幽霊と僕 6
ここに来てよかった。
この場所と隣りにいる女の子には、今の私の状態なんて関係ない。
大いなる自然の中で、幼い子が懸命に賛辞を送ってくれた、という事実だけだ。
「それ、なーに?」
女の子が指差した先には、右手の人差し指と親指で挟んだ白いピックがある。
「これはピック……ギターを弾くためのものだよ」
「きれいな色だねー」
「うん。貝殻で作ったんだよ」
「貝殻で?」
「そう、貝殻。前に海で拾ってね、削って作ったの。ここの砂浜にも落ちてるよ」
「見つけてくる!」
女の子は立ち上がり、砂浜と海の中間へ走っていく。
「危ないから海の近くには行かないでねー」
「うん……!」
小さい背中だ。
私にも幼い頃があった。
無邪気に遊ぶ姿。
誰に虐げられるわけでもない、自分が作り、自分だけが浸れる世界。
結衣ちゃんの動きを眺めていると一つ確かなものを感じる。
成長とは多くのことを知るけれど、同時に大切な何かを捨てなければいけないということ。
結衣ちゃんは時々振り返って私に手を振る。
――かわいいな。なにも怖くないんだね。
――そっか……怖いと思うから怖いんだ。
――ただ、受け入れればいいのかもしれない。
音に遊んでもらう。
感じているすべてを否定せずに音に乗せる。
夢中になればいいんだ。
心から溢れるものを曲に注げばいい。
息を大きく吸い込む。
潮風の独特の香りで肺を満たし、遠くにある曇天が生む湿り気のある空気が肌に触れる。
ギターが泣き始めた。
私の中から流れ出ていく音は、潮騒よりも大きく、
さらさらとした砂浜を飛び越え、翡翠色の海面を走っていく。
誰にも捕まらないように。
*
「茜音さんを成仏させます」
『え、どうしたの? 昨日は嫌だって言ってたのに』
「困るんですよ」
『困る?』
「どういうわけか知らないですけど、僕には茜音さんの姿が見える。
でも、他の人には見えない」
『そうだね。運命の糸、惹かれ合ってるのかな?』
「とりあえず母と葉月は、あなたの出す音などに気付いています」
『惹かれ合ってるところは無視なんだ……。
無視するんだね……。そう……無視……するんだ。
――うん。音のことは、ごめんね』
肩を落とし頭を軽く下げた。
別に責めたいわけでも、謝罪が欲しいわけでもない。
「困る、というのは今後のことです」
『今後って?』
彼女は小さく囓ったチーズパンを飲み込む。
「母と葉月がスピリチュアル的なものやオカルトに心酔したら困るんです。
特に……自称霊能者を妄信したり。
除霊だ、って葉月は騒いでますから」
『それは確かにそうだね。あっち系ってハマると崩壊するもんね』
心霊の類、そのすべてを否定しているわけではない。
エンターテイメントとして真偽を曖昧にして見るから楽しめるのであって、
母と妹が悪意によって、底なし沼に飲み込まれてしまうことは、
笑えないし、阻止しなければならない。
「人の弱みに付け込む人。
そういう人に騙されでもしたら困るんです。
二人は音の正体が幽霊だと思っていますから」
『当たってるけどね』
――確かに。
「だから、成仏させます」
真っ直ぐに茜音さんの瞳を見たけれど、やはり吸い込まれそうなほどに綺麗だ。
急に彼女の顔が緩く解けたかと思えば、
足を一歩前に踏み出し、僕の鼻先を人差し指で押した。
『言ったよね?』
「え?」
『成仏させるって言ったよね? 合計、三回も言ったよね』
不敵な笑み……だ。
これは何かの契約になってしまったのだろうか。
ありえないことではない。相手は幽霊なのだ。
人間が交わす口約束……。
いや、人間と交わす契約より重い、何かの誓約が生まれるのかもしれない。
灰色の不安が頭部をがっちりと掴んでくる。
『途中で辞めるってことは言わないでね』
「それは……。約束しませんよ。
いつでも反故にしていい、という条件付きです」
当然だ。得体の知れぬ者との契約は大きな代償がつきものだ。
それは命かもしれないし、別のものかもしれない。
『だーめ。途中で投げ出されたら、私が悲しくなるし。
例えば、きみのことを愛してるから結婚してくれって言われて、
一週間後に、やっぱりやーめた、って言われたらどう?』
「それは……よくないですけど」
『でしょ? 私は朝陽くんのこと卑怯者って呼ばないといけなくなるよ。
約束を破る、クズで外道の女の子を泣かせる卑怯者、って』
「はあ……。わかりましたよ。約束します。茜音さんを必ず成仏させます」
『絶対に絶対だよ。男の子に二言はないよ』
「わかりました。途中で投げ出しません」
『じゃあ、約束ね』
彼女が差し出したのは、約束にありがちな小指ではなく手のひらだった。
ゆっくりと右手を差し出す。
既成事実を作るために、茜音さんの手が目で追えない速度で掴んでくると思った。
