夏の宴 1
あの日は十五歳を迎えた中学三年生の時だ。
「十五歳になったから、と両親から教えられました」
『うん、なにを言われたの?』
「僕は……両親の子どもではありません」
その言葉を音にしたのは初めてで、耳へ入ると改めて実感してしまう。
「葉月は父と母の子です」
言い終わると茜音さんは椅子に座る僕の手首を掴む。
そのまま引っ張られてベッドに座らされた。
『ごめんなさい。朝陽くんのこと知らないで今まで傷つけちゃった……ね』
「傷ついていないです。それに茜音さんは知らなかったんですから」
彼女の頭部は左右に振られた。
『だって……。私……朝陽くんに葉月ちゃんのこと妹じゃないとか言わないでって。
家族なんだから、って……言ったことある』
「それは普通のことですよ。間違っているのは僕の発言です」
『ううん……朝陽くんの心を傷つけた……ごめんなさい』
太腿に彼女の手が乗ると少しばかり力を込められた。
「それまでは……家族じゃないなんて考えたこともありません。
父も母も……葉月も僕の妹。ただ、それを言われてから……」
僕だけ「家族」ではないんだ。と、思った。
今までのことがすべて嘘のように感じた。偽りの家族、という考えが生まれる。
「僕が十五歳になったから話してくれたようです。
教えてくれたことは感謝しています」
いつものように真っ直ぐな黒い瞳を向けられた。
わかっている。その瞳が何を想っているのか。
鼻腔から空気を出しフローリングへ視線を向けた。
去年のことが蘇る。
急に家族で墓参りしに行こうと言われて、自宅に帰った後、四人でソファに座っていた。
「僕の……実の両親は亡くなっています」
瞼の裏側に砂でも挟まれたかのように閉じる。
「今の父は……実の父の弟です」
『そう……なんだ。どうして……亡くなってしまったの?』
「僕が幼い頃……赤ん坊の頃です。大震災がありました」
日本を襲った大規模な天災。
茜音さんが亡くなった後に起こったことであるから彼女は体験していない。
「父は警察官だったようです。警察官として人々の誘導や安否確認をしていました。
そこで……家屋に人が残されていないか……老人が多くいる地域だったようです。
まだ残っている人に声をかけ、身体の不自由な人に手を貸していた。
本部から避難命令が出ても退くことはしなかったそうで、部下に先に行け、と」
唾液を喉に流し込む。
「逃げるタイミングはあったはずなのに……そこで……津波に巻き込まれたようです」
その日のことは動画で見た、と、茜音さんは教えてくれた。
「母は……僕のことを連れて避難所まで逃げたそうです」
『うん』
「母は避難所にいた友人に僕のことを預けて自宅へ戻りました」
『え……どうして?』
「近所の人……まだ、避難できていない人たち。自力で逃げることが難しい人たち。
母も父と同様に助けにいったようです」
『そう……なんだ』
今まで誰にも言わなかった。言う必要もなかった。
「僕は……二人の行動は……」
『うん……』
「二人の行動は正しかったのかなって……」
自室には哀愁を帯びる音楽は聞こえない。
聞こえてくるのは外で鳴く虫と茜音さんの優しい相づちだけだ。
茜音さんと出会った頃に僕が告げた、老人が嫌いという発言。
それは実の両親のことに端を発している。
「実の両親は、まだ……二十代でした。
それなのに長生きをしている老人のために命を落とした。
そのことに……憤りを感じます」
柔らかな言葉で包んでいるが、一旦、言葉に出すと止まらなくなる。
「長生きなんて……すごくも偉くもない。長く生きていることに価値なんてない。
どうやって生きるか……が大事だと思っています。
老人の中には思考することを止め、人に助けられることが当たり前だ、と、
腐った考え方を持ち勘違いしている人もいます。
介護の現場でも認知症という言葉に逃げて、介護士への暴行、暴言、性加害。
介護士さんの人を助けたい、という気持ちを踏みにじる。
助けられることが当然であると、横柄な態度で手助けしてくれる人を侮り見下す。
それなのに……。
――早くに亡くなった両親ですから……僕の発言は矛盾しているとは……思います」
『そんなこと……ないよ』
「なんで……老人を助けるために若かった両親が命を落とすんだ……って。
そこまでする必要なんてなかったんじゃないかって。
老人のために若い人が死ぬこと……僕は正しくないと思います。
今の世の中も……そうです。多くの事柄がそうなっています。
老人のために現役世代が……若者がひどく疲弊する。
これからの未来を作る人が……老人の糧になる。本来なら逆なんです。
そんなの……おかしいんです。おかしい、って声を上げないといけないんです」
助けにさえいかなければ両親は生きていた。
父は職務上のことであるが、話を聞く限り脱出する機を逃すほどの人物には思えない。
最後まで……二人とも最後まで人のことを助けていたのだろう。
喉元が重くなる。唾液で流そうとも心の臓が感情を上に押し上げようとした。
「両親に助けられた人たちは感謝したでしょう。
でも……その感謝は……一時のものにすぎないんじゃないか……って。
僕は……僕には…………」
『うん。朝陽くんにとっては……すごく悲しいことだったね。
生きていて……ほしかったよね』
「両親の……その犠牲は……犠牲は……」
誰かの犠牲は誰かの幸福になって、誰かの幸福は誰かの悲哀になる。
言葉に出せなかった。
フローリングを見つめていると手を重ねられた。
茜音さんの温かくて柔らかな手だ。
『朝陽くん。朝陽くんは……産んでくれたご両親のこと、どう思ってるの?
