夏の宴 11
「安心しなさい。本来なら莫大な金が必要になるところだが清原に払わせる」
「はっ!? 俺なのかよ? 無償でやれよ、この守銭奴が」
「なにをするにも対価は必要だ。
茜音くんや朝陽くんのように無償で助けることなどできない。生き方の問題……さ。
それに無償でないことは相手のためでもある」
風が強く吹き付け平良さんの黒髪は靡いた。
「――そういう生き方だって悪くねえって、
茜音の歌に教えられたのは、初めて聴いたお前じゃねえのか」
二人の視線は合致している。
「きみは変わらない……な。初めて会った中学生の時のようだ。
未だに、あの時の心を持ち合わせるか。
――ローンは認めない。彼らに払う金は私に現金一括で払え」
「そんな金あるかよ、ボケ」
「ミリオンセラー連発だったバンドのメインコンポーザーだ。
今でも諸々の印税が入ってくるのだから痛くないだろう。
そうでなければ自然豊かな場所で道楽の商売などできない。
――特別に友人価格にしてあげよう」
「誰が友人だよ、バカが」
「言葉のあやだ。私もきみのことは友人だと思っていない」
茜音さんは二人の間に入り、軽やかに両の手を打ち鳴らした。
『そっ、二人は信頼できる仲間! それで……私のお兄ちゃんたちだもんね!』
結衣さんは二人へ深く頭を下げた。
それに倣って茜音さんも『ありがとうございました!』と言い涙を一粒垂らす。
僕たちと結衣さんは夕焼けの宴から出て歩道を静かに歩いている。
平良さんは送っていくと言ってくれたけれど、その提案に甘えることはしなかった。
結衣さんに話さないといけない気がしたからだ。
話を切り出せず蝉時雨の中をひたすら歩く。
思考していると隣から結衣さんの姿がなくなっていることに気が付く。
振り返ると歩道の端で、こちらを真っ直ぐに見ていた。
「ありがとう……ございました」
深く頭を下げる結衣さんに震えはない。
「助けてくれて……ありがとう」
彼女の黒髪は海水に濡れていたせいで動きが鈍い。
「名前……まだ、聞いてなかったんだけど」
と、ぎこちなく微笑み首を傾げる。
「砂山朝陽です」
「私は……森川結衣です」
一歩、二歩と近付いてくる。
「あの……。おねえちゃん……いるの?」
僕が隣を一瞥する前に茜音さんが口を開いた。
『言わなくていいよ。さっきのは助けるための嘘で、
適当に……ギターケースに日記があって見たとか言って。
これ以上、混乱させたくないの。ごめんね、朝陽くんを悪者にしちゃう……けど』
僕は二人のために、その言葉を無視した。
「信じてもらえないと思いますけど……いますよ。
話したいことがあるのなら伝えられます」
『ちょっと……いいよ、やめなよ……』
と、ティーシャツの裾を引っ張られる。
「やめません。師匠は弟子の成長を見るものでしょう。
――人助けするんでしょう。
ここで引いたら本当の意味で人助けにはなりません」
僕は自身の隣に茜音さんが立っていることを告げた。
「おねえちゃん……私ね……あの時、助けてくれたこと、ずっとお礼を言いたかった。
あれから……おねえちゃんの音楽を知って……おねえちゃんの曲をいつも聴いてたの。
――楽しい時も苦しい時も……いつも聴いてたよ」
少し俯く彼女は茜音さんに言葉を続けた。
「でもね……生きていく中で思うことがあったの……。
どうして……おねえちゃんが死んで……私が生きてるんだろうって……。
おねえちゃんが生きていたほうがよかったのに……って」
『そんなことない、そんなことないんだよ。そんな風に考えないで』
「そういうこと考えても……おねえちゃんの歌を聴いてたの。
だから……今まで生きてこれた。
いつもね……いつもおねえちゃんの歌が隣にいてくれたよ。
隣りにいてくれて……嬉しかった」
彼女は胸元に手を当て静かに泣き始めた。
「ありがとう……ありがとう、おねえちゃん。
私も……あの時のシーグラス持ってるよ」
シャツの中から麻紐が通る薄桃色のシーグラスが顔を出した。
ゴリラに襲われた時。墓場で蹲っていた時。
海から救い出した時。ゴリラに言葉を向けた時。
思い返せば、いつも彼女は胸元のシャツを握りしめていた。
その手の中には薄桃色のシーグラス。
茜音さんとの思い出の品を握りしめていた。
『結衣ちゃん。助けるの遅くなって……ごめんね、ごめんね……』
と、茜音さんは涙を流し結衣さんを抱きしめる。
「今、隣で泣いています。
触れることはできていないですけど……結衣さんを抱きしめています」
結衣さんは大粒の涙を流し横を見た。
「また……助けてくれて……ありがとう。おねえちゃん。
おねえちゃんには助けてもらってばっかり……」
『ううん、いいの。私たちは友達でしょ……!
これからつらい時……この先もつらいことがあると思う。でもね、大丈夫だよ。
私の弟子は頼りになるから。気にせず朝陽くんに頼っていいからね。
私が師匠だから遠慮はいらないよ』
涙を流し微笑みを僕に向けた。
「茜音さんが友達だから気にしないで、って。これからつらい時、色々な人に頼って。
平良さんや清原さんがいるから大丈夫だよ、って」
『ちょっと正確に伝えてよ……! 悪意あるショートみたいに切り抜かないで!
