夏の宴 12
自宅近くを歩いていると前方には人の姿があった。
手に持つ何かを振り回している。
その怪しげな動作で僕はすべてを理解した。
ゆらゆらと揺れながら歩いてくる人物。
大石凪咲だ。
身に纏う雰囲気でわかる。
相手は殺気のようなものを意図的に巡らし距離はどんどんと近付く。
『あ、凪咲ちゃんだ。おーい! 凪咲ちゃーん!』
聞こえるわけもないが咄嗟に彼女の振り上げる手を押さえた。
五メートル、三メートル。その距離は近付く。振り回している物は鎖だった。
簡易的な侵入防止に使うプラスティック製ではなく、
プロレスラーが使うようなゴツゴツとした鎖だ。
僕は視線を合わせず彼女とすれ違う。
胸を撫で下ろす。いきなり殴りかかってこなかったことに。
「あっちゃん、止まれ。手を上げて、そのままゆっくりとこっちを向け」
その声で足を止める。
振り返ると少しばかり物憂げな表情をしていた。
「私、やるよ。もう決めたから」
「やるって……イジメの報復のこと?」
「そ。今日の夜までには片付けてやろうかなって」
「そう……か。大丈夫か?」
「なにが?」
と、片方の口角を上げた。
「一人で……大丈夫か? 僕も……ついていこうか?」
鎖が両の手の間でぴーんと張られた。
「あっちゃん、弱いからいいよ。足手まとい」
『凪咲ちゃん、朝陽くんね、昨日カッコよかったんだよ……!』
「あっちゃんがいるとさ……止められそうだから。邪魔になるからいらない」
「戦うことに……したのか?」
「そ。あれから考えたよ。あっちゃんに言われたこと、よく考えた。
あっちゃんが言うように……私らしくないかもって。
負けっぱなしじゃ悔しいし。万が一、負けることになっても一矢報いないと」
「そう……か」
「私のこと弱い、って、勘違いされてるのムカつく。
泣いてもやめてやらないし、別に鑑別所とか少年院も怖くない」
その声に強がりは含まれていなかった。
物騒な言葉の中には確かな意思が存在している。
「イジメてもいいけどさ。それなりの覚悟があるのか、って。
やるからには、やられる覚悟があるのか、って。死ぬ覚悟はあるのかな、って。
私に仕掛けるってことは、どういうことなのか教えてあげなきゃって。
――生徒も教師も全員血祭りにあげてやる」
終わった。確実に終わった。
イジメている子たちも、それに加担している教師も終わった。そこに存在する家族も。
他人を痛めつけることで自身の自我同一性を保っていたとするならば、
それがいかに愚かな行為であったかを認識するはずだ。
彼ら彼女らは、その身に刻むことになるだろう。
虎の尾を踏む。
そのことを理解するはずだ。
長年共に過ごしてきたからわかる。彼女の今の瞳は獲物を喰らい尽くそうとしていた。
「これから相手のところに行くのか?」
彼女は首を振り両の手を腹に当て笑った。
「腹が減っては戦はできぬ」
「うちで食べるのか?」
「そ。さっき、さっちゃんに連絡したらカツ丼作ってくれるって」
僕が自宅を出る前にスーパーへ買い物に行くと言って母は出かけていった。
「カツ丼……凪咲の指定で?」
「うん。カツ丼、カツ煮、ソースカツ丼を注文したで候。
さらに、せっかくの揚げ物だから唐揚げ、コロッケ、メンチカツも追加したで候」
「勝負に勝つためのゲン担ぎ……か」
「さっちゃんのご飯食べたら負けないでしょ」
「それを食べなくても負けないだろ、凪咲は」
「…………。うるさい、黙れ、弱虫童貞」
「じゃあ、行くところあるから……もう行くよ」
背を向け歩き出し、すぐに足を止めた。
「やっぱり僕も行こうか。凪咲が……一人で戦えることはわかっているけど。
相手は大勢いるんだろ?」
「いいよ。大丈夫。
私は一人じゃないって……あっちゃんが教えてくれた。
だから、私は戦える。さっきも言ったけど、童貞がいたんじゃ色々な障害がある」
「その場合に適切なのは弊害、だ」
「黙れ、マウントとるな、童貞のくせに」
「教えてるだけだよ。凪咲が高校に行けるように」
「そういうところ、ムカつくんだけど。はっちゃんは丁寧に教えてくれる。
あっちゃんはマウントとってくるだけ。
――はー、お腹減ったー。じゃーね、童貞のあっちゃん」
凪咲は自宅方向へ足を向け鎖を振り回している。その後ろ姿を見守った。
『凪咲ちゃん、大丈夫かな』
「大丈夫ですよ。前に会った時の凪咲であったら危なかったかもしれません。
でも、今は違います。目が違っていました。
本領発揮した凪咲に勝てる相手なんていませんよ。
みんな……凪咲の力を甘く見ている。その恐ろしさを知らない。
腕力でも数でもないんです。それは真っ向勝負した場合です。
――いかに狂っているかが勝敗を分けると思います」
『ずいぶん絶賛するんだね』
「凪咲に虐げられてきた側の意見です。
――虎穴に入らずんば虎子を得ず、です。多勢に無勢でも凪咲は勝ちますよ。
必ず……勝ちます。負けるところは見たくありません」
『私も……そう思うし、そう願う。それに……仮に負けてもいいしね』
「え?」
『負けても朝陽くんや葉月ちゃんがいる。
大切な人が側にいてくれれば、人は何度だって立ち上がれる。
私は……そう思っているよ』
微笑む彼女はアスファルトを踏み歩き始める。
僕たちの目的地へ到着すると茜音さんは目を丸くした。
『え、ここなの?』
一言返事をして扉を開ける。
「こんにちは」
「おーす」
夕焼けの宴の店内には二人の姿がある。
一人は清原さん。もう一人は……。
『え……く、久保さん!?』
白髪混じりの男性が久保正哲さんのようだ。
「初めまして。砂山朝陽といいます」
「おー、きみか。俺は久保、久保正哲だ。
清原くんから茜音ちゃんのギターのことは聞いてるよ」
『朝陽くん、ど、どういうこと!?』
と、茜音さんが僕に顔を向ける。
その瞬間、新たな入店音がした。
ちょうどタイミングが重なったのか、不揃いの身長が並ぶ。
『結衣ちゃん! 平良さん!
