夏の宴 2
弁当は有名なアニメーション映画に登場する物と瓜二つであった。
梅干し、桜でんぶ、メザシ、うぐいす豆。
見た目は綺麗だ。しかし、僕は甘い物が、おかずとしてあることが好きではない。
母は好みを知っているはずだけれど、何を思って今日の弁当を作ってくれたのだろう。
このような品目は初めてだ。それに……相変わらず、すべて手作りだった。
梅干しも自家で漬けたものであるし、桜でんぶも魚を煎って食紅で色がつけられている。
お姉さんたちは嬉々として写真を撮っていた。
SNSに上げると声高らかに宣言していたが、いつも疑問に思う。
それらを熱心にやる年齢ではないだろう。何を思って、どのように見られたいのか。
今さら何者かになれるとでも思っているのだろうか。
今まで何もなかったのだから、これからもないと思うのだけれど。
血の滲む努力も有り余る才能も持ち合わせていないのだから。
夢に年齢は関係ない、と、お姉さんたちが熱弁していたことがあるが、
自身を擁護するための惨めで浅い言葉は聞いていられなかった。
年齢を加味せず色々なSNSなどに現れる。
年相応の行動をしてほしい、そう言ってみたいが、喉元から胸中へ戻すしかない。
言ってしまえば血祭りに上げられることは明白だ。
そのようなことを考えていると、自転車は普段の角を曲がらず海沿いの道を選択した。
夕焼けの宴に行ってみよう。
慣れない場で緊張するけれど様々な楽器が照明で輝く店が好きだ。今は別の理由もある。
葉月はいないが、父、母と顔を合わせることは苦痛だ。
横から吹く潮風が頬を撫で、緩やかな坂道を下っていると甲高く短い音が鳴った。
音の出処は対向車線にいた黒塗りの高級車だ。
ブレーキをかけ振り返ると自動車もハザードを点けて停車した。
ガラスウィンドウが下がり、顔を出したのは一度会ったことのある人だ。
平良さん。
彼は自動車から降り左右を確認して僕のいる所まで小走りしてきた。
紺色のスラックス、シワひとつ無い白いワイシャツ。
背筋が真っ直ぐ伸び、それだけでも有能な人物であると認識させた。
「久しぶりだね。朝陽……くん、だったかな」
「はい」
少しばかり微笑む彼の姿に悪意は感じられない。
「今日はギターを持っていないのか」
「ギターは……渡せませんよ」
「そう……か」
微笑みは少し鈍くなり、瞼を閉じた平良さんはゆっくりと頷いている。
「茜音くんのギターを譲れ、とは言わないさ」
予想していなかった言葉だ。同時に身構える。何か裏があるのか、と。
「清原に……言われたよ」
と、眼前の丘の先にある海を見つめた。
「未来ある奴らを傷つけるな、ってね。
きみからギターを奪い取ってフェスをやるなら、めちゃくちゃにしてやる、とね」
ポケットに左手を入れた平良さんは片方に口を上げる。
「疑問に思うかい?」
向けられた目には怒りも憤りも無い。
「そう……ですね、はい」
彼は縁石に腰を下ろし「少し話せるかな」と、僕にも座るように指し示す。
表面がざらついて所々白けた石に臀部を当てると彼は話を続けた。
「茜音くんの……追悼ライブは中止にすることにしたよ」
「え……どうしてですか?」
業界のことは詳しくないけれど、観客への払い戻し、スポンサーへの違約金、
出演者側への謝罪、様々なキャンセル料、多岐に渡るだろう。
「きみからギターを奪うなら、暴れ回ってフェスを台無しにしてやる。
これは清原の三文芝居の可能性もある。彼も流石に……いや、やりそうだけどね。
他にも……新たな問題が発生したんだ」
「なんですか?」
「ある人物がフェス自体を中止にしろ、と言ってきてね。
亡くなって何回忌だから、と、人の死を祭りのようにするのはやめろ、とね。
その人物は長らく日本を離れていたんだが……。
今回の追悼ライブのことを知られてしまったんだ」
鼻を小さく鳴らした彼は続ける。
「まいったよ。オフィスに来て暴れるのだから」
その顔は冷笑ではなく穏やかで清々しい感じがする。
「その人がどのような人か知りませんけど……。
警備もいて一般客がいるのなら、そこまでの暴挙はしないと思いますけど」
「そう思うだろう。それは一般の感覚なのだよ。彼らは常識が欠落している。
特にオフィスで暴れた人物は、ね。
やると言ったことは警備がいようと関係ない。必ず遂行するだろう」
その言葉に思い当たる節があった。
常識にとらわれず我道を貫く者。
「無敵の人、と呼ばれる者がいるだろう。それに近いんだ。
無敵の人とは、なんでも他責にして他人を巻き込む愚か者が多いが……。
彼らは少し特殊でね。行動の無敵さに、己の正義を混ぜる非常に厄介な存在だ」
「清原さんと、もう一人って……」
「――茜音くんのライブをサポートしていたベーシストだよ」
「ミンミ……さん、ですか?」
「なんだ、知っているのか。そう、ミンミだ」
墓地であった物腰の柔らかい……というより緩い彼女の笑顔を思い出す。
「そうだな……逸話は数しれないが……。
例えば、海外のフェスへ呼ばれた茜音くんに同行したことがある。
そこでもミンミは暴れていたよ」
「なにがあったんですか?」
離れていても岸壁に波が当たる音は聞こえてくる。
「会場で他の演者からアジア人を差別する行動をされてね。
私たちは気にしないさ。
自身がどうあるべきかを持ってさえいれば、差別とおもわれることなど些事だ。
自身の価値と差別には一切の関係がないからね。きみは差別というものをどう考える?」
「暴力や殺人に発展する差別は確実に非難されるべきだと思いますが、
