降雨の夏 17
「凪咲のキジ事件を思い出したので……今の話もしてみたかったんです。
僕は……そのキジを仕留めた張本人なので」
『え、そうなの?』
「はい。最初から食べる目的で捕まえたようですけど。
さすがに……凪咲でも目の前の温かい命を奪うことには抵抗があったみたいです。
凪咲が中途半端に力を入れてしまって……。
それ以上苦しまないように僕が奪い取って息の根を止めました。
まあ……その後、首を落として羽を毟って焼いて食べたのは凪咲ですけど」
『そう……だったんだ』
「すみません。話を聞いてくれて、ありがとうございました」
一歩前に踏み出し、すぐに振り向き彼女は微笑んだ。
『いいよ、いいよ。そういうことも話そうよ。答えは見つからなくてもいいの。
色々なことを考えるって生きていく上で大切だよ』
ハミングしながら僕の前を歩いていく。
『ね、朝陽くんは世の中のことを考えてる。すごく良いことだよ。
これから大人になるまで……大人になっても、いっぱい考えていけばいいよ。
考え方が変わるかもしれないし、答えも見つかるかもしれない。
私は朝陽くんのことを応援するよ』
その言葉が胸に鋭く刺さる。
茜音さんの軽やかな足は止まった。
『ね、最後に一つだけ、意地悪な質問していい?』
「いいですよ」
『胡桃ちゃんと私。二人が崖から落ちそうです。
どちらか一方しか助けられません。どちらかは絶対に死んでしまいます。
――朝陽くんは……どうしますか?』
彼女は振り返らなかった。いつものように微笑むこともない。
目に映るのは陽光が点在する背中だけだ。
僕は視線を落とし歩みを止めた。
風は木々を笑わせるだけで言葉を乗せていかない。
『――ごめん、ごめん。本当に意地悪な質問だったね。
最低なこと言っちゃった。忘れて。本当に……ごめん……ごめんね』
背中が少しばかり小さくなる。
ギターから離れられない彼女は一定の距離を保つしかないが、
その後ろ姿はずいぶんと遠くに見えた。
「――ますよ」
細く頼りない声は蝉に消されてしまうほどだ。
『え?』
と、茜音さんは振り返った。
「二人とも助けますよ」
『え……だ、だーめ。二人は助けられないの』
「それなら……二人を引き上げて僕が死にます」
なぜ……このようなことを口走っているのだろう。
ありえない。ありえないんだ。
人のためにすることを否定している、はずだ。
誰かの犠牲は誰かの幸福になって、誰かの幸福は誰かの悲哀になる。
『今の答え……教えてあげようか?』
白いサンダルでアスファルトを踏み一歩一歩と近付いてくる。
僕の鳩尾に彼女の人差し指がトーンと触れた。
『胡桃ちゃんを助ければいいの』
「どうしてですか」
ギターケースの取手を持つ右手には力が入る。
『だって、私は死んでいるんだよ?
助けるのは胡桃ちゃんだよ。わかりきってること』
目を合わせることができなかった。
『嬉しいけど……さ。私のこと……そこまで気遣ってくれなくていいんだよ』
薄黄色のワンピースから覗く白い肌、微かに浮かぶ鎖骨を見つめた。
いつも隣りにいる。
周囲の状況で気にすることはあるけれど、僕からすれば生きている人と変わらない。
変わらないんだ。
「…………。助けますよ」
『え……』
「そんなこと関係ないです。生きているとか……死んでいるとか関係ありません。
茜音さんのこと……助けますよ」
日陰の中で吹く風は僕たちの間を優しく流れている。
『そ、それって……』
と、真っ白な肌である頬が薄桃色に染まり首を曲げている。
『それって……それってさ、愛の告白?』
問いかけに答えず足を動かし彼女を越えていく。
『ねえ、ねえ、待ってよ。今のって告白?』
右後ろから声が入ってくる。
「違いますよ。どうして曲解するんですか。
どちらを助けるか、という話で、二人とも助けます、っていうだけですよ」
『だから、二人は助けられないの。ルールを無視したらダメだよ』
背後から軽い足音が追ってくる。
本当に茜音さんは人として存在しないのか、と思うことがあった。
『ねえ、どういう意味で言ったのか、ちゃんと教えて。
ちゃんと聞きたい、朝陽くんの言葉で聞きたい』
「さっきも言いましたよ」
『本当の気持ちを教えてほしいの……! ちゃんと言ってほしい……!』
「…………。そのままの意味で受け取ってもらえれば大丈夫です」
『…………。もういい。もう知らない。もう話してあげないから』
僕を追い越し地面にある豆粒ほどの小石を投げてきた。
これほど近くにいて触れることもできる。
最近……よく考えることがあった。
それは人類が深海を目指すことより難しく、とても叶うことのない願いだと思う。
*
『まだ帰らないの?』
「帰りたいですか?」
『ううん。デートだから帰りたくない。どこかに泊まっていく?』
「凪咲がいつまでいるか、わからないので……帰りにくいんですよ」
『お泊まりとデートはスルー、ね。スルースルー、シースルーはスルメイカ』
森林に囲まれていた道を抜け民家が点在している道路を歩く。
昼過ぎの田舎道を出歩く者など皆無だ。
自動車移動が主流であるし真夏ともなればなおさらだ。
一日を通してもジョギングやウォーキング、犬の散步をする人たちを除けば数名だろう。
しかし、僕の目に映る一人の姿があった。
ブロック塀の切れ目から現れた人物は車椅子に乗り、
しばらく進んだかとおもえば、すぐに止まる。
再び進んだように見えても五、六メートルしたところで止まってしまう。
背もたれから見える姿……どうやら老婆のようだ。
進んでは……止まる。
早歩きで老婆へと向かった。
「あの……こんにちは」
老婆は白い帽子の中で皺が刻まれた皮膚から汗を流している。
車椅子のハンドリムを回す、骨が浮き出た手は微かに震えていた。
「あら、こんにちは」
「あの……どこまで行きますか?」
『朝陽くん……』
と、背後から茜音さんの声がする。
「お墓参りに……ねえ」
今日はお盆の入りだ。
「どこのお墓ですか? 迷惑でなければ僕が押していきます」
「いえ、いえ、悪いよ、そんな」
年齢の判断は難しいけれど、お婆さんは八十歳を超えているだろう。
体力も弱まり筋肉も落ちた腕で車椅子。
陽射しも弱まってきてはいるが一人で墓地へ向かうことはあまりに無謀だ。
「理由があって家に帰れないので。ご迷惑じゃなかったら……お手伝いします」
「家出……かい?」
「いえ、違います。家に悪魔……鬼がいるので、まだ帰れないんです」
「鬼……虐待されているのかい?」
「親とか兄妹ではないです。ただ、そうですね……虐待に近いかもしれません」
「そうかい……かわいそうに……。大丈夫かい?
