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幽霊と僕 5

 母が普段よりも声色を暗くしていることに葉月は気付いているのだろうか。

自身が語る世界観へ導くために、作られた声ということに気付いているのだろうか。


「朝陽の部屋に入ると、いつもと変わりなかった。

そう……変わってないと思ったの。

信じたかっただけなのかもね……実際には違ってた」


――その語り口はなんなんだ。


「なにが変わってたの?」


「本……漫画が机の上に積み上げられていたの。何冊……も、ね」


「漫画? 別に変じゃないじゃん。お兄ちゃん漫画いっぱい持ってるし」


 伏し目がちになっていた母の目は再び僕へ向けられる。


「朝陽は本棚から一冊ずつしか取り出さないでしょ?

一冊読んだら一冊戻して、新しく一冊取り出す。

子どもの頃、絵本を読んでる時もそうだったから」


「そんなの成長して変わったんだよ、きっと。

ね、お兄ちゃん」


 葉月の希望的観測に軽い首の動きでだけで否定する。


「片付け忘れただけでしょ?」


 葉月は疑惑の目を向けている。


 母は料理途中であったためか何粒か水分が浮かんだ手を撫でて、

「それだけじゃないのよ」と、静かに言った。


「――タオルケット」


「タオルケットがどうしたの?」


「朝陽は起きると必ず畳んでいるでしょ?

葉月はそのままだけど。

タオルケットが畳んでなくて乱雑にベッドの上にあったの」


「それだって朝だから急いでて忘れただけでしょ」


「朝陽は自分で時間通り起きて支度できるから……。 

今日の朝だって時間通りに下りてきたもんね」

と、母は眉毛を下げ僕を見た。


「まあ……余裕をもって起きているから」


 三人は無言になった。

 

 キッチンの蛇口から一滴の水がシンクにポタリと垂れ、

それだけで葉月は音の方向に鋭く反応した。


「ひゃぁいー!」


「うるさい」


「だって……だって、怖いんだもん! お兄ちゃん、怖くないの?」


「怖くないよ」


「もしかして……女の子、家に連れ込んでるんじゃないの、お兄ちゃん。

それが音の正体……!? こそこそしてサイテー、変態!」


「連れ込んでない」


 アコースティックギターから勝手に出現したのだ。


「か、彼女……さん?」


「違うって」


「じゃあ、誰かが潜んでるってこと?」


 葉月の不安気な顔を払拭するために母は否定する。


「ううん。二人が危ない目にあったらいけないから全部見たよ。

クローゼットの中、ベッドの下まで隅々ね」


「なにもいなかったの? いても嫌だけど」


「うん、なにもいなかった」


 タン、タン、タン。


 母の言葉の後で真昼に聞こえたであろう音が三人の耳に飛び込んできた。


「い、今の音……?」と、葉月は顔を引き攣らせた。


 母は肯定し頭上を見上げる。


「なにかが……いるってことだよね……」


「うーん、でも、二人が帰ってくるまで全部の鍵の確認して玄関も閉めてたから……」


 僕たちが帰宅した時に玄関の鍵は施錠されていて、

インターホンを鳴らそうとした葉月を制止し、僕がポケットから鍵を取り出して解錠した。


「え、っていうことは、内側にいるってことだよ……!

