降雨の夏 18
「お婆さんが仮に結婚しても……それほど勇敢な人物であれば、
咎めることも露骨に妬むこともなかったと思いますけど」
「勝手に……約束したのよ。
もし、天国や地獄があるなら……私が死んだら今度は一緒になりましょう、ってねえ」
『お、おばあちゃん』
と、今度は茜音さんの声が震える。
「すみません、酷いことを言うようですけど、
死後……なにもなかったら、どうするんですか?」
「それはそれでいいのよ。自分が貫いたことだから……ねえ。
恥ずかしいことじゃないわ。
それに……少しだけ希望があるのも嬉しいものよ。
死んだら、また……あの人に……会えるかもってねえ。
誰かと一緒になっていたら、どちらに対しても不義になるじゃない」
『お、おばあちゃん、会えるよ、きっと会えるよ……!』
墓地に到着し火を移した線香を用意した後で、その場を静かに離れた。
『気が利くね……朝陽くん』
と、茜音さんは先程のお婆さんの話によって生まれた雫を蓄えている。
「二人で話したいことがあるでしょう。邪魔はしたくありません。
八十年も……相手のことを想っているんですから」
『そういうところ好きだよ』
「え?」
『ちゃんと相手のことを考えている朝陽くんは素敵だよ。
世の中の多くの人は我が、我が、って前のめりすぎる。他人を気遣うことができない』
「その気遣い、善意を悪用する人も多くいますけどね」
『まー、そうだけどね。道端とか施設内とかで蹲っているおじさんとかね。
駅のホームとかにもいるし』
ちらりと茜色さんを見る。
『病気のふり、具合の悪いふり、をして若い女の子からの声掛けを待っているんだよ。
声を掛けてきたら助けてもらうふりをして身体を触ったり。
トイレとかに連れ込まれて暴行されたり。ストーカーになる場合もあるし。
本当に気持ち悪いよね』
お婆さんの様子を窺う。墓石に向かい口を動かしていた。
小豆色のカバンから白い袋を取り出し饅頭らしき物と果物……いや、トマトを供えている。
当時は甘い物、砂糖が貴重だった。
元々、本土における生産量が少なく戦争が始まったことで輸入が厳しくなる。
諸説あるれけど当時の闇市では米一升、一・五キロが五〇円から七〇円であり、
砂糖は約三・七五キロである一貫目で千円という異常な値段だった。
現代の値段に換算すれば、米一升で約二万円、砂糖は一貫目で約三〇万円近くになる。
今は飽食の時代となり基本的には多くの人が不自由なく物を食べられる。
戦争を経験していない世代。
貧しい時を経験していない世代。
僕たちは多くの痛みを経た人たちの上に成り立っている。
同時に今の世代も新たな痛み、苦しみと戦っていた。
お婆さんの拝む姿を見ている。先程、言っていた天国や地獄。
もし、生まれ変わりがあるとするならば、二人は巡り会える日が来るのだろうか。
しばらくして、お婆さんはこちらを見て深く頭を下げる。
茜音さんと共に向かい「どうも、ありがとねえ」と、お礼を伝えられた。
手には古ぼけた布を手にしている。花模様の……それは酷く変色していた。
「あの……それは」
と、視線でお婆さんに尋ねる。
「ああ、これはねえ。あの人に貰った……というより、返してもらった物なのよ」
どういうことか、と、さらに尋ねる。
手のひらサイズの花模様の布は、元々お婆さんが彼の服の裏側へ刺繍した物らしい。
それを戦争へ行く前に外し彼女へ渡した。
「帰ったら、それをまた服に縫ってくれ」
お婆さんはその後、自身の衣服の裏側へ縫い付けたらしい。
彼が頂いた物を返した理由。自身とお婆さんを繋ぐ物であったからかもしれない。
「あの人は男の子だったのに嫌がらずに喜んでくれてねえ。
ふふ、あの人が側にいるようで……それで自分の服の裏側に縫い付けたの。
あの時代はねえ、こういう物……服に装飾することが許されなかったのよ」
「戦争中だから慎ましくしろ、贅沢はするな、という意識の表れですか?」
「そうねえ……着飾ることは許されなかったのよ。
でもねえ……年頃の娘は少しでも可愛くいたいじゃない」
お婆さんは少しばかり声を漏らし笑った。
「外には付けられないから、服の裾の内側に縫い付けて、お友達に見せていたのよ。
他の子たちも隠れてお洒落……今では考えられないかもしれないけどねえ。
私たちからしたら……そんなこともお洒落だったのよ。
でもねえ……ある日、憲兵さんに見つかってしまってねえ……」
「憲兵……ですか。大丈夫だったんですか?」
「もう……顔から身体から全部殴られて……血だらけよ。
ふふ、後で鏡を見たら歯も折れて、顔なんかパンパンに腫れ上がってねえ。
目も開けられないくらいだったねえ……」
『ひどい……』
と、茜色さんは口を押さえた。
「でもねえ……彼の……このワッペンの花だけは渡せないからねえ。
服を剥ぎ取られても……必死で守ったの。本当に殺される、と思ったけどねえ。
それでも必死で奪い取って……なんとか守れたの」
と、お婆さんは感慨深そうに頷いた。
戦時中とは、そのように国民の統制を図っていたのだろう。
同調、監視、強制、暴力による支配。特に憲兵というのは民に対し支配力を持つ。
それが故に職務というより、暴力行為に対し悦に浸る部分があったのではないだろうか。
暴力における興奮、支配欲。
以前、大学生風の男性が言っていた「権力は腐敗する」という言葉を思い出す。