精神的なものは仕方ないと思います。
人は身を守るために差別という動きをみせることもあるので。
警戒する感情、それを簡単に否定する人こそ差別であると認識しています」
「きみは……。初めて会った時も感じたが、やはりしっかりとした子だ。
そう、極端な考えは愚かなのだよ。何にでも差別という逃げを使う。
差別という大義を掲げ、他人に強いる愚か者。
差別というのは言葉が強いだけで、本来、人が自己防衛で有するものでもある。
もちろん、嘲笑するために差別するような者もいるがね。
――言葉や表情で一方向からの差別など気にする必要がない。
そこに憂いが生まれても自身を保っていればいい。
私たちだってそうだ。差別など気にしていなかったよ。
むしろ、こちら側もそのような行為をする人物を大いに見下し蔑んでいるのだから。
お互い様だ。しかしね、その外国人は私たちに同行していたスタッフを傷つけたんだ」
頭上に飛んでいる鳥は大きな声を上げ、青空を悠然と飛んでいく。
「優秀なスタッフたちだった。それを見た清原とミンミが暴れて大変だった……よ。
自分よりも、よほど大きい相手でも引くことをしない。
誰が助けてくれるとか、止めてくれるとか、そのようなことは考えない。
訴訟大国でよくやるものだ……と思った。
そういう人間たちなんだ。自分以外の誰かが傷付くと後先を考えずに行動する」
嘲笑うというより感慨深そうに笑う平良さんは眼鏡の位置を指先で調整した。
「これも……ずいぶんと昔の話だが、ミンミが私のオフィスで暴れたことがあってね。
室内を荒らされて私も酷く殴られたよ。
子どものように大泣きしながら殴ってくるものだから好きにさせた。
演奏者にとって手は命であるのに……ね」
「なにが……原因だったんですか?」
「茜音くんの意に反して、他人の曲でアルバムを作り勝手にリリースしたんだ」
――三枚目のアルバムのこと……か。
「茜音くんの願いを裏方として手伝いたい。
多くの人に聴いてもらえれば、多くの人の心に響く。
ただ……それらの想いは行動と乖離していったよ」
過去を振り返っているのか、遠くの空を見て、しばらく沈黙していた。
「いつからだろうな。
彼女の音楽を聴いて……彼女の音楽を世の中に広めたいと思ったはずが、
音楽よりも彼女という存在を広めれば良いなど愚かな考えに至ってしまったのは……」
しっかりとセットされた髪の間を指先が通る。
「彼女の死すらも利用した。愚かな……ことだ、よく理解している。
理解しているのに、理解していないふりをした。
しかしね……人々に忘れてほしくないんだ。
和泉茜音というミュージシャンがいたこと。和泉茜音の音楽を聴いてほしいんだ」
物憂げな様子に返事をできない。
「きみは不思議な子だ」
「え……?」
「私は自身の想いなど普段は話さない、話す必要がない。
他人に理解を求めることなど浅ましいと思うからね」
「どうして……話してくれるんですか?」
「それは……わからないな。きみの持つ雰囲気、言葉にすることは難しい」
目の前の小石を見つめていると隣で微かに鼻から空気を抜く音がした。
「まるで……昔の私を見ているようだ」
「どういうことですか?」
「本心を話さず、話せず、内に秘めて苦しんでいる。
そのような感じだ。私の見当違いかな?」
平良さんの言っていることは当たっている。
本音で話せるのは茜音さんだけだ。
「これから……きみは大人になる」
肯定するために首をゆっくりと縦に動かす。
「個人で動かない限りは組織に身を置くことになるね。
組織には組織の在り方があって好き勝手にやることはかなわない。
それをすれば組織は崩壊する。そして……時には不正を強いられることもある。
正しいことは往々にして非難されることもある」
「はい」
「一つだけ……曲げられないものを持っていないと人は自分を見失う。
きみが今、世の中に対して感じていることを忘れるな。
それは大人になってから必ず役に立つ。
忙しない日々の中で多くの人間は忘れてしまうが……きみは忘れるな。
飲み込まないといけないことは多々ある。
あるけれど……本心とは違うところだけで動く大人にはなるな」
私のようになってほしくない、と、平良さんは笑う。
自嘲している横顔に問いかけた。
「言いたいことって……どうすれば言えますか」
「言いたいこと……か。それは嫌いな相手に対してかな?
それとも大切な相手に本心……吐露したい場合のことかな?」
「…………。嫌いじゃない人……です」
「そうか……それならば、己の弱さを認めることだ」
「弱さ……ですか」
「自分を押し殺す、それは悪いことではないさ。黙することは美学だ。
美学であると同時に果てしない苦痛を伴うものでもある。
ただ、言いたいことから逃げる場合は違う。
己の弱さを晒すことを恐れ、理解してもらえないと決めつけ、
相手に伝えないことは臆病者かもしれないね」
「それでも……言えないことは……あると思います」
「あるだろうね。言葉にすることは怖い。思考を吟味する者ほど簡単に口にはできない。
無知で利己的な者ほど簡単に言葉を並べるからね。
しかしね、言いたいことが芯にあるのであれば、言えない理由を他人のせいにはするな。
いつでも自分が止めている、という事実に気付きなさい。
他責思考はなにも生まない。自分が動かなければいけないんだ。
伝えたい相手がいるなら、しっかりと伝えなさい。
――私みたいに後悔しないでほしい」




