです。
しかし、心身を壊してしまうのは美徳ではありません。
休むことも成長するために必要な一歩です。
これは覚えましょう』
――片言ではなくなった。
「わかりました。じゃあ、今日の練習はここまでですね」
『よくがんばりました』
頭を優しく撫でられる。
何だろう。この感覚は。
気恥ずかしさから手を払い除けたくなる。
それでも何かが満たされていくような、不思議な気持ちが頭部から胸の辺りまで流れた。
温かいような、気持ちいいような。
悲しいような、切ないような。
よくわからない。
その白い手の動きを静かに受け入れた。
*
『どこ行くの?』
「ちょっと」
『ちゃんと行く先は言ってよ。私は師匠なんだから』
今日は学校が終わり、アルバイトをしてから帰宅した。
夕食を済ましギター練習を終えた後で、
財布とスマートフォンをポケットに入れるところを見つかってしまった。
追求される、その瞳から逃れることはできない。
「コンビニに行こうと……」
『もう夜だよ。なに買いに行くの?』
「まあ……ちょっと」
『正直に言いなさい。私は師匠だよ』
「茜音さんが……食べる物……」
アルバイトの帰りに購入を考えていたが、
雨がぽつりぽつりと降ってきたから自転車を走らせ急いで帰宅した。
夜になれば雨も止むという予報だったからだ。
茜音さんはベッドから起き上がる。
手には漫画を手にしていた。
僕が学校へ行っている間は、漫画などを読んでいるらしい。
扉の前にいる僕に近付いてきた。
真っ直ぐな瞳を見ていられない。
『ありがと! 私のためなら夜の外出も許可します!
二十三時まで、まだ時間あるし!』
どんどんと接近し、その距離は握りこぶし三つ程だ。
「ちょっ……と近いです」
『照れなくていいよ。二人の仲じゃん』
「どんな仲ですか。幽霊と人間にもパーソナルスペースは存在します」
『本当は嬉しいくせに。正直になったほうがいいよ』
否定の言葉を返すと、彼女は『私も行く』『一緒に行く』と、言い始めた。
「ええ……そうなるとギターを持っていかないといけなくなります」
『お願い。家にいて暇なの。たまには外に出たい。
ね、お願い』
――確かに家にいるだけだもんな……。
「わかりました」
『あれ、ずいぶんあっさり。
――やっぱり、朝陽くんは優しいね』
この時間帯にギターケースを持ち出すところは見られたくない。
忍び足で玄関まで向かう。幸いにも葉月は風呂に入っている時間だ。
先に玄関の扉をそーっと開き、ギターケースだけを屋外へ出す。
リビング内に顔だけを入れ、母に「ちょっとコンビニへ行ってくる」と告げた。
『ちゃんとしてるね。偉いぞ、我が弟子よ』
「葉月は風呂から上がると、僕の部屋に空いたことを言いにくるんですよ。
部屋にいなかったら騒がれるので」
茜音さんは「そうなんだ」と言って、自宅の門扉を開け、
六月の虫が微かに鳴く田舎の道路へ飛び出した。
彼女は手を後ろで組み、左右に揺れながら月明かりの下を先に歩く。
自転車で行けばコンビニは数分で着くけれど、
茜音さんが歩き始めてしまったので止めることもできない。
街路灯に照らされた後ろ姿、軽やかに歩いていく姿を急いで追いかけた。
「あの……大丈夫ですか?」
『えっ? なにが?』
「足……」
『足?』
白い素足で雨によって湿ったアスファルトを踏みしめている。
「サンダル持ってきます」
『ううん、大丈夫だよ。痛くないから』
「ケガしたらどうするんですか」
『心配してくれてるの?』
立ち止まった彼女の笑顔。
「…………。してないですよ」
『ふーん。そっか。本当に大丈夫だよ。多分、幽霊だからなのかな、痛くないよ』
「それならいいですけど……」
『やっぱり心配してくれてる』
茜音さんは笑顔のままで歩き出す。
その後ろをギターケースを持ち直し追いかけていく。
夜に出歩くことは、どこか胸の奥がぐっと引き締まるような感じがした。
田舎の闇夜に唯一ある煌々としたコンビニに到着すると、
駐車場には真新しい乗用車と古びた軽自動車が並んでいた。
白と青の色味が特徴的な店の入り口には、光に誘われた虫が何匹も飛び交っている。