――朝陽くん、どういうことなの?』
「皆さん……すみません。僕が清原さんに頼んで集まっていただきました」
二日前、夕焼けの宴へ来た時に清原さんにお願いしていたことだ。
「構わないさ。私は暇ではないが、朝陽くんがどうしてもという話のようだからね」
「おー、平良くん、久しぶりだね」
と、久保さんは彼の肩をポンポンと叩く。
『久保さん……! 少し老けちゃったね!
平良さんと清原さんが若々しいのがおかしいだけかー』
茜音さんは笑顔で久保さんの顔を覗き込んでいる。
三人は懐かしい顔と会ったせいか話に花を咲かせている。
茜音さんも笑顔で参加していた。僕は結衣さんと並び、その様子を眺める。
平良さんも清原さんも久保さんが間に入ることで衝突なく会話していた。
僕と結衣さんは輪から離れ店内の楽器を見ていた。
ギターを始めてから得た知識や茜音さんに教わったことを彼女に教えていると、
「私も……ギター、やってみようかな」
と、きらきら光る楽器を見つめている。
「朝陽くん……もし、私がギターやるなら教えて……くれる?」
小さい顔から出る上目遣いに気恥ずかしさを感じ目を逸らす。
彼女は綺麗というより、まだ高校生と言ってもいいぐらい可愛い外見をしている。
憂いを帯びていた瞳も少しは和らいでいた。
「教えるほどの技量はないですよ。始めたばかりなので」
「え……そうなの? 演奏も歌もすごく素敵だったよ」
「そんなことないですよ」
「ううん。すごく……カッコよかった」
しばらく経った時だ。
入店音が新たな人物の登場を教えてくれた。
以前会った時とは違い髪の色が青色に変わっている。
上半身に真っ白なレースを繋ぎ合わせた物を羽織り胸は包帯で隠されていた。
平良さんたちはギョッとしている。
茜音さんは目を大きく開いた後で、その人物に駆け寄った。
『ミーちゃん……! ミーちゃん……!』
躊躇なく抱きつき首元に顔が埋まるとレースが微かに揺れた。
「あれえ……あかちんの……匂いがするう」
『ミーちゃん……! いるよ……! 私、ここにいるよ! ミーちゃん!』
「やっぱりい……あかちんの匂いがするう」
と、僕を一瞥した。
「きみい、また会ったねえー。だからかあ、あかちんの匂いがするのお」
その時、隣にいた結衣さんの身体が震えていることに気が付いた。
「どうしました? 大丈夫……ですか?」
「ご……ごめん、なさい。ごめん、なさい」
「あれえ、きみい……」
ミンミさんが結衣さんを見て声を出すと、震えている彼女は外へ飛び出した。
唐突な行動と早い足取り、僕はその後をギター片手に追いかける。
もちろん、茜音さんも一緒に。
背後から声をかけ手首を掴み、動揺している彼女に問いかけた。
「どうしたんですか、急に」
「私……帰る」
「帰るって……なにか、嫌なことでもありました?」
先程まで落ち着いた様子で話していたのに瞬きを繰り返している。
ゴリラのせいで精神が今もなお不安定なのは当然であると理解していた。
しかし、その予想は見当違いだった。
「あ、あの人なの……」
「え?」
「あの人……おねえちゃんが海から引き上げてくれた後で私を……助けてくれた人」
僕と茜音さんは眉を下げ結衣さんの次の言葉を待っている。
「わ、私が……目を覚まして……。
その後で、あの人がおねえちゃんの心臓マッサージを……始めたの」
昨日、言っていた人物がミンミさんだったのか。
「私……私、おねえちゃんのことを知ってから……色々なことを調べた。
あの人……おねえちゃんと……ライブを一緒にしてた人」
「はい。そうです、知っています」
「ライブ映像……見ると……二人は、す、すごく仲良さそうだった……」
茜音さん。ミンミさん。二人はお互いのことを親友と言っていた。
「救急車が来るまで……あの人……ミンミさんは、おねえちゃんの名前を呼んでた。
泣きながら……心臓マッサージしていて……ずっと名前を呼んでた……」
『ミーちゃんが結衣ちゃんのこと……助けてくれたんだ』
「今年の……おねえちゃんの……お墓参り。
ミンミさんがいた……から、怖くて……逃げたの」
墓場で蹲っていたのは今のように動揺していたからか。
背後から歩道の小石を踏みつける音がした。
「あれえ、やっぱりー。きみい……あの時のワッパだよねえ?」
『ミーちゃん……』
結衣さんは俯いて踵を返した。
その背中に向けミンミさんは微笑んだ。
「元気にしてたー? ワッパ……! 久しぶりだねえ!
大人になっていてもお、あたしにはわかるからねえ!」
結衣さんは足を止めた。