誰か……助けてくれる人はいないのかい?」
――半分、冗談なんだけど……。
お婆さんは手伝うことを了承してくれた。
向かう先は三キロほど離れているし途中には坂道もある。
それを先程のペースで行こうとしていたのだから驚いた。
ギターケースを背負い車椅子に手をかける。
肩に掛けたカバンの奥にある保冷バッグを探り、冷えた飲み物をお婆さんへ渡した。
夏場に外出する時は常に数本の飲料を携帯している。
最低でもニリットルは持つように、と、幼い頃から母に言われていた。
両の手は車椅子の手押しハンドル。肩にはカバン。
背中にはギター。中々の重労働だ。
「どこの子なんだい?」
「砂山といいます」
「ああ……砂山さんのところの子かい」
「ご存知なんですか?」
「地区の集まり……最近は顔を出せなくなったけど、お父さんとよく会っていたねえ」
「そうなんですか」
「あれえ……それじゃあ、葉月ちゃんのお兄ちゃんかい?」
「葉月のことも知っているんですか?」
「葉月ちゃんと皐月ちゃん、家で作った料理を私の家に届けてくれるんだよ。
一人暮らしを気にしてくれてねえ。
どれもおいしくて……いつもありがとねえ」
そうか……この人か。
葉月と母が一緒に保存できる料理を作り、一人暮らしの老人へ届けている、
と言っていたことがある。
「二人とも……お父さんとお母さんに似て優しい子だねえ」
「葉月だけですよ。僕は違います」
老婆は静かに笑い声を漏らした。
『朝陽くん、見て見ぬ振りをしない、すごく素敵なこと。
率先して助けに行く姿を見て師匠は嬉しいよ』
斜め後ろを一瞥し声にならない言葉を脳内で出す。
老人は嫌いだ。茜音さんと出会った頃に告げている。
しかし……一つの言葉で、すべての事柄は覆すことができる。
人による。
とても便利な言葉で対人関係の本質であるとさえ思う。
例えば、一つの言葉、一つの動作も人によって怒りを覚えることもあるし、
微笑ましく思うこともある。結局は人柄、関係性に左右されるのだ。
会話が無いのも寂しいから老婆に問いかける。
「ご家族の……お墓参りですか?」
「昔の……そうねえ……恋人、よ」
「そうなんですか」
「戦争が終わる頃に亡くなってしまって……ねえ。まだ……十七歳だったのよ」
――今の僕とほとんど同じ年齢……か。
つまり、お婆さんは九十歳を超えているのか。
「あの人は……志願したのよ」
「志願兵……失礼ですけど、止めなかったんですか?」
「――止めたわよ。離れたくないから……止めたわよ。
でもねえ……あの人は戦争に行ったのねえ」
「どうしてですか?」
「家族を守るため、国を守るために……行くってきかなかったのねえ。
ふふ、きみを守るため……とも言ってくれたねえ。
行かないで……と言っても……誠実で真っ直ぐな人だったから」
「そう……なんですか」
「出征の日、あの人は必ず勝って戻る、って。それっきり……ねえ。
戦友に私のこと話してくれていたみたいでねえ。
終戦後に戦友の方が手を尽くして遺書を届けてくれたのよ」
お婆さんは過去を振り返り震えていた。
「あの人のお墓には遺骨も……なにも無いのよ。
戻ったら……結婚しよう、って約束してたんだけどねえ……」
鼻を啜り上げる音がした。
「私は結婚……家庭を持たなかったからねえ。
葉月ちゃんや皐月ちゃんが顔を見せに来てくれると……娘や孫がいたら、
こんな感じだったのかな……なんてねえ。あら……孫と曾孫かしらねえ」
と、身体の震えは涙と笑いによるものが混在していた。
慕っていた男性の戦死。
お婆さんは操を立てるために結婚せず、家庭を持たず一人きりで生きてきた。
どれほどの寂しさと苦しみがあったのだろうか。
今の時代に操を立てる、ということをする者は多くないだろう。
一人の人を想うこと。
その観念すらないかもしれない。
現代は一人を慕うことよりも多くの人と関係を持つことが前提という節もある。
軽い付き合いを望んでいることもあるだろう。
それが悪い、ということではないのかもしれないけれど……。
美しくもない。