『わー、コンビニだー。外観は変わってないんだね』
茜音さんより先に店内へ入る。
これが自動ドアであれば、幽霊である茜音さんに反応するのか、という興味が生まれた。
『なに買おうかなー。あっ……私、お金持ってない……』
「僕が払いますよ。好きなの選んでください。
それに茜音さんは、お金を持っていても払えないでしょう」
おそらく店員以外にも店内には少なからず客がいるはずだから、
不審者とされないように、細く弱々しい声で返答した。
『えー、いいの? ありがとー』
ギターを買うために貯めたお金がある。
茜音さんの所有していた物を譲り受けたのだから、ある種の返礼だ。
『お菓子とかも買っていい?』
「はい、好きなの買ってください。ギターを譲ってくれたので」
『あげたのは清原さんだけどね』
「まあ、そうですけど。
――遠慮はしなくて……大丈夫です」
『うん』
カゴを手に取り、チョコレート菓子やらスナック菓子などを入れていく。
指定するのは茜音さんで商品を取るのは僕だ。
彼女が商品を取った場合、他人から見れば空中に品物が浮いているように見えてしまう。
そのような摩訶不思議な光景は、作られた映像の中だけでよい。
『朝陽くん……! 大変だよ、朝陽くん……!』
「なんですか……あまり返事できないですよ。人もいるんですから……」
『グミ……! グミが! グミがこんなに並んでるよ!?』
商品棚の一角を群雄割拠のグミ製品がひしめき合う。
果物味、炭酸飲料味、エナジードリンク味などがあって包装紙も色とりどりだ。
「けっこう前から、そんな感じですよ」
『グミが市民権を得ている……。インディーズからメジャーにいったんだ……』
「元々、メジャーでしょう」
『前はこんなに種類無かったもん』
「葉月もよく食べています。粉が付いているやつとか」
『グミ……。グミのくせに……強くなったんだね』
――なぜ、少し感動しているんだ。
茜音さんが懐かしいと言っていたグミや葉月が好きなグミをカゴに入れ、
飲み物を手に取ってパン売り場で商品を選んでいる時だった。
「てめえ、なに言ってんだ、コラ! ぶちのめすぞ! われ、コラ……!」
店内に響き渡る怒声。
商品を指し示していた茜音さんの手と商品を掴む僕の手が止まる。
「うらがあ……! てめえ……この外人が! ちゃんと日本語喋れえ、コラ!」
声の発生源であるレジへ目を向ける。
そこにはコンビニ指定の制服に身を包んだ、
外国人であろう浅黒い顔の男性店員が平謝りしていた。
その前には小柄な白髪頭の頭頂部の剥げた男性がいる。
後ろ姿からするに六十から七十代といったところだろう。
「てめえじゃ話にならねえ……!
責任者呼べ……! 責任者! 責任者だ……!
てめえみてえなゴミに話しても意味がねえ……!」
「セ、セキ、ニンシャ……」
「んだらあ? 日本語わからねえのか!?
この腐れ外人が! 責任者呼べってんだよ!
やっちまうぞ! われ、コラ! おい、コラ!」
店内で店員への罵声。
それが生まれる自体おかしい。
激怒するというなら、それなりの理由が必要だ。
おそらく義に反した、道理に反した、などの大義があるわけでもない。
店員と老人の態度を見れば一目瞭然だ。
『朝陽くん、助けてあげて』
「嫌ですよ」
『人助けする約束! 店員さん困ってるよ!』
「嫌です。あの手の輩は、ある程度叫んだらいなくなりますよ。
立場と関係を利用して、威勢を見せつけたいだけなので」
『そういうことじゃない! 早く行ってあげて!』
店内には、もう一人の客がいる。
様々な弁当が陳列された所で片手にスマートフォンを持ち、
呆れた様子でやりとりを窺っている細身の大学生風の男性だ。
「だからよお……! クソが……!
なんでできねえんだ、こら! こっちはちゃんとやってんだろうが……!」
「ス、スマ……セン。ワカリマセン……」
「わからねえだあ……!? てめえ、国に帰れ……!
クソが! ゴミが! ウジ虫が……!」
詰め寄っている老人は店員の胸ぐらを掴んだ。
『朝陽くん……! それでいいの? 今、助けられるの朝陽くんしかいないよ!』