本当の気持ちで言って大丈夫だよ。ちゃんと聞くから』
重ねられた手は白く細い。
なぜ、そこにあるのか、わかっている。
目から涙が溢れた。
人前で泣くのはやめていた。
泣くことは恥だと思っていた。
弱さを曝け出せば付け込まれる。
世の中はそういうものだ、と思うようになった。
自身の弱さを……認めたくなかった。
溢れてくる涙は止まらない。
それは……きっと……茜音さんの前だからだ。
『大丈夫だよ。ちゃんと聞くよ。私はちゃんと聞くから。
朝陽くんは、どう思ってるの?』
「二人……二人は……」
『うん』
「誇り……です」
『うん』
「僕を産んでくれた……父と母は……ぼ、僕の誇りなん……です」
『うん……そうだね』
涙は止まらない。
両親の行動に疑問を持ちながらも、最大限の敬意があることを初めて言えた。
現実として多くの人の命が救われている。
呼吸が荒くなっているところに優しい香りと柔らかな感触が身体を包む。
『朝陽くん、ごめん……ね。人助けしようなんて簡単に言っちゃって、ごめんね』
彼女は幽霊で冷気を持ち合わせる。
僕にとっては、とても温かい。
彼女の胸の中に収まると背中を撫でられ話を続けてくれた。
『私ね、ずっと疑問に思ってたの。
言葉とは裏腹に人を助けることを本心で嫌がっているようには見えなかったから』
否定するしかなかった。
産んでくれた両親のことで否定するしかなかった。
人を助けることがすべて正しい、とは思わない。
正しい行動、と断言した場合、自身の痛みの置き場を失ってしまう。
世の中に起こる人の痛みを調べ絶えず自身へ入れていた。
事件、事故を調べる。被害者側の感情を考えた。
不条理なことが多く起こる世の中で、実の両親の行動の是非を少しでも確かめたかった。
いくら探し求めても、そこに一切の答えはなかったが、
人が持つ残酷な悪意と多くの人の嘆き悲しみを知ることになる。
深い傷を負う人たちが多くいることを知った。
何かの一助になれば、と、法律のことも勉強するようになった。
『朝陽くんを産んでくれた、お母さんとお父さんはすごいね』
嗚咽が激しくなっても彼女は優しく後頭部と背中を撫でてくれる。
『二人がいてくれたから、朝陽くんが色々な人を助けてくれたんだよ。
二人の優しい想いはちゃんと繋がってる』
疑問符は声にならない。
『二人の想いは朝陽くんに繋がってる。繋がってるんだよ。
今のお父さん、お母さんからも繋がってる。葉月ちゃんも、そうだよ。
だから、朝陽くんに助けられている人がいるんだよ』
涙が止まらない。
泣くことは今抱きしめてくれる人の専売特許であるはずなのに。
『私からお礼を言うよ。いつも人のことを助けてくれて、ありがとう』
彼女の胸の中は温かい。
吐き出した言葉は安心できる声の中で揺蕩っていた。
身体が熱を帯び空中を泳ぐような感覚になる。
人と触れ合うこと。
身体の芯が高鳴り、相手が受け入れてくれることへの幸福に身を委ねていく。
どこまでも。どこまでも。
どこまでも優しく温かった。
*
翌日、アルバイトへ向かうために準備していると、
タオルケットにくるまった茜音さんがこちらを見つめていた。
『今日から葉月ちゃん、葉月会でいないね』
「そう……ですね」
葉月会は本日から夏休み最終日の昼まで続く。彼女はすでに自宅を出ているだろう。
『朝陽くん……葉月ちゃんにもお母さん、お父さんにも思ってること話したほうがいいよ』
ポケットへスマートフォンを入れトートバッグへ財布を落とし声は出さない。
『車に気を付けてね。いってらっしゃい』
「いってきます」
一階へ降りていく。普段なら母の作った料理を食べてアルバイトへ向かうが、
昨日の一件で顔を合わせることができない。
靴を履いていると背後からスリッパの軽い音がした。
「朝陽」
母の声であるが三和土の浅い溝を見つめ立ち上がる。
「朝陽、待って」と、手首を優しく掴まれた。
視界には鮮やかな色がちらちらと入る。
腕の隣に包まれた弁当箱があって、その上には二つのおにぎりが乗せられている。
「いらない……よ」
「ダメ、ちゃんと食べて。今日は、お昼過ぎまでバイトでしょ?
おにぎりは朝ご飯用ね、しそ昆布と鮭だから」
「いいって……」
「ダメ。朝陽が食べないと無駄になっちゃうよ。
それでいいの? 食べ物……生き物を粗末にするような子になっちゃったの?
命を奪っておいて頂かないのは一番しちゃいけないことだよ」
痛いところをついてくる。僕は食品ロスを毛嫌いしていた。
飽食に胡座をかいて、奪った命を簡単に捨てることは認められない。
渋々受け取ると背中に「いってらっしゃい」と、普段と変わらない声が当たった。
視線を落とし扉を開けて夏の陽射しを受ける。
アルバイトを終えて昼下がりの国道を自転車で走り抜けていく。
帰る前にバイト先で食べた弁当は普段と違っていた。
休憩中のお姉さんたち……年齢的には母よりも上だけれど。
お姉さんと呼ばないと怒られる、社会はそういうものだ、と、父から教わっていた。
彼女たちの感嘆とした声が自転車の生む風切り音と共に蘇る。
「え、今日のお弁当どうしたの!? なんか古い感じっぽいけど、きれい!」
「わっ! あれ、あれだ! あれと一緒!」




