夏の宴 6
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朝の風は心地良い。
日が昇る前に目が覚めて、顔を洗い歯磨きをしてベランダに佇む。
夏休みも残り二日だけれど蝉は相変わらず命を燃やしていた。
湿りつつも爽やかで清涼感のある朝の香りが好きだ。
鼻腔にゆっくり入れていると道路を歩く人物がいた。
日が昇る前の散歩。夏場においては、それほど珍しいことではない。
自宅の前で見かけるのは……これで三度目だ。
頼りない足取りでゆっくりと歩く女性は、立ち止まり胸の辺りに手を当てている。
朝の散歩にしてはずいぶんと不安定だ。
彼女が纏う雰囲気を振り返る。
一度目に会った時の虚ろな表情。
二度目に会ったゴリラに襲われている時の苦しみを帯びた目。
三度目に会った墓場での他者を拒む動作。
庭木が影になる直前で彼女は蹲り、しばらくして立ち上がって緩徐に歩き出す。
室内へ戻りトートバッグにタオルやら財布を入れ扉のレバーハンドルに手をかけた。
『んー、おはよう。早いね』
「すみません。起こしちゃいましたか」
タオルケットに包まる茜音さんに目を向ける。
『んーん。あれ……バッグ持ってどうしたの?』
「ちょっと……出かけてきます」
『朝早く……出かける。なんか怪しい』
身体を起こし覚醒したばかりの目の疑惑は強い。
『いいですか? 何度も言わせないでください。
師匠に断りなく異性交遊は禁止しています』
否定の言葉を出し以前会った女性の様子が気になることを告げた。
茜音さんも共に行くというので、やむを得ずギターケースを持ち階下に下りる。
飲み物を取るためにキッチンへ向かう。
リビングでは母が動画を見ながらストレッチをしていた。
「こんなに早く出掛けるの?」
「うん、ちょっと散歩に」
「ギターを持って……散歩、ね」
と、上半身を横方向に倒し訝しむ。
「散歩ついでの気分転換だよ」
「好きな子にギターを聴かせたい、とか?」
「違うよ。いいよ、その手の勘繰りは」
「いいじゃない。青春、青春。
今の年齢でしか感じられない気持ち、相手を好きになること、大切なことだよ」
「そういうものなの?」
「うん。学生の時の恋愛って一番素敵だと思うよ。
経験していないことが多いから、色々なことが綺麗で美しく見える時なの」
「現実を知ると綺麗に見えなくなるってこと?」
『そういう言い方やめてよ』
と、茜音さんが上腕を小突く。
「んー、どうだろうね。不思議と学生の頃ってキラキラするものなの。
相手を想う気持ち、恋心から生まれる切なさ。一番輝いているのが学生時代だと思うよ。
大人になっても相手によっては感じることができると思うけど」
『お母様、朝陽くんは恋の切なさを理解していないんです。
こればっかりは本人の心持ちですから指導できないんです』
「恋愛は特に相手の気持ちを考えないとダメだよ。
自分本位で要望を無理に通そうとするのは最低だからね。
相手の好意を逆手にとることもダメ。
本当は嫌なことでも、好きな人のためなら、って無理しちゃうこともあるから。
――朝陽はそういうことしないから心配してないけどね」
「まあ、それはわかってるつもり。ただ……それに自己陶酔する人もいるでしょ」
「自己陶酔?」
「好きな相手に雑に扱われたり、傷つけられたりすることで、
自分はなんて可哀想なんだ、って、自分に酔ったり、周りの人に慰められたり。
傷ついてはいるんだけど、その傷ついた自分を愛おしく感じる人。
あえて、傷つけられるような行動を取ってみたり。
一種のミュンヒハウゼン症候群だと思うよ」
「いるけど……さ、そういうこと本人に言っちゃダメだよ」
「言う優しさもあると思うけど。そういう人には言っても意味ないだろうけど」
母はストレッチを止め自身の恋愛観を語りだす。
茜音さんは、うん、うん、と頷きながら同意していた。
「――いってらっしゃい、気を付けてね」
「いってきます」
自宅を出て女性の背中に追いついたのは、しばらく時間が経ってからだった。
ふらふらとした足取りで、先程のように時々立ち止まり頸椎は下に垂れている。
「大丈夫ですかね……」
『うん……そうだね。朝陽くん、どうして追いかけようと思ったの?』
女性と僕たちの間には百メートルほどの距離があった。
「なんとなく……見かける時のあの人の目が……いつも、つらそうだからです」
数回見かけた彼女の瞳は常に何かに怯えていた。
「ストーカーみたいで嫌ですけどね」
『まー、でも、なにかするわけじゃないから大丈夫だよ』
と、抑揚なく言った彼女の視線は前方の女性を捉えている。
その表情はどこか憂いを持ち合わせているように感じた。
綺麗な緑色から変遷した稲は刈られているところもあるし、
黄金色をしたまま風に靡いている姿もあった。
夏は……もうすぐ終わってしまうのだな、と感じた時だ。
田んぼ道が広がる国道を抜け脇道へと足を進めていく女性。
彼女の自宅に向かうには国道を直進していくはずだ。
脇道を抜けていくと僕たちがよく行く海がある。
朝から心地の良い海風に当たる……というより、今の空はどんよりと曇っていた。
無言で女性の後をついていく。
両脇に海岸林が並んだ細道を進んでいくと眼前には波が音を立て迫りくる。
砂浜に女性の姿は見当たらない。
一人もいない砂浜で、いつもの土手にバッグとギターを下ろした時だった。
『朝陽くん……!』
