夏の宴 8
眉を下げ涙を流す茜音さんは僕へ感謝の言葉と謝罪を出し結衣さんへ想いを告げる。
『あの時、約束した曲を完成させたよ。結衣ちゃんに聴いてほしいの』
「や、やめて……! なんなの!? あなた……なんなの……!?」
信じてほしい、とても困難な話だ。
『大丈夫だよ。一人じゃないよ。今まで一人でつらかったね……ごめんね』
「やめて……やめて……! やめてよ……!」
耳に手を当て叫ぶ。
『大丈夫……だよ。結衣ちゃんのこと絶対に助ける』
「もういい……もういい加減にして……! ふざけないで……!
そんなこと……! もうやめて……!」
涙と鼻水を垂らし大声で叫ぶ。
『あの夏の日……この砂浜で一緒に飲んだモモダーおいしかったね。
水色のシーグラスをくれて、私の歌を好きって言ってくれて……ありがとう。
あの日、私の心を救ってくれたのは結衣ちゃんだよ。
私に音をくれた。私……忘れてない、大切な思い出だよ』
僕が繰り返すと結衣さんは顔を上げ目を見開いた。
「な……なんで……シーグラスのこと……」
淡い水色のシーグラス。
茜音さんと出会った時、最初に所在を問いかけられた物だ。
無い、と言った時は顔を暗くし、発見した時は微笑んでいた。
「茜音さん、いるんです。信じてもらえないと思いますけど……和泉茜音がいるんです。
僕にもわからないんです、どういう現象か。
幽霊……という存在かはわからないですけど……いるんです」
『結衣ちゃん、生きて。生きたいと思う気持ちがあるなら……死なないで。
いつか……また会った時に、結衣ちゃんの人生を私に教えてほしい』
「おねえちゃん……おねえちゃん……なの?
本当に……おねえちゃんなの……? おねえちゃん……いるの? おねえちゃん……!」
結衣さんは周囲を見渡し大声を出す。
「おねえちゃん……! あれからね……! あれから……おねえちゃん……みたいに……。
おねえちゃんみたいに……がんばろうとしたけど……がんばろう……と……。
私には……できなかった……。
ごめんなさい……おねえちゃん……ごめんなさい……!」
その声は今まで必死に生きてきたであろう想いが込められていた。
茜音さんは辺りに声を振りまく結衣さんを抱きしめた。
こちらを見て小さく頷き僕は再び演奏を始める。
Aメロの歌入りで茜音さんも歌い始め共に作った楽曲を砂浜へ置いていく。
結衣さんは涙を蓄え歌を聴いてくれた。
『立てなくて足蹴にされて、軌跡を見て奇跡じゃない明日に触れたくて』
伴奏に波の音が加わる。
『痛みを重ね知るほど、濡れた羽の色に変わっていく』
バラード調から五弦、六弦をパームミュートし軽やかなリズムで展開を変える。
沈んだ気持ちが浄化されていくように。最後のフレーズは冒頭の旋律へ戻る。
『明日はきっと怖い。明日もきっと痛い。
だから歩く、私は今を今を歩くよ』
サウンドホールから流れていく音は大海と青空へ消えていった。
結衣さんは呼吸を荒くし止まることのない涙を流している。
「おねえちゃん……おねえちゃん……の歌……」
『結衣ちゃん。最後まで聴いてくれて……ありがとう』
僕は言葉を出せずにネックを握りしめた。
痛みに打ちひしがれた彼女は少しでも安らいだのだろうか。
ミンミさんとの問答を思い出す。音楽で人の争いは止められない。
しかし、あの後、僕は再度考えていた。
争いは消えないし、止まらない、人が傷つくことは止められないけれど。
音楽は一人を癒やすことができる。
そう考えたが彼女の耳には僕の歌声しか届いていない。
和泉茜音の歌声で届いていれば彼女の涙は温かいものに変わっただろう。
僕では力及ばず。
そう考えていた時だ。
「うらあ……! 森川! も、り、か、わー!」
野太い声がする方向を見るとゴリラがスマートフォンらしき物を振り上げ、
嫌らしい笑みでこちらに向かってきている。
ジーンズに赤いアロハシャツ姿はどこか歪だ。
結衣さんは砂浜に乗る臀部を後方へ移動させ、酷く怯えた表情をしている。
「おらあ……! てめえ、こんなとこにいるんじゃねえ!
お前のスマホにアプリしこんでんだよ! どこにいてもわかんだよ! バカが……!」
ゴリラはニヤニヤとしながら距離を詰めてくる。
結衣さんの表情とゴリラの表情を交互に見て、憤怒の感情が込み上げてくる。
『朝陽くん、逃げて……! 結衣ちゃんのことを連れて逃げて!
ギターは置いていっていいから、早く逃げて!』
公園で外国人に殴られた時も同様のことを言われた。
そんなこと……できるわけがない。
ゴリラは肩で風を切り僕を睨みつけた。
十メートル、五メートル、三メートルと近付いてくる。
『朝陽くん……!』
「なんだ、てめえ、ガンくれやがって……!
んあ? てめえ……この前の……ガキじゃねえか。
やんのか? タイマンはるか? ガキが……!
お前なんか俺の相手にならねえんだよ……!」
首を前に出し下から一重瞼で睨みを利かせる。
「やらないですよ。僕では……お兄さんに勝てません」
「へっ、ザコが」
と、笑みを浮かべ往来闊歩して僕の前を通過する。
『朝陽くん……! お願い……! 助けて……助けて!』
震えて動けなくなっている結衣さんに、ゴリラの手が届く範囲になってきた。
『朝陽くん……! 結衣ちゃんを助けて……!』
と、ゴリラを止めようとしているが、それは叶わないことだ。
「うらあ……! 森川! 勝手にこんなとこ来やがって。
今日は休みだから朝から晩までヤッてやるって言っただろうが……!
