夏の宴 10
平良さんがゴリラのジーンズのポケットを漁ると、
「触んな……! 殺すぞ……!」と、大声を上げた。
財布を手に取り一枚のカードを抜き出した。
「名前は源田紀洋。年齢は……今年で四十ニ歳か」
スラックスから自身のスマートフォンを取り出しレンズをカードへ向けた。
撮影する音が流れ、筋張った手は端末の操作を続ける。
「きみ、動画などはネットに上げていないだろうね?」
「知るかよ……! さっさと解け、クソが!」
平良さんは僕らに顔を向ける。
「ネットに上げられていなければ問題ない。パソコン、スマホ、クラウド、SDカード。
その他の記録媒体、自宅や実家も調べる。知人、友人宅は彼が今後吐く内容による」
冷静な物言いと時折向けられる冷徹な目に恐れをなしたのか、
ゴリラは急に罵声と暴れることを止めた。
静寂な店内にスマートフォンの着信音が流れる。
「――私だ。そうか……引き続き頼むよ。急な依頼であるから報酬は倍払おう」
何度かの問答を電話越しの相手と繰り返す。
「誰だよ?」
「結城だよ」
「あー、懐かしいな、結城か」
「きみにも会いたがっていたよ。すでに彼の身辺調査を開始した」
清原さんから結衣さんへ言葉の先を変える。
「動画などのデータはすべて削除する。復元できないように本体も破壊する。
もちろんバックアップもね。
――安心しなさい、中身は誰に見られることなく確実に消す。
きみが不安に感じることには決してならないと私が保証しよう。
彼らはプロだ。信用と信頼で成り立つ。
本当のプロフェッショナルはクライアントの期待は決して裏切らない。
――清原とは違ってね」
「うるせえ、黙れ。俺がいつ裏切ったんだよ」
「さあ……ね。きみと会ってからの年月を胸に当てて考えてみたらどうだ」
「あ……? あ、お前……もしかして、中学……いや、高校の時のことか。
あの時のこと、未だに根に持ってんのか? 小せえ野郎だな、お前」
「きみに言われたくないさ」
「朝陽、こいつよ、高校の時さ――」
「それ以上、口を開くな。私たちの過去は関係ない。今は彼女のことだろう」
と、伏し目がちな結衣さんに目を向けた。
「これで物理的な憂いは解消された。あとは……きみ次第だ」
『え……ちょっと……平良さん』
「きみの言葉で……彼と決別しなさい」
結衣さんの呼吸は短く浅い。
『平良さん……! 結衣ちゃんは無理です! 心が傷つけられてるんです……!
そんなの……酷いし、無理です!』
「平良さん……それはやめておいたほうがいいと思います」
「残酷だと思うかい?」
「はい……散々、傷つけてきた相手に言えないですよ、怖いと思います。
これ以上……結衣さんに傷ついてほしくないです」
「彼女の傷は一生残る。想像を絶する苦しみと痛みだ。
それと向き合い……少しでも助けられるのは自分自身だけだ。
――傷を癒やすのは他の者であっても、傷を埋められるのは自身だけだ」
『でも……平良さん、結衣ちゃんは……』
と、茜音さんが言いかけたところで、結衣さんは潤んだ瞳で僕を見た。
「さ、さっき……ゆ、勇気を貰ったから……大丈夫……です」
「結衣さん……」
彼女は床で会話を聞いていたゴリラの前に立つ。
胸元のティーシャツは中心に向かって皺になり、それを生み出す右手は震えている。
瞼を強く閉じた。
「おねえちゃん……おねえちゃん……」
小さく細い声で何度も呟いている。
『結衣ちゃん……』
茜音さんは震える彼女の肩に背後から手を置き丸い額を背中に当てた。
その瞬間、結衣さんの曲がっていた背骨と頸椎は緩やかになる。
「も……もう、わ、わ、私に……関わらないで……ください。
もう……もう、や、やめて……ください」
大粒の涙が頬を伝う。
「もう……や、やめてください……」
ゴリラは目を丸くした後で下卑た笑いへ変わった。
「はあ……? お前、なんなの? お前も楽しんでたんだろうが……!
あんだけ濡れててよ……! 濡れまくってたじゃねえか!
被害者ヅラしてんじゃねえよ……! このクソ女が……!」
脳内に強く血流が巡り身体がカッと熱くなった。
僕は倒れているゴリラの赤いアロハシャツの胸ぐらを掴み上げる。
一つの白いボタンが宙を舞い光る床へ彩りを与えた。
そのまま頭部をゴリラの顔に勢いよく当て、間髪あけずに右肘をめり込ませる。
父とソムさんに教わったことだ。
暴力を振るう理由。戦う理由。
二人とも同じことを言っているんだと思っていた。
自身の「義」から逃げるな、と。
鼻血が口周りを濡らしても、もう一度、もう一度と肘を落とす。
何発目かの後で肩に手が置かれた。
「きみが泣いてまで殴る価値のある相手ではないよ」
そう言われて涙が出ていることに気が付いた。
呼吸は荒い。怒りによって身体は正常な働きができていない。
「どうして……そんなことが……言えるんですか、できるんですか」
再び床に倒れたゴリラは「ああ?」と、一重瞼の鋭さで僕を睨む。
エラの張った骨格は強靭であるのか、深いダメージを負っているようには見えない。
「人を傷つけても気にしない……結衣さんが、こんなに苦しんでいるのに……」
「はっ! ガキが……! お前も俺のこと殴っているじゃねえか!