茜音さんの大きな声にビクリと反応し、振り返り彼女の視線の先を追う。
僕は……間髪入れずに走り出す。
足を砂浜に沈ませ頭を落ち着かせようと言葉を反芻した。
焦るな……焦れば最悪の結果になる。
冷静に。冷静に行動することが大切だ。
大丈夫。これを考えているということは落ち着いている証拠だ。
走りながらティーシャツを脱ぎ捨てた。
海水に浸った足は何倍も重くなる。飛沫が目の前まで上がった。
それでも前に前に進み、腰の深さになったところで上半身を海に沈めていく。
肩甲骨を最大限に使用し泳ぐことは久しぶりだった。
昔から凪咲と強制的な勝負をさせられていたから泳ぎには自信がある。
幸いにも波は高くない。
以前は波が高い時でも泳がされ凪咲に助けられたこともある。
目標に到達し泳ぐのをやめた。海水は胸部近くまである。
気付いているのか、気付いていないのか。
おそらく顎の下付近まで海水に浸かっているだろう女性を背後から抱きしめた。
その瞬間、彼女は微かな声を出し暴れ出す。
正面へ回り込むという愚かな行為はしない。
水難事故で助けにいった者が溺れ死亡することは往々にしてある。
それは救助される側が生命の危機に瀕しパニックになり暴れるからだ。
彼女の暴れている理由はおそらく違うけれど。
小柄であるから脇の間に手を入れ海水の浮力と合わせ身体を持ち上げる。
バタバタと暴れているが水を蹴り飛ばしたところで暖簾に腕押しだ。
そのままゆっくりと確実に後退していく。
「――して……! 離し、て……! 離して……!」
初めて聞く彼女の声だった。
その意見を聞き入れるわけにはいかず荒い呼吸のまま下がり続ける。
女性は暴れていたことで体力がなくなったのか、
身体の反応が薄くなり、声だけが前に進もうとする。
『朝陽くん……!』
波打ち際まで来ていた茜音さんは手を上げている。
手を振る姿に大きな安堵と大きな疑問が浮かんだ。
――なんで……。
女性を砂浜まで運ぶと肩で息をしながら身を小さくし俯いていた。
僕も同様に乱れた呼吸を取り戻そうとする。
助けにいったところが波も高くなく、足が着くところでよかった。
これが海水ではなく深い淡水であれば恐れをなしたかもしれない。
そして……助けられていなかったかもしれない。
脱ぎ捨てたティーシャツを拾い上げ首を通す。
ずぶ濡れになった女性は首の下辺りを押さえ小刻みに震えている。
茜音さんは彼女の横に屈んで背中に手を回した。
『結衣ちゃん』
――結衣……ちゃん?
『結衣ちゃん……大丈夫?』
知っているのだろうか。僕は濡れた髪を掻き上げる。
『大丈夫? 海水飲み込んでない? 苦しくない?』
茜音さんの声は当然ながら聞こえていない。
身体は小刻みに震えているが、朝方とはいえ夏の海はそこまで冷たくない。
「あの……。大丈夫ですか?」
「ど……どうして……」
小さな小さな声だ。波の音の方がずっと大きい。
「ど、どうして……助け……たんですか」
濡れた髪の毛の先に水玉ができて、顔を上げる彼女の瞳には憎悪が存在していた。
「どう、して……どうして……」
『結衣ちゃん……』
衣類を身に着けたまま海の中へ進んでいく行為は海水浴が目当てではない。
彼女の反応からするに自らの命を絶とうとしていたことは明白だった。
背中を撫で続ける茜音さんは涙を浮かべ僕に懇願する。
『朝陽くん、お願い、結衣ちゃんの話を聞いてあげて。
なにがあったのか……聞いて。結衣ちゃんは私の大切な人なの』
――大切な……人。
「あの……すみません。遠回しに聞いたり気遣いはできません。
――なぜ……自ら命を絶とうとしたんですか?」
返答はない。
結衣さんは頸椎を曲げ膝を抱え小さく纏まっている。
波の打ち寄せる音だけが会話の空白を埋めていく。
返答はない。今まで会った時もそうだった。そう考えて諦めようとした時だった。
「もう……もう生きて……いられないんです」
弱々しく悲痛な想いが声の中に織り込まれている。
「なぜ……ですか?」
「つらいことしかない……苦しいこと……しかない。
私は……生きなきゃ、いけないのに……。もう……もう無理……なんです」
言葉を出す毎に身体は震えている。
「あの……僕なんかに話しても意味ないとか……話したくないとかあると思います。
でも……僕は聞かなければいけないと思っています。
自己中心的な考えで……すみません。教えてください、なにがあったのか」
腕の中に顔を隠した結衣さんはポツリポツリと声を出していく。
「もう死にたい……死にたい……んです」
「なにが……あったんですか?」
「私は……私は……」
背中を撫で続ける茜音さんの方に結衣さんの首が動く。
二人の視線は合致している。
その姿を視認できてはいないだろう。何かに気付いたのだろうか。
瞳は緩徐に戻り砂浜を見つめる。
「大人になったら……社会に出たら……人を助ける仕事を……したい。
そう思って……そう思って……いたのに――」
彼女は、とある職業に従事していた。
そこに生まれる痛み、悲しみ。人を想うが故に疲弊し身体の軽やかさを奪っていく。
それでも彼女は自身が志した仕事に誇りを持っていたことが話の節々からわかる。
「責任感が強くて……耐えられなくなったということですか?」
彼女は首を横に振る。
「仕事は……好きです。つらくても……大変でも……好きでした。
でも、上司に……脅されて……」
「脅迫……ですか」
「む、無理矢理……」
彼女の声と身体の震えは大きくなった。