鍵かけても意味ないよ……! 実際に今、足音したし!」


「気のせいだよ。あの音は家鳴りとか、そういうのだから」


「家鳴り、ってなに?」


 なぜか葉月は苛立つ様子で聞いてくる。


「木材の膨張と収縮で起こる現象。

この家は木材が使われているから、水分を吸ったり吐き出したりするんだよ。

その時に発生する音。だから、気にすることない」


「あんな風に足音みたいに鳴るの?」


「それは……どうだろう」


「じゃあ、違うかもしれないよ!」


「違うかもしれないし、合っているかもしれない」


「お母さん……!」


 葉月は母に強く確信を持った目を向け高らかに声を上げた。


「幽霊! 幽霊がいるんだよ……! それしかないよ!」


――そうだよ。当たってる。


「幽霊って……今までいなかったのに。どうしていきなり……」


――幽霊自体は否定しないのか。


「絶対に幽霊だよ……! 幽霊! 除霊……除霊しないと……!」


――できるならしてくれ。


「除霊っていっても……ね。

調味料の塩は高いやつだから……漬物用の粗塩でもいいのかな?」


――問題点は……そこなのか。


「取り憑かれて殺されちゃうよ!」


――少なくとも取り憑かれて殺されるのは僕だ。


 何度も繰り返し騒ぎ立てる葉月を宥めつつ、母は料理を手伝うように促した。

二人の意見は割れつつも肯定、説得、疑念などを繰り返す。

その様子を横目に一つの決心をしてから自室へと向かう。


 扉を開けると茜音さんがベッドに仰向けに寝転び、真剣な表情で漫画を読んでいた。


『あっ、おっかえりー』

と、目だけを僕に向けた。


 視線は絵の世界に戻っていったが、

『女の子の部屋に入るならノックしてよ。マナーがなってないよ、エッチ』

と、僕の部屋であることをすっかり失念している。


 先程の騒動など知る由もない彼女はページを捲っていく。


『――今ね、桃ちゃんが刺されちゃったの。

信じてたのに……裏切るんだもんね。

でも、彼の言葉ってハッとさせられるよね』


 ベッドに座った茜音さんに左手で持つコンビニの袋を渡す。


『なに?』


「幽霊も……もしかしたら、お腹が減るかな、と思って」


『わっ、ありがと……!』


 彼女は「食べられるのかな……」と言いながら、

恐る恐るチーズのパンを手にし口内へ迎え入れた。


『うん、食べられる。おいしい』

と、笑顔で咀嚼し、フルーツ牛乳も体内へ染み込ませている。


 どうやらパンも飲み物も持てる……そもそも漫画を手にしているのだから物は持てる。

収穫としては、幽霊という存在でも飲食物を摂取できるのだということだ。


『――やっぱり優しいよ』


「え……?」


『人のために……なにかをしたくないって言ってたけど、

私のこと考えて買ってきてくれたんでしょ?』


「違います。それに茜音さんは人じゃないですよ。

昨日、自分で言っていました」


『あー、傷つくー。その言い方。人じゃないって』


 小麦を口内を満たした頬のせいか、彼女の顔から幼さが生まれているような気がした。


「あの……」


『なに?』


「いえ……」


『うん? あっ、パン? はい、どうぞ』


 もう一つのメロンパンを渡そうとしてくるが、

人に差し出した物を欲するほど愚かでも強欲でもない。


「あの……」


『こっちのパンがよかった?』


「いえ……」


『飲み物?』


「成仏……手伝いますよ」


『え……?』


 茜音さんを成仏させます。


             *


 どれだけ足掻いても生まれてこないものがある。


 いつからこうなってしまったのだろう。


 歌うことが好きで始めた音楽は、いつからか自分のためではなくなった。


 私は誰かのために……歌っていたかった。


 和泉茜音として歌を届けたい。


 焦れば焦るほど逃げていく音も詞も捕まえることができない。

二兎を追う者は一兎をも得ず。その言葉が相応しい。


 私は一日だけ逃げ出した。


 八月の気配に誘われて潮風が吹く町へ足を向けた。

都会の淀み濁った空気とは違って、酸素の濃い爽やかな香りがする。

右側にある濃い緑がクスクスと笑い、蝉の合唱団が真夏の風と共に歌っていた。

道路から見える大きな海。

右側にある翡翠の海には白い泡沫が色味を与え、青空と共に私を挟み込んでいる。


 炎天下の中を歩き続ける。

都内から自動車を走らせてきたところまではよかった。

失敗したのはギターのハードケースとクーラーボックスを持ち歩いていたこと。


――ああ、暑い……。重い……。でも……海の前で弾きたい……。


 麦わら帽子を突き刺す陽射しが頭部を温め、額には汗が次々と浮かぶ。


 駐車場が完備されている海水浴場は候補から外すしかない。


 誰もいないところが望ましかった。


 一人で音と向き合いたい。


 音が私を迎え入れてくれる。

 