しかし、僕が握るまで手は一切動かなかった。
二人の手が触れ合う。
『よろしく。私を成仏させてね!』
「はい」
この日、僕は茜音さんを成仏させる、という約束をした。
昨日、未練があるのではないか、という言葉を肯定した茜音さんに問いかける。
何に未練があって、何を成さないといけないのか。
彼女の出方によっては拒否することもできたのだろうが、もはや叶わないことだ。
僕は約束をしたのだから。
「未練? うん。私の未練は多分ね……んん」
目を閉じ眉間に皺を寄せている。
その姿さえも可憐に見えるのは容姿が整っているからだ。
ミュージシャンだった彼女だが、映画やドラマに出演する女優と遜色がない。
むしろ、誰よりも美しく見える。
彼女が目を閉じている間は、僕の視線は泳がず真っ直ぐに見ることができた。
きめの細かな白い肌をじっと見つめてしまう。
ずいぶんと……情けない話だ。
『二つ……あるかなー』
「二つですか」
『そう。一つは最後の曲を完成させること』
「最後の曲……作り途中の歌があったんですか?」
『そう、完成させたいの。イントロとAメロの途中までしかできてないから』
これは難しくない。
作曲できる本人がいるのだから。
『大切な人に……届けたい。約束したから』
――大切な人。約束。
約束という言葉から思い起こされるのは、ギターの話をした時だ。
茜音さんは清原さんが約束を守ってくれた、と言っていた。
そのことと何か関係があるのだろうか。
「もう一つの未練はなんですか?」
『うん、人助けをすること』
「人助け……それは漠然としすぎです」
『どうして? 人助けは人助けだよ』
「誰を助けたいとか……」
『困っている人、泣いている人、苦しんでいる人だよ』
「はあ……だから、誰を」
『困っている人、泣いている人、苦しんでいる人だって』
困っている人。
そのような人はいくらでも世の中にいる。
すべてを助けるなんて不可能だし、助ける必要もない。
自身に関係ない人を助けるというのは、僕からすれば容認できない話だ。
本来であれば、認めるわけには……いかない。
「何人の人を助けたら満足して成仏するんですか?」
『そんなのないよ。わからないもん。
でも、見て見ぬ振りをするのは恥だよ。日本人の美徳から離れてしまいます。
まず、これを覚えましょう』
「覚えましょう……って。嫌なんですよ。人を助ける……無理です」
『無理でもやるの。私は幽霊だから、朝陽くんが助けるんだよ』
人助け……という言葉に強く反応してしまう。
内側から言葉が溢れ出てきてしまう。
隠しておけばいいはずなのに。
「人のために……ですか。本当にそうですか?
人のためにって、結局は自分のためにじゃないんですか」
『どういうこと?』
「人のためにと言いながら、人からよく見られたい、人から好かれたい。
自分のためですよ、それ。言葉で繕っても結局は自分の利益のためなんです」
そうではない人がいることを知っている。
知っているはずなのに言葉は止まらなかった。
『ううん。私は人のために動きたい』
と、怒るわけでもなく首を小さく振る。
「なぜですか?」
『私が今まで経験した苦しいこと、悲しいこと。
そういうのがあるから、困っている人や苦しんでる人を放っておけない。
――痛みを知っているから助けたい』
「茜音さんには直接関係ない人でもですか?」
『うん、助けたい。
痛みを抱える誰かを助けるために動きたい。
そういうの変だと思う?』
答えられない。
人を助けたい……か。
助けたところで、そこに新たな悲しみが生まれることもある。
確率は、ずいぶん低いとしても。
その僅かな可能性を彼女は理解しているのだろうか。
誰かの犠牲は誰かの幸福になって、誰かの幸福は誰かの悲哀になる。
約束しなければよかった。
早くも後悔の念が体外へ飛び出そうとする。
その反面、このまま彼女を放置しておくこともできない、と考えてしまう。
「わかり……ました。そこまで言うなら……」
『じゃあ、最後の曲の完成と人助けをする、ということで交渉成立だね!』
「やります……よ。茜音さんがそれで成仏するなら」
『はい。潔くてよろしい。
朝陽くんは弟子なんだから、今後は私の言うことをしっかりと聞くようにね。
さっきみたいな口答えは許しません』
――弟子?
「どういう意味ですか?」
『そのままの意味だよ。私が師匠で朝陽くんが弟子』
――なぜ師弟関係に。
『私が色々と指導してあげよう。人生の先輩として』
――年齢は大して変わらないだろう。生きた分は。
にっこりと笑う茜音さんには悪意など微塵もないのだろう。
その笑顔が僕には眩しい。
人の持つ温かさ。
それは言葉や表情、態度などではなくて、目に見えぬ何かがあるのだと思う。