「その人がいてくれたら、お婆さんのこと……助けてくれたと思います」
「そうねえ……あの人は勇敢な人だったから……。
きっと助けて……ううん、助けてくれたねえ」
墓場を後にして車椅子が日陰に入るように樹木が並んだ道側へ渡る。
「もう……お墓参りは今年で最後になるねえ」
お婆さんがポツリと呟いた。
「どうしてですか?」
「もう……自分で、お墓まで行けないからねえ。
最後にあの人のところに行けてよかった。どうも、ありがとねえ」
お婆さんを顔を横に曲げ背後にいる僕に頭を下げた。
「また……来れますよ、来年も」
「ん……?」
「――ご迷惑じゃなかったら来年も僕が付き添いますよ。
建前ではなく……約束します。
嘘をついて人を喜ばすことは嫌いなので、自分で言ったことは実行します」
「そんな……悪いよ。気持ちだけで十分……よ」
「いいんです。僕は……言われているので」
成仏を手伝うことを告げた時……最初に言われたことだ。
「なにをだい?」
「見て見ぬ振りをするな、って」
「それは……良いご両親だねえ」
「違います。ある人が……言ってくるんですよ。人助けをしろって。
すごく騒がしくて面倒くさい人なんです。すぐ怒るし、すぐ泣くんです」
後頭部に強烈な手刀が落ちた。
自宅まで送り届ける。
玄関にギターケースを立て掛け「家の中まで送るので背中に乗ってください」
と、車椅子から離れるように促す。
お婆さんは驚くほどに軽かった。
「悪いねえ……本当に。ありがとねえ」
「したいから、しているだけです」
途端にお婆さんの声は震えた。
「ああ……あの人の背中みたいだねえ。
一度だけ……あの人に背負ってもらったことがあるのよ。
山で山菜を取っていて……足をケガして帰れなくなって……ねえ。
夜になって怖くて泣いていたら……あの人が一人で迎えに来てくれて……。
もう大丈夫だよ、ってねえ」
『お、おばあちゃん……』
「自分に厳しくて……人には、とても優しい人だった。
勉学も武道もしっかり学んで周りからも尊敬されていた。
でもねえ……死んでしまった。
何十年経っても……あの人のこと考えると……涙が出てくるのよ。
――ふふ、涙は枯れない……のねえ」
「会いたい……ですか?」
「ええ、もちろん。いつでも……いつでも会って話したかったねえ」
『おばあちゃん……』
お婆さんはモモダーや菓子類を持たせてくれた。
貰い物で申し訳ないと言っていたけれど、茜音さんはとても喜び帰り道で飲んでいる。
「――茜音さん……生まれ変わり、ってありますか……ね」
『生身の私に会いたいの?
今から生まれ変わって二十歳になって……そしたら朝陽くんは三十六か七だね。
年の差あるけど……別に大丈夫だよ、私は気にしないし』
「違いますよ。お婆さん、恋人と会えたら……いいなって」
『うん……会えたらいいよね』
「天国などではなくて、生まれ変わりがあるなら。
次は二人が結婚して、子どもが生まれて家族になれたら……いいかな、って」
『朝陽くんはやっぱり優しいね、私もそう思うよ』
「優しくないですよ」
自宅に帰ると凪咲の姿はすでに無く、夕食を共にできず葉月は嘆いていた。
凪咲は母の作る料理が好きだ。そもそも彼女は食に関して相当うるさい。
中学校時代も他のクラス、学年問わず、残った給食を探し求めていた。
食品ロスが減るから、その行動に関してだけいえば彼女を称賛している。
それほどの人物が夕食を食べていかなかったことに違和感を感じた。
部屋でギターを弾いていると葉月が珍しくノックし入ってくる。
「お兄ちゃん……あのね、なぎちゃんのことなんだけど」
「なに」
ギターを弾いている時に入ってくると演奏を強要してくるけれど今は様子が違う。
「なんか……なぎちゃん……元気なかったよね」
「あるよ。相変わらず攻撃的だし、僕は蹴り飛ばされたんだから」
「それは……ごめんね」
葉月は凪咲のことで代わりに謝ることが多い。
「あんまり気にするなよ。大体さ……元気がない人がこんなことするのか?」
自室のパソコンには大量の付箋が貼られている。
色の違う紙に卑猥な名称などが列挙されていた。
あまつさえ、ガラステーブルの上に大量の避妊具と潤滑剤が置かれている。
僕は呆れ片付けることをしていない。
「なぎちゃん……大丈夫かな」
「その点は大丈夫だよ」
「え?」
「凪咲は異常者なんだ。
ちょっとしたことで落ち込むような人間じゃないだろ」
少しのことで憂いを持つ人間ではない。
彼女は悪魔を体現した人物なのだから。
*
潮風が吹く中でギターの音色を乗せる。
少し前に朝焼けが顔を出し僕たちを照らしていた。この時間帯の海も綺麗だ。
「これで大まかな流れはできましたね」
『うん。いい感じだねー』
と、茜音さんは好物のモモダーを口に含む。
仮歌詞として英語を当てている。
本来の茜音さんの楽曲の作り方としては、歌詞とメロディが同時に生まれ、
後で歌詞の添削をしたり、言い回しを変えるという作業らしいのだが、
二人で作っているということもあり、メロディとコードの流れや構成を先に決めた。
とても美しいメロディは健在だ。
『ふふ、よかった』
「なにがですか?」
『私のメロディは……無くなってなかった。
ううん、与えられたもの、だね』
「与えられた?」
『そ、与えられたの。貰ってばっかりだよ』