 海岸林が並んだ県道から、海の声だけを頼りに脇道へ入っていく。

軽自動車も入れない程の道を進んでいくと、目の前には大きな海が広がっていた。


――わあ、やっぱり綺麗。懐かしいなー。


 急に身体が軽くなり、あれほど重たかった荷物も天へ引っ張られていくように感じる。


 砂浜へ突入すると何千、何万、何億の粒が寄り添い声を上げた。

周囲を見渡したところで、あるのは砂の道が延々と続くだけで誰一人としていない。

砂浜にある土手にレジャーシートを敷いて、

ハードケースからアコースティックギターを取り出す。


 Dメジャーを押さえて四弦から一弦までピックで撫でる。

私の中で真夏をイメージする和音はDメジャーで、夕暮れ時に蜩の鳴く寂しさはBmだ。


 適当に和音とアルペジオを織り交ぜ、静かな鼻歌で曲の断片を生み出していく。


 傍らにノートとペンを用意して。


 いつもと変わらない。


 弾いても歌っても変わらない。


 自然の中でなら新たな楽曲を生み出せると思ったけれど、そう単純でもない。

自身が思い描く音、思い描く歌詞は絵の具で七割塗り潰されていた。


 胸の途中で引っかかっている。


 まるで、隠れている蓑虫のように。


 曲は作れる。作れないことはない。

ありきたりな和音、聴いたことのある旋律、逃げ腰の譜割り、

平凡な歌詞、単調な歌い回し。

どれも簡単だ。誰にだってできる。


 でも……私は。


 私の音楽を好きでいてくれる人たちに真摯でありたい。


――やっぱり……だめなのかな……。


「――おねえちゃん。お歌……歌うの?」


 ギターを抱え俯いていた私の背後から声がした。

振り返ると小学校低学年ほどの女の子が微笑んでいる。


「うん。歌うよ」


「聞きたい! 歌って……!」


 白地に薄い桃色の花が施されたワンピース。

まだ幼く小さい身体で駆け寄ってくる様が愛おしい。


 隣に座った小さい女の子に問いかける。


「なにがいいかな。好きな曲とか知ってる曲ある?」


「んー……パッヘルベル……! バッハ! リスト……!」


「そ、それは歌えないかな……」


「えー!」


――クラシックやってるのかな……。


「ごめんねー。じゃあ、これはどうかな?」


 女の子が知っていそうなアニメ映画の主題歌を歌う。

ギターを優しく撫でて、旋律に声を与えると女の子は小さい手で拍子を合わせてくれた。

身体を微かに揺らしながら。

その動作が愛おしくて、私まで笑顔になってくる。


 私は笑っている。


 私は笑っているんだ。


 久しぶりに意識しないで、普通に笑っていることに気が付いた。


「すごーい! じょうず……! おねえちゃん、すごーい!」


「ふふ、ありがとう」


「もっと聴きたい!」


「えーと、じゃあ次は……これとか」


 次の曲も人気のあるアニメ映画の主題歌を演奏する。


 一人に届けられる音楽。


 私の心はずいぶん軽くなっていく。


 自身の楽曲ではなくても、新たな曲が生まれなくても、

他人のカバーでも喜んでくれる人がいる。


「お名前はなんていうの?」


「結衣……!」


「結衣ちゃん。私は茜音、和泉茜音っていうの。よろしくね」


「うん! よろしくおねがいします!」


「ちゃんと挨拶できて偉いね。結衣ちゃんは、一人で来たの?」


「うん……! 家が近くだから! おねえちゃんは?」


「私も一人だよ。少し……疲れちゃったから海でも行こうかなー、って」


「ふーん。そうなんだー。おねえちゃん、歌う人なの? お仕事?」


「そうだよ。一応、プロのミュージシャン。

えっと……歌手っていったらわかる?」


「うん……! わかる……! おねえちゃん、すごーい!」


「ふふ、ありがとう」



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