降雨の夏 14
*
両端に田んぼが連なる道路は虫の鳴き声が響く。
夏祭りで人々が生み出す喧騒も風流であるけれど、
どこか厳かで絶え間ない癒しを持った生命の囁きが心地良い。
『夏の夜の田舎道もいいねー』
「あんまり際を歩くと田んぼに落ちますよ」
『わかってるよー、大丈夫、大丈夫。
――ほら、見て。都会と違って余計な光が無いから星がこーんなにきれいだよ』
頭上には満点の星が意思を持っているかのように輝いていた。
茜音さんはモモダーを飲み左右に揺れながら歩いていく。
胡桃にモモダーを渡したから再度購入した物だ。
『デート楽しかったね』
「違いますよ」
『デート!』
「違います」
『デート……!』
「違います」
『デリ――』
――デリ……?
『デリケート! はい、私の勝ちー』
と、微笑みモモダーを一口飲む。
少しばかり笑みを残した状態で遠くに点在する民家の明かりを見つめていた。
一人分前に歩き出した彼女は静かに言葉を出す。
『――胡桃ちゃん……心と身体が痛い、って言ってるよ』
「そうです……ね」
『胡桃ちゃん、泣いてたよ』
「わかっていますよ」
『朝陽くんは……どうしたいの?』
「どうしたい……って」
『そう。どうしたいの? 素直に言葉を出せばいいのに』
歩みを止めた僕は唇をわずかに噛み締め押し黙る。
『どうして言葉にしないの?
私……朝陽くんは打開策があるんだろうな、って思ってる。
一緒にいるから……なんとなくわかるよ。胡桃ちゃんに言い淀む時がある。
――なにかの理由があって言いたくないの? 口にするのが怖いの?』
「いいですよ、僕の話は」
『私には話してくれてもいいと思うけど』
と、前を向いた瞬間、舗装路の際を歩いていたことで、
夜露に濡れた草と湿った土に足を取られ彼女の態勢が崩れる。
瞬時に足を踏み出し彼女の細腕をしっかりと掴んだ。
アスファルトに白い袋が落ちグシャッという音が虫の鳴き声の中に混ざる。
目の前には大きな瞳を何度も瞼で隠す茜音さんがいた。
『あ……ありがと』
「さっき……言ったじゃないですか」
アスファルトが敷かれたところまで引っ張り細腕から手を離した時だった。
茜音さんの右手が僕の左手の自由を奪う。
手のひらに触れたのはギターから彼女を引っ張り上げた時以来だ。
「なんですか……」
『助けてくれたお礼……手を繋いであげようと思って』
と、視線は真っ直ぐに伸びた暗がりの道を見ている。
「いいですよ、お礼なんて。それに……お礼にはならないでしょう」
『本当は嬉しいくせに』
「別に嬉しくないですよ。手を握るだけで嬉しくなる人っているんですか?」
『わー、すさまじい強がりー、ここにいるじゃん。今、私に手を繋がれてる人』
「ずいぶんとひどい思い込みですね」
『本当は嬉しいんでしょ? 素直になればいいのに』
彼女は普段と違って目を合わせようとしない。
手を振りほどくことなく、お互いが言葉を出さず、無言のまま夜道を越えていく。
自宅に到着するまで僕たちは手を繋いだままだった。
茜音さんの手のひらは温かく柔らかい。
指先が絡み合うと何かが胸の辺りを裏側から叩く。
夏の夜の伴奏は誰が指揮しなくとも、静かに明日を迎えるために笑っていた。
*
夏休みも半分を過ぎていた。お盆の初日。
アルバイトから帰ると、最近、脳裏に描いていた不安が的中した。
自室の扉を開けた瞬間に硬直する。
茜音さんは漫画を読むでも、タブレットを見るわけでもなくベッドに腰掛け、
僕に『おかえりー』と、いつも通りの笑顔を向けた。
他に二つの声が僕に当てられる。
「お兄ちゃん、おかえりー!」
「ようっ! あっちゃん!」
膝は微かに笑っている。
――なんで……なんで……。
瞬きを速くしたところで現実が変わることはない。
右手に持っていたトートバッグは、するりと指先から離れドサッと床に倒れた。
大石凪咲が目の前にいる。
ガラステーブルに飲食物を無造作に広げ床には漫画が散らばっていた。
「お兄ちゃん……! サプラーイズ……!」
一時的に声帯を失った。声が出ない。
以前、葉月が言っていたサプライズとは凪咲が自宅に来ることだったのか。
「サプライズ! 喜びなよ! 私がせっかく来たんだから!」
と、忌まわしい笑顔を僕に向けた凪咲は、細く切られたポテトを口へ放り込む。
凪咲の黒髪のショートカットは耳に掛かるくらいで切れ長な目は僕をじっと見ている。
一度に大量のフライドポテトを迎え入れる薄い唇は油で光っていた。
「お兄ちゃんの分もあるよー! 今日はチートデイなのです……!」
テーブルには有名ファストフード店のバーガーが二〇個ほど並べられて、
皿に移されたフライドポテトも十個以上購入したと思われ小さな山となっていた。
他にも紙箱で包装されたパイ生地で包まれた物、
ソフトドリンクやシェイクと思わしき飲み物も十個ほど並んでいる。
二人共、身体が細い。どこへ入っていくというのだろう。
女子にしては身長が高い凪咲は手足もスラリとしたモデル体型だ。
目の前の大量の飲食物を食らうのは葉月ではなく彼女だ。