話を聞いてねえのか!? ああ!? 聞い、て、ねえのか……! ああ……!?」
強調する言葉と怒声は白波より遥かに大きい。
ポケットに手を突っ込み威勢の良い声を上げる。
結衣さんの胸元にある両の手は尋常じゃないくらいに震えていた。
「聞いてんのか!? ああ!? 答えろ……! 聞い、て、ん、の、かよ!?」
ゴリラはジーンズのポケットを弄り小袋を取り出す。
白い粉が袋の半分ほど入っていた。
怯えている結衣さんの前に屈んで袋を振り子のように左右へ振る。
「今回のは強烈だからな。まーた、がっつりイカせてやるからよ……!
何度、吹いてもやめねえからな……!」
と、言い、ゴリラは立ち上がる瞬間に結衣さんの黒髪を引っ張り上げた。
その瞬間、彼女は再び嘔吐する。
僅かに胃に残っていた液体を上半身の反射で体外へ押し出している。
「ちっ、汚えな、クソが! 今日は何回吐いてもやめねえからな……!
これをキメて何回もイカせてやるからよ……!」
『やめて……! やめて! 結衣ちゃんに触らないで……!』
と、背中から何度も殴打するがゴリラは止まらない。
「はっ、逃げられるわけねえんだよ……! お、ま、え、は、一生俺の奴隷なんだよ!
泣いてれば済むと思ってんじゃねーよ! このクソ女が!」
このタイミングを待っていた。
意識は完全に僕から外れている。
ソムさんの言葉を思い出す。
「アサーヒ。ヤルトキハ、キメロ。マヨウナ。イイナ、マヨウナ。
マヨウト、コッチガシヌ。ヤルナラ、キメタラ、マヨウナ」
傀儡のように脱力した結衣さんを恫喝するゴリラの背後に回る。
仁王立ちしているため狙うのは容易だった。
意識の外から彼の両足の間の空気を裂いて、僕の右足は股間を強く蹴り上げる。
迷っていない。迷っていないからこそサッカーでシュートする時のように振り抜いた。
ゴリラも結衣さんも砂浜に倒れる。
ゴリラはきつく目を閉じ口から白波のような泡を出している。
叫び声とも唸り声ともとれるような音で壮絶な痛みを歌い上げ転げ回る。
『結衣ちゃん……!』
と、茜音さんは結衣さんに駆け寄る。
初めて本気の暴力を相手に与えたことで興奮しているが、余韻に浸るわけにはいかない。
ゴリラが立ち上がる可能性は大いにあった。
窮鼠猫を噛む。
再びソムさんの言葉を反芻する。
「アサーヒ、タタカウコトハ、イタイコトダ。
デモナ、タタカエナイ、コトノホウガ、ズット、イタインダ。
マモレナイ、コトハ、イタインダ。
ソレナラ、タタカイ、エラベ。アサーヒ、タタカエル」
のたうち回るゴリラの脇腹を二回蹴り上げる。
鈍い感触が足から脳へ伝わった。人を痛めつけることの痛み。
初めての経験。しかし、容赦はできない。
回復したら、こちらが殺されてしまう。それほどゴリラの体格は良い。
すぐに結衣さんの口元を拭いたタオルで悶絶しているゴリラの手を縛ろうとした。
脂汗なのか、ヌルリとする彼の腕に触れることは不快だ。
さらに、きつく縛り上げるには普通サイズのタオルでは長さが足りない。
『朝陽くん……! あれを使って……!』
と、彼女はギターケースを指差す。
――そうか。あれなら……。
傍らに置いたギターケースのストラップを外す。
背負えるタイプであるから二本あり、素材も腕力で切れる代物ではない。
ゴリラをうつ伏せに倒し、未だ暴れる彼の上に乗り、手を背中に回し縛る。
足を大きくバタつかせたが臀部に乗った瞬間に動きが鈍くなり声を上げる。
股間への攻撃が効いているのだ。
暴れる足を膝下辺りで何度も巻き、外れないようにきつく縛る。
朝方の涼しさはあっという間に奪われ、身体には多量の汗が吹き出てきた。
「結衣さん、これでとりあえず大丈夫です。これは外れない結び方です」
釣りが趣味の父から様々な結び方を教わっている。
父は漁師の人と仲良くなり彼らが使う結び方も伝授されていた。
結衣さんは呼吸を荒くしているから土手まで誘導し水を飲ませる。
カバンからスマートフォンを取り出すと茜音さんが『警察?』と、問いかけてきた。
僕は首を左右に振った。
電話をかける先は新しく連絡先に登録した人だ。
ゴリラは手足を縛られても砂浜の上で相変わらず悶ている。
六コールほどしてから相手は出た。
――はい、平良です。
「おはようございます。砂山朝陽です。朝早くに……すみません」
――朝陽くん、か。どうしたのかな?
「すみません、平良さん。緊急で助けていただきたいことがあります」
『え……平良さん?』
茜音さんには平良さんから名刺を貰ったことは言っていなかった。
「不躾なこととは理解しています」
――構わないさ。きみが頼むのだから余程のことだろう。
きみは私と似ている。他人に安易な考えで頼ったりはしない、そうだろう?
それで、なにを助けてほしいのかな?
要点を纏め伝えると、平良さんは、
「わかった。今から向かおう。時間を要するから先に使いの者を送ろう」
と、穏やかに言ってくれた。
スマートフォンの画面を消す。