私、ああいう誤解を生むようなの好きじゃない!』
「切り抜きって知ってるんですね……」
『知ってるよ! 朝陽くんが学校とかアルバイトに行ってる間は一人なんだから!
動画見る、音楽聴く、漫画読む、お菓子食べる、AIとおしゃべり!
ギターには触われないし……!』
「完全に引きこもりのニート……ですね」
『いいの! 幽霊だから……!』
「少しはお金を入れてほしいくらいですよ」
『生きてたら印税で払ってますよー!』
「その権利を僕に譲渡してほしいです」
『平良さんが権利を手放すわけないでしょー』
「それもそうですね」
「ふふ……」
結衣さんの笑顔を見るのは初めてだった。とても綺麗で儚げな印象を受ける。
「なんですか?」
「一人で話してる……みたいだから」
と、右手を口に当て微笑む。
「あの……自分で言うのも変ですけど、どうして信じるんですか?
一般的に考えたら信じないと思いますけど」
「私には見えないけど……あの時と同じなの」
自動車が横を走り抜けて行った後で「同じ?」と、問いかけた。
「うん。おねえちゃんの……優しい香りがする。
見えないし、声も聞こえないけど、あの時と一緒。
あれからいっぱい時間は経ったけど変わってない。
おねえちゃんは……いつも優しい。変わってないの」
彼女は再び頭を深く下げ顔を上げた。
「朝陽くん。今度、お礼させて」
「いいですよ、別に。師匠からの命令だっただけです」
僕は目を逸らし遠くの空を見上げた。
「あ……そうだ。茜音さんのお墓参りするなら、モモダーを供えてあげてください」
「モモダー? うん……わかった」
落ち着いた結衣さんの声色は晩夏に似合っている。
結衣さんの心は晴れていないが、道中、様々な話をしてくれた。
元々、話すことが好きな人物なのだろう。時に詰まりながらも言葉を紡ぐ。
その横顔も綺麗だった。
前方には二つの姿がある。お姉さんが犬と共に朝の散歩をしていた。
『イッヌだー! イッヌー!』
と、茜音さんは駆け出す。
僕は機会を狙っていた。結衣さんに伝えたいことがある。
彼女の耳元で囁く。茜音さんに聞こえないように。
「え……?」
「できたら……で、いいんですけど。嫌だったら全然大丈夫です」
彼女はしばらく沈黙し「ううん。大丈夫」と、答えてくれた。
僕は少し後ろから歩く。
結衣さんの背中を見つめた。
今までどれほどの悪意を身に受けていたのだろう。
小さく華奢な身体で、どれほどの痛みを感じていたのだろう。
世の中は、なぜ、こんなにも痛みに溢れているのだろう。
一方的で理不尽な悪意は常に転がっている。
多くの人間は汚く醜い。己の欲望を優先し傷つける。
それでも……そうではない人たちも確かにいた。
目の前で犬と無邪気に戯れている人のように。
いつか……僕もそのような人になりたい、共に過ごす中で、そう感じていた。
夏の終わりは目の前に迫っている。
*
八月の最終日。
今日も日が昇る前に目を覚ますとベッドに茜音さんの姿がなかった。
ベッドにはタオルケットだけがある。
意識が遠のくような……一種の目眩が身体の力を奪う。
――どうして……。
部屋の中を見渡しても、どこにもその姿は見当たらない。
ギターはある。彼女の姿はない。気が動転していた。
立ち上がった時だ。
自室の扉が開いて隙間から顔を出す人物。
「な、なんで部屋から出ているんですか」
『え、あー、うん……廊下にいたの』
身体の強張りは急激に抜けた。
「廊下って……なんでですか。起きたらいないから、びっくりしましたよ」
彼女は後ろで手を組みニコニコと近付いてくる。
『私がいなくなったと思って焦ったの?』
首を傾げ微笑む顔から目を逸らす。
『抱きしめていれば、今みたいに焦らなかったかもよ?
ぎゅーっとしてれば、ね』
「いないから、どうしたのかな、って思っただけです」
床に寝転ぶと『素直に言えばいいのに』と身体を指で刺される。
「大体、距離にしたって、廊下の途中……部屋のすぐ外までじゃないですか。
どうして出ていたんですか?」
『いいの……! たまにはヒンヤリとした床で寝たいこともあるの……!』
いくらかの押し問答を繰り返し僕は二度寝した。
二回目の覚醒で朝の支度を済ませ茜音さんに一つの言葉を告げる。
彼女は小首を傾げた後で微笑んだ。
『デート!?』
「違いますよ。人の話を聞いてください」
『だって、これから出かけよう……って! 朝陽くんから誘ってくれるの初めて!』
「デートではないですよ」
僕がバッグに財布やらを入れていると、背後で少しばかり大きい声を上げている。
『デート、デート、デート』
「違いますよ」
『デート!』
「違いますって」
『デート……!』
「違います」
『デス――』
「それは書くと死ぬやつです」
『言わせてよー』
僕たちは午前中の陽射しを受け歩道を歩いていく。
この夏は共に過ごしていることが多かった。
アルバイトに行っている時以外は常に一緒だ。
他の人だったら僕はどのように感じていただろう。
『どこ行くの?』
「まあ、ちょっと」
『隠すねー』
足取りは軽く緑が豊かな道を進んでいく。




