幽霊と僕 7
結ばれた契約の元に……というより僕には利益がないのだけれど。
僕の提案で何ができるのか、何ができないのか、という簡易なテストをしてみた。
まず彼女は重たくない物であれば持てる。
この部屋にある漫画、ボールペン、衣類など。
ペンを使って紙に文字を綴ることもできたが、テストの過程で一つの問題が発覚した。
アコースティックギターが持てない。
『うーん。やっぱり持てないね』
彼女が出てきた物だというのに、どうやら持てないし弾くこともできない。
ギターを触ろうとしても薄い膜が張ったように弾かれてしまう。
例えば、人間は他人を抱くことができる。
しかし、自身を第三者として認識し抱きかかえることができないように、
ギターも彼女と同等の存在として現世にあるということだろうか。
それならば、触れない、持てない、ということにも納得できる。
「これだと作曲は難しいですか?」
『ピアノとかも弾けるけど……ピアノは無いでしょ?
それに、やっぱりギターがいいな』
「別のギターを用意するとか」
『それは朝陽くんに悪いし』
「じゃあ、どうするんですか?」
彼女は目をつぶった後で、ぱっと目を開き笑顔を僕に向けた。
『朝陽くんが弾けばいいよ!』
「弾けないですよ、僕は」
『練習、練習! 大丈夫! 優秀な師匠がいるから!』
「大丈夫って……」
『一緒に作ろうよ! 私の最後の曲! 共同制作!』
茜音さんは両の手のひらをパーンと合わせる。
「一緒にって……茜音さんの曲でしょう」
『私が最後に会うのは朝陽くんになるわけでしょ?
最後に会った人と最後の曲を一緒に作るって素敵だと思わない?』
何度かの拒絶を繰り返しても、彼女の明るさに強引に押し込まれていく。
やはり苦手だ。
『一緒に作ろう!』
結局は共に製作することになってしまう。
「あと……気になるのは、行動範囲と人に触れられるかってことですね」
『そうだね』
「今日、僕がバイト行っている間に出歩きました?」
『ううん。漫画読んでたから。それに家の中を勝手に徘徊したら迷惑でしょ?』
「じゃあ、どこまで動けるか試してみましょう」
茜音さんは返事をするなり『よーし』と、部屋から飛び出す。
追いかけようと立ち上がったが、すぐに扉と壁の間から照れたような笑いで姿を現した。
『えへへ。これ以上、無理みたい』
「歩けないということですか?」
『う、うん。そうみたいだね』
笑顔がぎこちない。
何かしら身体の不調でもあるのだろうか。
「部屋からというより……ギターから、ということかもしれません」
『ギターから?』
「茜音さんはギターから現れたので、ギターから離れることが困難とか。
ありそうじゃないですか、幽霊には」
『そ……そうかもしれないねー』
天井に顔を向ける彼女の様子がおかしい。
「大丈夫ですか? 具合が悪いとか……」
『そんなことないよ……!』
――なぜ、キレる……。
茜音さんは大人びて見えることもあるし、
怒った姿は中学三年生の葉月にどことなく似ていた。
『ここまで……くらいかなー』
「ギターから二、三メートルくらいが行動範囲ということですね」
『じゃあ、ギターは常に持ち歩かないといけないね』
「必要な時だけですよ」
ギターのハードケースは重い。
幸いなことに、このハードケースにはショルダーストラップが取り付けられている。
何かあれば背負うことも可能だ。
――あとは人に触れられるか……。
そう考えた時、後頭部の頸椎付近にある筋肉がきゅっと締まった。
視線を感じる。
ベッドに座る眼前の茜音さん以外からだ。
視線を右方向へ動かす。先程の行動確認によって部屋の扉が少し開いている。
その隙間……暗がりの廊下から小さく白いものが微かに見える。
目……。
人の……目だ。
一つの目がこちらをじっと見つめていた。
「ひっ……」
『どうしたの?』
と、ドアに向け後退りした僕を茜音さんは訝しんだ。
その瞬間に扉が勢いよく部屋の内側へ入り込む。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
――葉月か……。
幽霊かと思った。幽霊は隣にいるけど。
「どうしたのって……なにが? 人の部屋、覗くなよ」
「だって……。今、一人でなにか言ってたじゃん。
電話してるわけでもなさそうだし……」
「言ってない」
「言ってたもん」
「言ってない」
「絶対に言ってたよ!」
――まずい。
「なんか変だよ……!」
「変じゃない」
「絶対に変だよ!」
誤魔化そうと思案した時、茜音さんがすっと立ち上がり扉の前に立つ葉月に近付いた。
「あっ!」
と、僕が大声を上げると、同時に茜音さんの両腕は葉月の身体を捕らえようとする。
しかし、肉の感触を二人が味わうことはなく、
ギターと同様に薄い膜のようなものに防がれている。
「いきなり大きな声出さないでよっ……! びっくりするから!」
「ああ……悪い」
日頃から日焼けしないように気遣っている細い腕は鳥肌を浮かべ、
葉月はそれを消すようにさすり始めた。
「この部屋、やっぱり冷房効きすぎ……」
冷房は使っていない。
どうやら茜音さんという幽霊に襲われた形となった葉月は余計に寒さを感じたようだ。
視認することも触れることもできないが、体温的には感知しているということか。
葉月の頭部を撫でようとした茜音さんの手はやはり止まってしまう。
少し寂しそうな目をしてベッドに座る。
――やっぱり触れないのか。
「それで……なにか用? なんかあるから来たんだろ」
「うん。ご飯できたから呼びに来たの」
「そう。わかった」
「お父さんがさっき帰ってきてね、いっぱい天ぷらにしてるよ。
朝から大漁だったんだって! 揚げたての天ぷら食べられるよー!