無抵抗な相手にイキってんじゃねえよ! この犯罪者が……!」
再び怒りが脳内に巡り歯を食いしばった時だ。
「もうやめなさい。道徳が通じない相手は世の中に多くいるのだよ。
後のことは私たちに任せなさい」
と、冷ややかな目でゴリラを一瞥すると当の本人は瞬きを加速させた。
長年、様々なことと渡り合ってきた人の言葉には重みがある。
「な、なんだ、おらあ……! てめえら……!
こんなことして、タダで済むと思うなよ!」
「外道であっても殺しはしない、安心してくれ」
「お前もたいがい外道だろ」
清原さんは鼻を鳴らし皮肉を言った。
「そう……だな。私は茜音くんのように真っ直ぐには生きられない。
ただ、外道でなくては戦えないこともあるだろう」
「ああ?」
「警察、検察、裁判は被害者を助けてはくれないだろう。
できるのは犯罪者を捕まえ、法の裁きを与えるだけだ。
刑罰とは犯した罪と加害者に与えるだけにすぎない。
法で被害者の心は……決して救われない」
結衣さんの表情は固まっていた。
「加害者は塀の中で暮らすこと、もしくは、死に至るまで暮らすこと。
死刑になるまで暮らすこと。その三択しかない。死刑にしても一瞬のことだ。
彼の場合は死刑にはならない。そして……彼女の負った深い傷は消えない」
「まあ……な」と、深く吸い込んだ煙を店内へ吐き出す。
「せめて、溜飲が下がることがあるとするならば、
刑罰ではなく加害者に同等の痛みを与えることだ」
外からタイヤが小石を踏みつけ停車する音が聞こえた。
「――来たか。これから彼らに運んでもらう。
きみも付いていって最後まで見届けるか?」
問いかけられた結衣さんは沈黙し、しばらくして首を横に振った。
「そうか。先に言っておくが、殺しはしない。そして、きみが気にすることはない」
「ふ、ふざけんな……! おらあ……!」
店内に黒いマスクをした屈強な男性二人組が入ってくると平良さんと言葉を交わす。
ゴリラは身体を起こされ男性たちに挟まれる形で引きずられる。
「あらあ……! 離せ! こんなこと許されねえぞ!
これからどうなんだ……!」
「理解しているのに、理解していないふりをするな。
それと騒がないでくれ。きみの声は美しくない。すべて、きみの招いたことだ。
他責ではなく自責だ、ということをよく考えるといい」
ゴリラは身体をくねくねとさせ結衣さんに目を向けた。
「おい……! 森川……! て、てめえ、必ず殺してやるからな!
そこのガキも必ず殺してやる……!」
結衣さんは俯き頭を何度も微動させた。
「森川……! おい、森川! 必ず……! 死ぬまで犯してやるからよ……!」
「きみ、それは無理だ」
「ああ……!?」
「きみは、どうやら……よほど温い環境で生きてきたようだね。
人に与えた痛みは、いつか己に返ってくるべきだと思うがね」
「はっ! サツにパクられても痛くねえよ! すぐに出てきてやんよ!」
彼は話を聞いていなかったのだろうか。
これから行く先は国家組織も法律も関係がないということに。
平良さんは常にゴリラに対し冷静な対応だった。
「理解していないなら教えよう。きみが行く先は警察ではない。
警察であれば通報、連行してもらったほうが早いだろう。
ここまではわかるかな?」
「ああ……!?」
「現在の法に痛みなど存在しない。
刑務所には平和で快適な暮らしがある、というだけだ」
髪を掻き上げる平良さんは一瞬だけ結衣さんを見た。
「いいか、被害者の痛みを知りなさい。
これから……まともな生活が送れるとは思わないことだ。
それと、言っておくが日本にも住めない。平和な暮らしが送れることは二度とない。
きみは深い痛みを何度も繰り返された後、外国で暮らしてもらうことになる。
――人の痛みを知りなさい」
ゴリラは身を捩らせ大声を結衣さんにぶつける。
「ふ、ふざけんな! おい……! 森川……! 助けろ……! 森川……!
てめえ、聞こえてんだろ……! うらあ……!」
両の手を耳に強く押し当てる結衣さんの背中を茜音さんが優しく撫でる。
「連れて行け」
平良さんに指示された二人組は、圧倒的な力で黒いワゴン車へゴリラを押し込んだ。
全員で自動車の背中が見えなくなるまで道路に佇んだ。
「平良、あいつらは?」
「結城のところの社員だ」
「社員? どう見ても一般人の身のこなしじゃなかったけどな」
その言葉に返答せず平良さんは結衣さんに声をかける。
「さっきも言ったが、きみが不安に感じていることは、すべて対処する」
小さく首を動かす結衣さんの背中は少しばかり伸びている。
「彼に痛みを与えることは望まないか?」
身体の動作による反応も言葉も紡がれない。
それが答えなのだろう。
僕は平良さんの首元を見つめた後で深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「たまにはヒーローの真似事でもしてみようかと思ってね」
「はっ、ヒーロー? お前が? こいつにとってのヒーローは朝陽だろ」
新たに吸い始めた煙草は爽やかな風の香りと混ざり苦さと甘さを持つ。
平良さんは僕から視線を離さず話を続けた。
「茜音くんは……よく言っていたよ。人を助け、人に寄り添いたいと、ね。
それを実践できる者は多くない。
今回、私が手を貸したのは、きみの若い青さに触れたせいかな」
微笑む彼は視線を変える。