「はあ? リアクション無し? 引くんだけど」
と、凪咲は悪態を吐きアップルパイを咀嚼している。
唇から落下していったパイ生地の破片は彼女の水色のショートパンツの皺に溜まり、
それをパンパンと手で叩き落とし床へ散らす。
指先に付着したポテトの塩も同様の動作で落としている。
――こ、こいつ……。
凪咲は漫画を手に取りパラパラと捲りながら視線は僕から離さない。
わかっている。床に散らばっている漫画が、なぜそこにあるのか。
久しぶりの対面であろう葉月との間に漫画など必要ない。積もる話があるはずだ。
読みもしないのに大量の漫画がある理由。
キャラクターが描かれた紙にフライドポテトの油を付着させ、
指に残ったパイ生地の残りカスをページの間に挟んでいるのだ。
ニヤニヤとした顔が、それらの行動を楽しんでいることを如実に表している。
意識が飛びそうだった。
「ちょっと……なぎちゃん。汚れた手で漫画触るのやめてよ。お兄ちゃん嫌がる」
「えーー、大丈夫だよ。あっちゃんは、そんなことで怒らないでしょ。
ねえ? そうでしょ? 怒らないよね?」
小中学校で僕は「あーくん」と、呼ばれていた。
凪咲は、それ以前から知っているから、僕のことを「あっちゃん」と呼ぶ。
「は、葉月……なんで、僕の部屋で食べているんだよ」
「え? だから、サプライズ。一緒にチートデイ……一緒に食べようと思って」
「感謝しなよ、童貞野郎。
こんなにかわいい子二人が一緒に食べてあげるんだから」
頭が重くなり身体の反射も鈍くなっているはずだ。呼吸もうまくできていない。
これが……トラウマというものなのだろう。
『ちょっとしたパーティーみたいで楽しいね。
私もポテト食べたいなー、いいなー』
と、ベッドに座った茜音さんは身体を揺らしている。
僕はハッとして壁に立て掛けてあるギターケースへ目を向けた。
『あ、その子……なぎちゃんが触ろうとしてたけど葉月ちゃんが止めてたよ』
胸を撫で下ろし食べ進める二人を無言で見つめた。
「いつまでそこに立ってんの? 目障りなんだけど。
てか、普通に童貞丸出しじゃん。立つのは勃起だけにしとけよ」
「なぎちゃん、やめてよ。そういうこと言わないで。
なんで喧嘩腰なの? 久しぶりの再会なのに。
お兄ちゃん、バイトから帰ってきて疲れてるんだよ、きっと。
――ね、座って一緒に食べようよ」
と、葉月は床を軽く叩いた。
――ああ、ダメだ。
この時ばかりは普段から騒がしい葉月が大人しく見えるほどだ。
彼女の前には悪魔が座っている。
片方の口角を上げテリヤキソースの入ったバーガーを強い咀嚼で潰している。
「ね、お兄ちゃん、座って。一緒に食べよ」
「――早く座れ、童貞。お前のこと喰うぞ、色々な意味で。早く座れ」
天使の甘い言葉、悪魔の醜い恫喝。
促されるまま二人の間に座る。
『朝陽くん、どうしたの? 顔色が……具合悪いの?』
と、茜音さんはベッドから気遣う言葉をくれる。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なに……」
「なぎちゃんさ、前より、もっとかわいくなったよね?」
目の前に並んだ様々な色の包装紙から視線を離すことができない。
扉を開けた時に一瞥した凪咲の雰囲気は変わっていた。
顔を合わせなくなってから四ヶ月ほどで変わるものだろうか。
胡桃も大きく変わって……いや、彼女の場合はメイクによるものだ。
葉月が言うように確かに大人びたようにも見えるし、
落ち着いたというより、どこか陰りを含んでいるような気がした。
「やめてよ、はっちゃん」
凪咲は葉月のことを「はっちゃん」と呼ぶ。
「――そんなこと言って……まあ、事実だけどさ。
意識されたら、童貞のあっちゃんが暴発しちゃうから。
今出さなくても、私が帰ったら、妄想の中で何回も犯されちゃう。
私が座ってたところの匂いを嗅いでとかさ。多分、七発はするだろうね、少なくとも。
これは最低の回数ね、治まらなかったらもっとするよ」
――下品だ……。まるで品がない。
「もうやめてよー、なぎちゃん」
と、ケラケラ笑う葉月は口に含んだ飲料が漏れ出す。
「いや、冗談じゃないよ、本当に。絶対にやるから。
今日の夜、いきなり部屋に入ってみればわかるよ。
必死に……鬼の形相で手を動かしてるから」
「もうやだー、そんな話しないでよー」
凪咲には煮え湯を飲まされたことが何十回とある。
僕が中学三年生の頃だ。川沿いの土手にある階段の頂上で白い野良猫を触っていると、
背後から強い衝撃を受け階段下まで転落し左手首を骨折した。
朦朧とする意識の中で見上げ、階段上で強い西日が当たった犯人の顔は見えなかった。
骨折が直った頃に凪咲が挨拶代わりの蹴りだったと自白してきたのだ。
その時の病院に通った経験で老人の不必要な通院などについて知ることになる。
自白したことを葉月が両親に告げると普段は温厚である母が彼女を強く叱責したが、
「あっちゃんが私をイジメた仕返し」
と、悪びれる様子もなく言っていた。イジメた覚えなどない。