お母さんの作ったイカリングもあるから、今日は海の揚げの幸です!」
「朝から……ね」
「うん! 朝早くから大漁だったって!」
「朝から大漁だったんなら午前中に帰ってくるだろ」
「え? どういうこと?」
時々、あることだ。
気を遣って言わなかった僕とは違って、葉月は今まで気付いていなかった。
聡明であっても抜けているところがある。
「店で買ったんだよ。
朝から夕方までやって、一匹も釣れなかったなんて格好つかないだろ」
「そうなの……!? でも、釣ったって……」
「見栄とかがあるんだよ。今まで通り、そっとし――」
「お父さんの嘘つきー! 変態……! 裏切り者ー!」
と、僕の言葉を遮り大声を階段に響かせ階下へ走っていく。
鼻から空気を抜き部屋から出ようとしたところで背後を振り返ると、
茜音さんは右手を閉じては開きを繰り返し静かに見つめていた。
階下へ降りると、葉月に真相を伝えたことで父から糾弾されたが、
それ以上に葉月からの追求と非難を浴びた父は、しょんぼりとビールを啜っていた。
父は体格が良く短く切りそろえられた髪型で精悍な顔つきだ。
身長が百九十近い背中は丸くなり、黒々とした頭頂部が顔を見せる。
食事を終え自室へ戻ると、茜音さんは先程の憂いを消し明るい様子で話しかけてくる。
『やっぱり朝陽くん以外には触れられないみたいだね』
「わからないですよ。データが葉月しかないので」
『うーん。でも、別に問題はないからね』
両足を空中に投げだし、ふらふらと振る彼女の横顔は寂しい。
「どうしますか? これから」
『うーん。とりあえずギターは弾けるようになろうよ。始めたかったんでしょ?』
「まあ……そうです」
『教えてあげる。師匠から弟子に一子相伝しましょう』
夕焼けの宴の清原さんから譲り受けたギター以外に必要な物を購入していた。
教則本、クリップチューナー、ピックなど。
茜音さんは赤色のクリップチューナーを手のひらに乗せている。
『これ、チューナー?』
「クリップチューナーという物らしいです」
『チューナー。今はこんな感じなんだね。私の頃も、このタイプってあったのかな。
耳でやる人もいるけど、誤差が生じるからチューナーを使ってね。
精度の高い絶対音感の人ならいいけど』
「絶対音感に度合いがあるんですか?」
『あるよ。でも、普通レベルならチューナー使わないとダメだよ。
あとチューニングは頻繁に確認するように。
弾く前と練習の合間にも確認……ね。
音がズレたまま弾き続けると、その人の音感が狂うからね』
そこから茜音さんにギターの構え方、ピックの持ち方を教わった。
次に和音……コードというものを教えてもらう。
三つの音からなる三和音、四つの音からなる四和音が基本のようだ。
これは一度、三度、五度で構成され、さらに七度を足すことで四和音になって、
二度、四度、六度を含む和音や五度を増減させたりと様々な組み合わせがある。
指の一つ一つを茜音さんが確認し、押さえる位置を指示する。
『このコードは、この構成音で出来てるから、ここを押さえる、って覚え方がいいよ。
でもね、ギターはピアノと違って、音の位置把握が難しいの、始めたばかりの人には」
「どうしてですか?」
「ピアノは左から右へ順番に音が並んでいるよね。
左から白鍵だけ弾けばドレミファソラシドになるでしょ?
その次はオクターブ上のドレミファソラシドになるよね。
ギターは同一の弦だと横方向に音が並んでいるけど、縦方向はバラバラだから。
あっ、縦方向って、ギターを構えた状態から見て弦の縦方向ね。
六弦から一弦までのこと。
さあ、この関係性を踏まえて考えましょう。
コードを作る際のピアノとギターにおける違いとはなんでしょう。
弟子よ、簡潔に述べなさい」
「ピアノは音の並びが横方向のみなので、横に指を動かすだけでコードが作れます。
ギターは横方向と縦方向があるので、縦と横で音を組み合わせないといけません」
『正解です。今、朝陽くんは、じゃあギターも横方向だけでコードを作ればいいじゃない、
パンが無ければケーキを食べればいいじゃない、と思いましたね?』
三角筋を人差し指で刺される。
「思いませんよ。ギターの構造上、それは不可能でしょう。
一つの弦に対して一つの音しか鳴らないんですから。
三和音を鳴らすには最低でも三本の弦が必要で、必然的に縦方向を選択するしかないです」
『正解です、すごいです。どちらかではなく、パンもケーキも両方食べたいですね』
――どんな無能でもわかるだろう。